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2015.03.16

広がる衝突と「文化戦争」――《むき出しの暴力》を防ぐために

志田陽子 憲法、言論・芸術関連法

社会 #「新しいリベラル」を構想するために

危惧されてきたもの

2015年1月、フランスで起きたシャルリー・エブド事件を報じるニュースを見て、まず連想したのは、かつてアメリカで頻発した人工妊娠中絶クリニックの医師殺害事件、そして2004年に起きた映画監督テオ・ファン・ゴッホ殺害事件だった。その後の関連事件の地理的広がりや一般社会・国際社会の反応は、今や比べ物にならない大きさになっているが、すべて宗教的価値感情が関わっている(少なくともそう見える)点では共通している。アメリカでは、とくに人工妊娠中絶をめぐる社会的衝突は、「文化戦争」culture warsの典型例とされている。

フランスの事件の直後、これを報じた記事の中に「文化戦争」という言葉を取り上げていたものがあった。ひとつ確認をしておくと、「文化戦争」は物理的な戦争を指す言葉ではないので、テロ事件の衝撃性そのものを取り出して「文化戦争」と呼ぶべきではないだろう。殺害行為などの暴力そのものに対しては、それに応じた対処が論じられるべきである。今、問題はあまりにも大きく複雑な国際問題になってしまったように見える。しかし、私たち自身がこの問題を悪化させる一因とならないために、本稿のような角度からの考察も必要だろうと考えた。

起きた事件への心痛と嫌悪感はまったく正当な反応だが、これがイスラム文化(に属する人々)への偏見や憎悪や沈黙強制に転じる懸念、つまり「文化戦争」に向かう懸念が深刻化している。この傾向を回避する必要については、シャルリー・エブド事件やIS人質殺害事件以来、イスラム文化に属する多くの人が社会に向けて訴えているとおりである。

他方で、事件の背後にあった社会問題として、それらの風刺表現に宗教的心情を傷つけられてきたとする人々の問題があるわけだが、その問題をあまりにもナイーブにこれらの事件への情状酌量として語ることは、その裏返しとして「イスラム=テロリストの温床」というステレオタイプ化に滑り込んでしまう。これも「文化戦争」の特徴である「アイデンティティの衝突」に陥る道である。そのような衝突のありようと危険については、先に「シノドス」誌上に掲載された論考をはじめとして、多くの識者が示しつつある。

 

「文化戦争」とは

「文化戦争」という言葉には、主に二つのルーツがある。一つは19世紀ドイツでビスマルクがカトリック教会の勢力を封じるために行った政策“Kurturkampf”のことで、一般に「文化闘争」と訳されている。もう一つは英語の“culture wars”で、この言葉は1980年代の終わりにアメリカでハンター(James Davison Hunter)という宗教社会学者が使って有名になった言葉で、こちらは「文化戦争」と訳されることが多い。

19世紀ドイツの「文化闘争」も20世紀アメリカの「文化戦争」も、宗教が深くかかわっている点では共通しているが、今危惧されるのは、後者の意味での「文化戦争」だろう。以下では、アメリカの「文化戦争」から抽出できる普遍的な分析枠組みを足場にして、危惧されている状況がどういうことなのか、考えてみたい。

アメリカで論じられてきた「文化戦争」は、価値観の対立や生活文化・芸術文化のあり方などの文化的な事柄が政治上の争点となり、どちらをとるかをめぐって政治と社会の両方が二分される状況を言う。アメリカでは主に宗教、人工妊娠中絶、同性愛、歴史教育、芸術への助成、(人種)差別是正策などを具体的な対立軸にしてそうした現象が起きてきた。今日であれば、医療費政策(オバマケア)や移民政策改革をめぐる議論もここに入るだろう。

この分裂・対立には三つの特徴がある。一つは、この分裂が政策論争と大衆社会の両方の領域にまたがって起きることである。たとえば選挙候補者のテレビ討論があれば、それに呼応して一般社会のほうでも、どちらを支持するかが人々の政治的関心事となるわけだが、これが選挙をめぐる議論にとどまらず、雇用拒否や憎悪表現や憎悪暴力などを含む社会的分断・衝突につながるような状況が典型的な状況と言える。

