楊 国忠(よう こくちゅう、? 蒲州永楽県の出身。 学問を好まずに酒と博打を好み、行いが定まらず、一族の嫌われ者であったが、30歳の時に蜀地方軍に入り、軍功を挙げて新都県尉に任命された。任期が終わった後、困窮して蜀地方の富豪の鮮于仲通に資金を提供してもらっていた。遠縁のおじの楊玄琰(楊貴妃の父)の死後、その家に行き、娘の一人(楊貴妃の姉、後の虢国夫人)と私通していたという。 楊貴妃が貴妃に冊された天宝4載(745年)頃、剣南節度使の章仇兼瓊が長安にいる楊貴妃の一族と結ぼうとした。鮮于仲通の紹介で彼と会い、容貌がすぐれて弁舌が立つため、気に入られて多くの財貨を与えられ、長安への使いとなった。一族に会い、財貨をばらまいて、寡婦となっていた虢国夫人の家に入る。