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彭小蓮(ポン・シャオリェン) 追悼

満山紅柿 上山 ― 柿と人とのゆきかい

Manzan Benigaki

日本/2001/日本語/カラー/16mm/90分

【第1期撮影 1984.11−1985.1】
監督:小川紳介
助監督:飯塚俊男
撮影:田村正毅
現地録音:菊池信之

【第2期撮影 1999.11−12】
監督:彭小蓮(ポン・シャオリェン)
撮影:林良忠(ジョン・リン)
現地録音:菊池進平
現場制作:尾形充洸
通訳:劉含発(リュウ・ハンファ)
製作協力:安井喜雄

【仕上げ】
編集構成:彭小蓮
編集助手:見角貞利
整音:久保田幸雄
音楽:縄文太鼓
製作会社:上山名産・紅干柿の記録映画をつくる会
共同製作:白石洋子
製作協力:プラネット映画資料図書館
提供:山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー

小川紳介監督が残したフッテージと構成メモを元に、彭小蓮(ポン・シャオリェン)監督が追加撮影し、まとめ上げた作品。上山の紅干柿の全行程を、丁寧かつ艶やかに描いているほか、紅干柿のための道具や用具を発明・生産している人々や、「柿商い」を営むおばあさんの語り口、姿を魅力的に映し出している。全体を通して、紅柿というささやかな、しかし不思議にチャーミングな生きものと、この地(上山)の人々が行き交いつつ生きる世界を描く。



 彭小蓮さん。久しぶりにお手紙を差し上げます。先日、あなたが亡くなったと聞きましたが、全く実感が湧かず、何とお悼みを言えばいいのか戸惑っているからです。

 もう20年も昔、私たちは一緒に映画を作りましたね、『満山紅柿』です。完成まで3.5年かかりました。あなたを探し当てるのに1.5年、あなたが承諾してくれるまで更に1.5年。何と直接手紙が届くようになるまでに1.5年も掛かったのです。長かった! しかしクランク・イン〜初号までは駆け足で進みました。こんなに短時間で小蓮も彼女のクルーも、あの紅柿の時間を生きられるのだろうか? 不安でした。しかも当時、あなたはニューヨークでグリーンカードを申請中。編集の最中に当局から呼び出し状が届いたのです。

 「じゃああと10日で終えるよ!」。あなたの大進撃が始まり、11日目の朝、あなたは「次はダビングに来るからね」と晴々と発って行きました。けれども私は満足し、幸せでした。ともかくも小蓮さん、あなたは98年晩秋、小川監督が未完のまま遺した「紅柿篇」に導かれて紅柿の風土を巡り、また地つづきの枯野の小部屋でその小川のフィルムをカット、あなた自身のそれと繋ぎました。そうして99年早春、姿を現わしたのが『満山紅柿』。名付け親は小蓮さん、あなたです。

 第2期撮影で撮ったシーン中、あっ小蓮さんやったね! と嬉しかったのは、村の自転車店、今野一さん再訪です。5〜6年前に比べ、確かに姿は末枯れ髪も白くなっているのに若々しい。あっいつもよりおシャレしている! と分かるのは、イキな豆しぼり文様の真っさらな手拭い。彼は正にいま、小蓮クルーの軽みに楽しく乗ってくれているのでした。

 小蓮さん、『満山紅柿』は、将来はもっと多くの人々に喜んでもらえるはずの映画です。未来に開かれています。小蓮さんさようなら。必ずまた会いましょう。

夕日に映える満山紅柿のむら
白石洋子


小川紳介

link 『ニッポン国古屋敷村』参照



- 彭小蓮(ポン・シャオリェン)

1982年、北京電影学院の芸術学部学士を修了。1994年、ニューヨーク大学映画学部にて映画制作の博士課程を修了。小川紳介監督との交流は、1991年夏、小川プロに寄宿し小川監督の指導の下、約1時間の調査フィルムをまわした。翌年夏に再来日し、この調査にもとづき『私の日本の夢 ― 在日中国人留学生』をクランクインする予定だったが、1992年2月に小川監督が死去し、企画は中止された。主な作品に『我和我的同学們』(1986)、1991年に日本の中国映画祭で上映された『女人故事 ― 女のものがたり』(1988)、上海を舞台にした『上海紀時』(1998)、『上海家族』(2002)、『美麗上海』(2003)など。社会派作家としても活躍し、著作に『上海家族』(竹書房)など。2019年6月死去。