二つめの特徴は、論争の関心が利害の対立よりも社会がとるべき価値の問題へ向かうことである。女性の社会進出に対しては「家族の価値」が対抗し、出産に関する自己決定に対しては「生命の価値」が対抗し、同性愛者の権利承認に対しては「道徳と伝統の価値」が対抗する。人々の利害にもっと直接にかかわる経済政策や、人々の安全・生命に直接にかかわる軍事政策の議論はその背後で進み、人々の関心の対象となるのは価値の問題としてのライフスタイルや、安心感の問題としての危険な文化アイデンディティとなり、さらにこれが監視と排除の対象としての関心を集めるようになる。たとえば、1960年代のゲイカルチャー領域、冷戦期の「赤」、2001年以降の「イスラム」などがその例である。

ここでは《価値の選択をめぐる討議》というよりは、ゼロサム的な勝敗を賭けた《価値の争奪戦》が起きる。しかも、一方の当事者にとっては価値観や道徳感や安心感の問題であっても、その結果はもう一方の当事者の市民生活上のさまざまな利害につながってくる。

三つめの特徴は、価値観やライフスタイル、歴史観などをめぐる論争が、人種や民族や宗教などの「文化的アイデンティティ」のレッテルへと単純化されていき、アイデンティティ集団への排斥感情や相互衝突に結びつきやすいことである。

つまり、近代国家の思考法では個人の価値選択の問題とされて良さそうな事柄が「〇〇愛者」や「〇〇系移民」や「〇〇信者」といったアイデンティティに結び付けられやすく、そのアイデンティティに極端に単純化されたイメージ(ステレオタイプ)が与えられてしまう。同性愛者は性犯罪者、イタリア系移民はマフィア、といった具合である(思考法としては、共産主義に共感を示す者はすべて危険人物、という冷戦期のステレオタイプに通じるものがある)。これがアイデンティティ集団相互の排斥や衝突を引き起こす危険も高い。

アメリカでこの状況がいつから起きていたかは論者によって見解が異なり、1960年代にすでに「文化戦争」が見られたとする見方もあるし、1980年代後半以降の、新保守主義が政界に大きな影響力を持つようになった時期に特徴的なこととする見方もある。たしかにこうした状況は市町村のローカルな政治単位では1960年代かそれ以前から起きていたことだが、全米レベルで大統領候補者や議員がこの動きを利用する傾向を見せたのは80年代以降に特徴的なことに見える。筆者は、これはローカルな現象であると全国規模の現象であるとを問わず、また、よりグローバルな規模の現象となっていることも含めて、あらゆる政治・社会に起こりうることとして普遍化できる問題だと考えている。

《公》と《私》の区分線の奪い合い

ここでは大ざっぱに、私たちの日常の生活文化の場面を《私的領域》と呼び、一方、議会での議論や公人の演説や選挙、公金の使い道、裁判所、公立学校、といったような場面を《公的領域》と呼ぶことにする。「文化戦争」では、《政治は公的領域》、《文化や価値観の問題は私的領域ないし個人の自由の領域》、という《公私の線引き》が揺らいでいるのが特徴である。

私的領域において人々の価値観やライフスタイルに違いがあることは、各種の自由が保障されている社会にとって当然に織り込まれている日常的現実である。また、公的領域においてなんらかの争点を対立軸にして論戦が戦わされることは、民主政治の中に当然に織り込まれている日常的現実である。しかし、「文化戦争」においては、近代国家(近代憲法)がいったんは分別した(つもりでいた)この二つの路線の区分が崩れ、あらためて政治の関心事として論争の材料となる。

たとえばアメリカでは、女性が避妊の知識を得ることや人工妊娠中絶の施術を求めることを自己決定の権利として認めるかどうかという問題や、同性愛者の権利(刑事罰の廃止や雇用差別の禁止や同性婚の制度容認)をどこまで認めるかという問題が大きな論争となってきた。これらの事柄を自由化すること(私的自由に委ねること)はアメリカという国家のアイデンティティを揺るがすことであるかのように語られ、その意味でこれらが公的な関心事として扱われた。そこに宗教勢力の強い政治的関与と社会的影響があったことはかなり知られた事実である。

《公私の線引き》のあり方自体は、常に議論されるべきことで、論争があるということが問題なのではない。問題は、議論を重ねるよりも大衆を直感的に動員することで「勝敗」の決着をつけようとする動きが政治の側で顕著になり、それと呼応するように、社会のほうでも衝突が活発化することである。

アメリカではフランスと同じく政教分離(国教樹立禁止)が憲法原則に組み入れられ、宗教に関してこうした状態が起きないように配慮が組み込まれている。しかし実際には、ある宗教が推奨または嫌悪するライフスタイルが、政治と法を通じて強制的に共有または排除される状況や、その是非をめぐる社会的衝突があることが、かなり観察されているわけである。表向き採用されてきた《公と私》、《統治と宗教》といった領域区分は、その意味で、相当に崩れていたのである。

「文化戦争」問題の拡大

上記のような「文化戦争」の本質的性格は、アメリカだけに限られるものではなく、世界中のどこでも観察される。その中でフランスは、今紹介したような政治状況をもっとも明確に回避しようとしてきた国だと言える。政教分離についても、文化多様性(多文化主義)を認めるにあたっても、公的領域では国家は中立性を保ち、すべての人に「フランス市民」であることを要求しつつ、私生活領域においては文化の多様性を認めるという線引きを保ってきた。これはカナダやオーストラリアなどの多文化主義国家に比べると、消極的な容認姿勢である。「文化戦争」への危惧というのは、この線引きが決壊し、政治と法と社会と個々人の生活文化がいっしょくたになって衝突の波の中で揺れ動くことへの危惧だ、と言ってもいい。

フランスとアメリカとでは、先鋭化する具体的問題は異なっている。フランスでとくに論争の対象となってきた問題としては、公共の場で女性がイスラム・スカーフを着用することを禁止する法律をめぐる対立と、《表現の自由か、宗教的尊厳の保護か》をめぐる対立が挙げられる。さらに、イスラム・スカーフ問題とも連続するが、女性(ないし女性性)のあり方をめぐる価値観の対立や、教育(とくに女子への)をめぐる価値観の対立も含まれるだろう。

現在、女子教育をめぐる衝突は、世界的な関心事となり、衝突の焦点ともなっている。フランスを含む西欧諸国では女子への教育はまさに「公」が担うべきテーマで、公立学校で女子が学ぶことは男子が学ぶことと平等に公的な関心事である。しかしイスラム社会文化の一部には、女子教育について異なる価値観を持つ人々、女子に関する事柄は男性家父長が治める「私事の領域」に属するものと考える人々もいる。ここで《公・私》の区分線を誰が引くのかという決定権を、むき出しの暴力によって強奪している「ボコ・ハラム」のような武装集団も存在する(もちろん、暴力的強奪の問題をイスラムというアイデンティティと同一視するべきではないことは、先に述べたことと同じである)。

シャルリー・エブド事件の背景の問題となった「表現」をめぐる衝突も、《公・私》の線引きをどうするかという問題が根底にある。まず「表現の自由」という法ルールは公的なものである。個々の表現の内容は、個々人の自由だが、その表現がメディアに乗って広く伝搬するとき、それは私的なものにはとどまらず公共空間のものとなる。「表現の自由」の価値を擁護する理論の多くは、これが個人の人格――私的領域――に深くかかわるという理由だけでなく、民主主義を支えるものとしての――公共の――意義を持つことを重要な論拠にしている。

個々の表現には公共的価値の高いものもそうでないものもあるに違いないのだが、ここで言われる「表現の自由」の保障は、そこに流通する個々の表現の価値の有無・高低の問題としてではなく、あらゆる表現が流通できる社会環境をすべての人に保障するものであるという意味で、公的なものである。

他方、宗教について見ると、個人の――そして個人が自由に集まって形成する宗教集団の――「信教の自由」の保障というルールは、先に見た「表現の自由」と同じ意味で、すべての人に平等なルールとして、公的なものである。そして、だからこそ特定の宗教の価値観や教義を、公的なものとして採用することはできないことになる。その意味で、それぞれの宗教的信念は《私的なもの》という扱いになる。

神や創始者の姿を視覚化してはならない、といった特定宗教の価値観や教義も、立法や司法を通じて一般社会に強制することまではできない。しかし、この「政教分離」と「国家の中立性」の土俵の上だけで考える限りは、「神や創始者を視覚化しても良いという文化もまた、特定宗教の文化ではないのか、なぜそちらだけが公的なルールとして許容されるのか」、という問いが拮抗してしまう。この問いに対しては、宗教的価値観とは別路線の世俗的ルールとしての「表現の自由」が優先するのだと答えることになる。

近代の西欧国家が採用してきたこれらの原則は、実際には揺るぎのないものではなく、アメリカでもフランスでもそれぞれの形で異議申し立てを受けてきた。筆者は、フランスで起きた殺人事件がこの異議申し立ての動きの中から発生したものなのか、別の筋から《目立つ者が標的にされた》と見るべきなのか、確信をもって判断することができず、後者である可能性も排除できないと考えている。しかしそのどちらであっても、起きた事件そのものの犯罪性とその社会的背景とは区別して考察すべきだと考えている。

多文化主義とアイデンティティの罠

「文化戦争」はアイデンティティの衝突という形をとりやすい。問題を個々人の考え方の違いや個別の責任としてとらえるよりも、あるアイデンティティに共通の文化的特徴として捉えた上で、真摯な論争よりも当該アイデンティティへの制圧と反発の応酬という形につながりやすいのである。シャルリー・エブド事件以来、「私は〇〇」「私は〇〇ではない」という言い方で多くの人が自分の価値観を表明していることについては、自発的な社会現象である限りは「表現の自由」の一環として正当なことなので、本稿にとって中心的な関心事とはならないだろう(ただしこの潮流が演出された政治的劇場であったとする見方が成立するならば話は違ってくるが、本稿では立ち入らないことにする)。

仕組まれたものであるかどうかはともかく、本来は《暴力を非難し、「表現の自由」を擁護する姿勢》の表明であったものが、宗教的・文化的アイデンティティとしての《イスラム》への非難に変質し、これが《イスラムvs.非イスラム》の対立に変化し、政治的衝突が日常化するようなことがもしも起きてくると、「文化戦争」として危惧される事態ということになる。また、本来は中立的なルールであるはずの「表現の自由」が、イスラム系の人々を黙らせる合言葉として作用しているとしたら、これも危惧すべき状況となる(その方向に作用しているとの指摘もある)。

欧米の政治と社会がそうした状態へと進んでいることの兆候は、報道される出来事からしてかなりあると感じられるが、そして日本を含めたアジアでも同じ傾向がすでに部分的に見られるが、まだ回避できる道でもある。いま、イスラム文化に属する人々の多くが呼びかけている通り、テロリストと宗教アイデンティティとを混同しないことが必要だろう(クリニック襲撃事件が起きたアメリカでも、中絶反対を掲げるカトリック系キリスト教の信者がいっしょくたにテロリスト扱いされることはなかったことを思い起こしておきたい)。

ところで、アイデンティティ型の政治思考は、多文化主義の特徴とされてきた。土地の利用権を求める先住民族、公的雇用における差別の撤廃を求める性的マイノリティ、自言語の公認を求める文化集団など、マイノリティ集団がその集団の地位向上のための政策を求めて政治に働きかける場面がある。こうした集団の動きは「アイデンティティ・ポリティクス」とも呼ばれる。このタイプの政治運動をする多文化主義が「文化戦争」を招くという見方も、社会の中にはあるようである。

この二つは、実社会では絡み合うことが多いにしても、問題系としては別々の問題と考えるべきである。「文化戦争」は多文化主義が険悪化ないし脱線している状況だ、と言うことはできる。そして、険悪化ないし脱線を招いている要因を、他に問うべきだろう。

多文化主義は、先住民族や移民集団が何らかの歴史的経緯によって征服を受けたり、文化面でフェアとは言えない同化強制を受けてきた(十分に同化できないことをもって「劣等」のレッテルを貼られる理由にされてきた)背景があることを前提として、そういう状況への見直しと是正を求める主張である。アメリカの場合にはこの問題と人種差別問題などが合流し、広い問題領域をカバーする議論になっていく。こうした動き自体は、民主政治のルートに乗せていくことができるもので、これを「文化戦争」と呼ぶべきではないだろう。しかし、こうした主張が他の見解を排除する自文化絶対主義に陥ったり、多数者の側がこれらを過剰に危惧して抑え込む方向に動いたりすると、状況は「文化戦争」に傾いていく。

憲法論から「文化戦争」を考える意味――何が問題か

じつは「文化戦争」においては「何が問題なのか」というところを掴む作業が必要である。政治的論争が舌戦においてバトルの様相を呈しても、それは近代憲法が認めているバトルであり、これを「文化戦争」と呼んで問題化する必要はない。また、理性的言語よりも直感的選択を重視した政治説得や大衆参加があることも、それ自体が問題なのではない。しかしその論戦が人々の価値観やライフスタイルを制圧の対象とし、さらに一般社会の差別や憎悪を助長する危険を伴ってくるとなると、これは人権保障を掲げた憲法の観点から見て看過できない問題となる。

そのような衝突は、マイノリティ側が泣き寝入りしているうちは起きてこない。弱い立場にあった者たちが声を上げたからこそ、不一致が顕在化し、抑え込もうという衝動も高まり、衝突の可能性が高まる。こうなったとき、衝突が起きないようにするためにマイノリティを衝突以前の沈黙状況に引き戻そうとする方向は、民主政治の観点からも憲法的観点からも本末転倒になる。まずはこのことを確認するために憲法論が必要である。

もともと民主主義の国家であれば、社会内にさまざまな価値観の違いが《ある》ことが当然の前提で、だから暴力を回避しつついろいろな調整をするルートとしての《民主政治過程》があり、信教の自由や表現の自由といった個人の自由権が憲法で保障される。フランスやアメリカなどの憲法では《政教分離》によって衝突を回避する仕組みが政治・統治の土台に組み込まれたことは先に見た通りである(日本の憲法もこの原則を明確に採用しているが、その遵守のあり方は比較にならないほどルーズである)。

また、おおよその方向として個人の価値観の違いを認めるリベラルな国家・社会は、価値観の問題に政策や法律を通じてタッチすることはせず、個人の選択の自由に委ねることを原則としている。憲法はその背後に控えて、「自由」を保障しつつ、その中身や趨勢については見守る姿勢を取ることになる。

しかし、ある論争テーマが先に見たような「文化戦争」の状態に陥ると、特定の集団が排斥され、または文化的信条を否定された結果、社会の中に居場所を失う、といったことが起きやすくなる。「文化戦争」は一方が勝てば一方が敗者になるというゼロサム的な闘争になりやすく、とりわけアメリカのローカルな政治では、刑法と警察力による制圧をめざす動きが双方に起きやすい。ここで敗者の人権保障や政治参加の道が剥奪・縮減される可能性が懸かっている場合には、憲法も成り行きを見守るだけでは済まなくなってくる。状況を憲法問題として取り上げ、人権保障の内容の再確認や、民主主義の意味の再確認によって、立憲的な歯止めをかける議論が必要になってくる。

憲法論から言えること

この用語を分析枠組みとして使ったハンターは、紛争に至る前の段階での公的・政治的議論の活性化が大切だと言う。このことを憲法論のほうで受けるならば、紛争が裁判所の判断に委ねられることになったときの憲法理論は当然必要だが、訴訟で勝敗をつけるというゼロサム型の解決よりも、そこに至る前の段階の対話や民主主義の活性化、アジェンダの組み込みのほうを重視すべきだ、ということになる。

アメリカ連邦最高裁では、一時期、ごく一部で、「司法は文化戦争には関わらない」という意見が出されたことがあった。仮に申し立てられている事柄が、特定の宗教教義を「正統」と認定するよう求めるものだったり、当事者の現実的利害とは関係のない道徳的善悪の宣言を求めるものだったりした場合には、たしかに「司法はタッチしない」という姿勢をとるのが正解だろう。このこと自体は近代国家における司法のあり方として、もともと確認され続けてきたことである。

一方、ここで当事者にとって実害が生じており、当事者がそこからの救済を求めて訴えを起こしているときには、「文化戦争が生じているから」「司法が介入すると文化戦争が悪化するから」といった理由で司法が身を引いてしまっては、裁判所本来の職責を放棄することになる。だから、裁判所が介入すべきでない事柄と、裁判所が本来の職責を果たさなければならない事柄とを適切に見分けるために、「文化戦争」に応じた「憲法的害」を認識することが必要である。それはほとんどの場合、「もともとの憲法論をブレずに堅持すべき」との確認になるだろう。

その中で、「文化戦争」についてとくに付け加えるべき視点としては、《法や正義に名を借りた一方的な追い詰め》が起きていないかという問題を、これまでよりも丁寧に精査する必要がある。たとえば動物愛護を目的とした法律が、ある宗教信者にとっては信仰上重要な伝統行事を封じられることになったり、ある文化集団にとっては長く実践してきた日常の食生活を封じられることになる、というような場合である。そして、この種の問題については、紛争が起きてからの裁定型の解決よりも、社会がその情報を共有し、その法律の中に文化的配慮を盛り込むかどうかを政治のプロセスの中で話し合うことのほうが重要である。

フランスで多くの人が一致団結して叫ぶようになった「表現の自由」と「私はシャルリー」というスローガンが、こうした意味での追い詰めとして作用していないか、もしもそういう局面が観察されるならばどのような対話が必要か、ということが、今、問われていると思う。それは、遠いフランスの出来事として見るべきではなく、日本社会にも直結する問題である。

司法による判断は万能薬でも最終解決でもない

ここで、法的解決のことにも触れておきたい。シャルリー・エブド社の掲載する風刺画は、8年前にイスラム系の団体から軽犯罪上の侮辱として提訴されている。この訴訟については、2007年に3月、問題となっている風刺画は「表現の自由で許される範囲を出ていない」とする無罪判決が下されている。

公共空間の場面で、自分の集団の価値への同調を、法の強制力をもって他者に強制することはお互いに認められないのは先に見た通りである。ただ、この「全員公平に禁止」「全員公平に自由」というルールが、ある当事者にとって公平なものに思えない、という事情がある。そこをどう汲むかは、それぞれの国がそれぞれの対応をすることになる。たとえばイスラム・スカーフの着用についても、国ごとに扱いは異なっているが、フランスのように法律によって厳しい禁止を課したとき、それが先に触れた「特定集団の追い詰め」になっていないかどうか、精査する必要はある(一時期の社会的反発は収まり、今は学校に入校する前にスカーフを脱ぐことに同意する女子学生がほとんどであるとは聞いているが)。

もちろん、国ごとに選択・決定の余地があるとはいえ、殺人や人身売買を「文化の独自性と多様性」を根拠にして自由化することはできない。これは公共場面と私的領域との両方を貫徹するルールとして、すでに十分に合意を得た共通規範だと思われてきた。が、じつはこの部分でさえ、公使の線引きをめぐる問題が司法の場で提起される場面も見られる。

家庭内など私的空間での文化的独自性は、原則としては私的な自由に委ねられるのは先に触れたとおりである。しかし、そこに所属する人々を「個人」として見たとき、そしてその「個人」にさまざまな人権が確保されているかという問題を考えたとき、憲法と国家は「家庭内の問題は私的領域のことだからそれぞれの家庭に任せる」と単純に言いきるわけにもいかなくなるのである。

たとえばイスラムの「名誉殺人」など、家庭内で傷害や殺人が起きたとき、背景にその人々の文化特有の慣習がある場合もある。英米の社会でそうした事件が起きたとき、事件の法的責任について当事者の文化的独自性を情状酌量の材料とすることは「文化の抗弁」と呼ばれ、英米の裁判ではこれが認められることがある。欧米社会で女性の社会進出や平等な権利保障、そして児童の人権保障が高い関心を集めるにつれ、この問題も摩擦の様相を深めることになる。イスラム系の人々が当事者となる裁判で「文化の抗弁」が認められることで、かえってその文化的アイデンディティへの社会的反発が深刻化するとの指摘も聞かれる。

こうした問題を考えるには、その前提として、人命など、いくつかの普遍的な価値を確認することが必要になる。つまり、逆説的ではあるが、文化の多様性を尊重する社会を実現しようとするならば、だからこそ、《文化や価値観の違い》に解消できない《普遍的な価値》を洗い出し濾過する作業が不可欠になってくるのである。

ここで各文化それぞれの価値観を《多様性の尊重》の標語のもとに無濾過のまま公共空間や《人権保障》の思考に持ち込めば、社会内の衝突は激化する。だから司法は、世俗の世界で「これだけはどうしても」と言える共通価値(人命など)と、社会の共通プラットフォームとして確認される権利(「表現の自由」や「信教の自由」)を擁護する、という判断をすることになる。

しかしここでぜひ確認したいのは、司法の判断は最終の結論ではない、ということである。ここで自らの文化に基づいた自尊への尊重を求める人々が、司法の救済のあるなしを最終的な回答だと思ってしまうと、国家から軽視されているという鬱屈を溜めこむことになりかねない。司法はこうした場面で人間存在を救う万能の機関ではなく、あくまでも世俗的な利害紛争への世俗的解決を行う機関でしかなく、これを便宜上「救済」と呼んでいるだけだ、という割り切った見方が必要になる。

「表現の自由」を開き続けること

私たちは、何か問題が起きたとき、禁止することや制裁を課すことを「正義の実現」と考えやすい。しかしこれは多くの選択肢の一つにすぎない。当事者の対話の場を確保することや、課題を民主政治のプロセスに組み込ことや、被害者への救済や、加害者への禁止・制裁といった選択肢がある中で、どのルートが適切なのか、具体的場面に応じた解決ルートを見分ける作業が必要なのである。

その中で、刑法による「禁止」「処罰」を通じた解決は、その導入をめぐって当事者が《勝つか負けるか》の関係に立ってしまうため、対立をかえって深める可能性が高い。その前に可能な限り他のルートを模索すべきで、刑法による制圧は、どうしても他の手段がない場合の最終手段と考えるべきだろう(筆者はいわゆるヘイトスピーチへの刑事規制についても、可能な限り、この観点から検討すべきだと思っている)。もちろん、殺人や傷害を刑法と警察力で抑え込むことはこの観点から見ても正当だし必要である。しかし、その背後にあって負のエネルギーを貯めこむ要因となってきたような文化的軋轢(あつれき)の問題については、あえて平時の地道な解決思考を、粘り強く維持すべきである。

たとえば、日本で1985年に起きた「アイヌ肖像権訴訟」では、「そういう描かれ方をしたら当事者の自尊感覚は深刻に傷つくのだ」、ということを当事者が訴えたとき、当事者の請求を認める判決には至らなかったが(裁判は和解で終了)、裁判そのものが社会に対して気付きを促した、という例がある。ここではマスメディアが果たした役割も大きい。判決が最終解決を提供できた事例とは言えず、原告にとっては不本意だった可能性もあるが、だからこそ本稿の関心にとっては重要な判決だと言える。

私たちは、「表現の自由」の保護が優先されるという判決が出たら「勝負はついた、そこで終わり」というイメージを持ちやすい。たしかに裁判の判決は、勝訴・敗訴という形をとるので、そうした印象を与えやすい。しかし、その印象で終わらせないことが必要である。司法判断の意味について、マイノリティに「敗者」としてのレッテル(スティグマ)を与える方向でこれを受け止めないように、社会自身がある種の見識を維持する必要がある。ここでマイノリティの立場にある人々が事実上「その話はこれでおしまい、もう黙れ」と命じられたことになってしまうと、あとは自力救済としての《むき出しの暴力》が出現する。こうなると、「司法が判断を示すことが文化戦争を悪化させる」という流れが現実のものとなってしまう。これは「表現の自由」そのものにとって、矛盾となる。

「表現の自由」を保障する国で「表現の自由」を支持する判決が出たとき、その判決は、ある表現についてお墨付きを与える価値認定をしたわけではなく、すべての表現に共通のプラットフォームとしての「自由」を擁護している。「表現の自由」を擁護するということは、風刺表現の自由を認めると同時に、風刺表現によって宗教的自尊感覚を傷つけられるという主張や、それはなぜなのかという宗教文化の説明をすることもまた同じプラットフォームの上で自由に表現し続けることができる、ということを意味しているのでなくてはならない。

もしも社会の側がこのことを誤解すると、「表現の自由」を擁護する意味は失われ、「文化戦争」が悪化するおそれが高まる。また、マイノリティにとって対抗言論を出せない社会状況なっている、ということが観察されれば、「表現の自由」を後退させて、マイノリティの人格を傷つける表現を規制する必要が相対的に高まってくることになってしまうのである。「私はシャルリー」というプラカードを掲げる行為の意味が、そうした追い詰めの方向に滑らないよう、その表明の本来の意味を表明者たちが確認し続けることが必要である。地味な結論だが、「そこでおしまい」にしない、開かれた言論環境を維持することが、状況の悪化を防ぐために何よりも必要なことだと考える。

■参考文献

J. Davison Hunter, Culture Wars: The Struggle to Define America (1991).

Kenneth L. Karst, Law’s Promise, Law’s Expression: Visions of Power in the Politics of Race, Gender, and Religion (1993).

トッド・ギトリン(疋田三良・向井俊二訳)『アメリカの文化戦争――たそがれゆく共通の夢』彩流社、2001)

Anne Phillips, Gender and Culture, (2010).

近藤健『アメリカの内なる文化戦争』(日本評論社、2005)

辻内鏡人『現代アメリカの政治文化――多文化主義とポストコロニアリズムの交錯』(ミネルヴァ書房、2001)

蓮見博昭『宗教に揺れるアメリカ』(日本評論社、2002)

現代思想「総特集◎シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」掲載の諸論稿(現代思想2015年3月)

文化庁「海外の宗教事情に関する調査報告書」(文化庁、2008年)

志田陽子『文化戦争と憲法理論――アイデンティティの相剋と模索』(法律文化社、2006年)

志田陽子「多文化主義とジェンダー」全国憲法研究会編『憲法問題』23号(2012年)

志田陽子「マルチカルチュラリズムと表現の自由」駒村圭吾・鈴木秀美編『表現の自由Ⅰ状況へ』(尚学社、2011年)

(外国文献の出版地・出版社は省略しました。翻訳のあるものは翻訳書のみを示しました)

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「「公安テロ情報流出事件」裁判――警察はあらゆる個人情報を自由に集められるのか」井桁大介 / 弁護士

サムネイル「WomenofAlgiers」ウジェーヌ・ドラクロワ

プロフィール

志田陽子憲法、言論・芸術関連法

武蔵野美術大学造形学部教授、「シノドス」編集協力者。憲法と芸術関連法を専門にしている。本稿と関連する編著図書として、『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)、『映画で学ぶ憲法 2』(法律文化社、2022年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)がある。

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