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大本営政府連絡会議(だいほんえいせいふれんらくかいぎ)は、1937年(昭和12年)11月に設置された、大本営と政府間の協議のための会議である。1940年(昭和15年)11月に大本営政府連絡懇談会に改称。さらに1941年(昭和16年)の第3次近衛内閣において再度、大本営政府連絡会議となる。 大本営の最高意思決定機関は「大本営会議」で、統帥権の独立により、出席できるのは天皇と陸軍・海軍の統帥幹部に限られていた。そこで政府首脳との意思統一・疎通の場として、連絡会議が設置された。議長は内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長・軍令部総長(場合によっては次長も)が出席した。また内閣書記官長と陸軍省・海軍省の軍務局長が幹事として出席した。 連絡会議では議長に強い権限はなく、誰もイニシアティブを発揮できない仕組みになっていた。さらに陸海軍同士のセクショナリズムも強く、情報共有どころか、予算や資材を巡るやり取りの場に化することもあった。こうしたことが、戦争指導に重大な欠陥をもたらすことになった。 東條の後を受けた小磯国昭は、連絡会議を「自由な放談あるいは議論を述べることができる」場とするべく、1944年8月、連絡会議を最高戦争指導会議へと発展的解消させた。出席者は連絡会議よりさらに限定されたが、政軍の一元的な戦争指導は最後までついに実現しなかった。

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  • 大本営政府連絡会議(だいほんえいせいふれんらくかいぎ)は、1937年(昭和12年)11月に設置された、大本営と政府間の協議のための会議である。1940年(昭和15年)11月に大本営政府連絡懇談会に改称。さらに1941年(昭和16年)の第3次近衛内閣において再度、大本営政府連絡会議となる。 大本営の最高意思決定機関は「大本営会議」で、統帥権の独立により、出席できるのは天皇と陸軍・海軍の統帥幹部に限られていた。そこで政府首脳との意思統一・疎通の場として、連絡会議が設置された。議長は内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長・軍令部総長(場合によっては次長も)が出席した。また内閣書記官長と陸軍省・海軍省の軍務局長が幹事として出席した。 連絡会議では議長に強い権限はなく、誰もイニシアティブを発揮できない仕組みになっていた。さらに陸海軍同士のセクショナリズムも強く、情報共有どころか、予算や資材を巡るやり取りの場に化することもあった。こうしたことが、戦争指導に重大な欠陥をもたらすことになった。 日米開戦後の東條内閣では、輸送船舶と物資の不足に悩む東條英機総理と、作戦行動などを一切明さず徒に船舶を損耗していく統帥部との間で、対立が深刻化。昭和天皇の臨御を求めなければ決着できない事態に至った。1944年(昭和19年)2月、東條総理兼陸相が参謀総長を、嶋田繁太郎海相が軍令部総長を兼任するという、大日本帝国憲法下異例の事態を現出した。 東條の後を受けた小磯国昭は、連絡会議を「自由な放談あるいは議論を述べることができる」場とするべく、1944年8月、連絡会議を最高戦争指導会議へと発展的解消させた。出席者は連絡会議よりさらに限定されたが、政軍の一元的な戦争指導は最後までついに実現しなかった。 (ja)
  • 大本営政府連絡会議(だいほんえいせいふれんらくかいぎ)は、1937年(昭和12年)11月に設置された、大本営と政府間の協議のための会議である。1940年(昭和15年)11月に大本営政府連絡懇談会に改称。さらに1941年(昭和16年)の第3次近衛内閣において再度、大本営政府連絡会議となる。 大本営の最高意思決定機関は「大本営会議」で、統帥権の独立により、出席できるのは天皇と陸軍・海軍の統帥幹部に限られていた。そこで政府首脳との意思統一・疎通の場として、連絡会議が設置された。議長は内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長・軍令部総長(場合によっては次長も)が出席した。また内閣書記官長と陸軍省・海軍省の軍務局長が幹事として出席した。 連絡会議では議長に強い権限はなく、誰もイニシアティブを発揮できない仕組みになっていた。さらに陸海軍同士のセクショナリズムも強く、情報共有どころか、予算や資材を巡るやり取りの場に化することもあった。こうしたことが、戦争指導に重大な欠陥をもたらすことになった。 日米開戦後の東條内閣では、輸送船舶と物資の不足に悩む東條英機総理と、作戦行動などを一切明さず徒に船舶を損耗していく統帥部との間で、対立が深刻化。昭和天皇の臨御を求めなければ決着できない事態に至った。1944年(昭和19年)2月、東條総理兼陸相が参謀総長を、嶋田繁太郎海相が軍令部総長を兼任するという、大日本帝国憲法下異例の事態を現出した。 東條の後を受けた小磯国昭は、連絡会議を「自由な放談あるいは議論を述べることができる」場とするべく、1944年8月、連絡会議を最高戦争指導会議へと発展的解消させた。出席者は連絡会議よりさらに限定されたが、政軍の一元的な戦争指導は最後までついに実現しなかった。 (ja)
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  • 大本営政府連絡会議(だいほんえいせいふれんらくかいぎ)は、1937年(昭和12年)11月に設置された、大本営と政府間の協議のための会議である。1940年(昭和15年)11月に大本営政府連絡懇談会に改称。さらに1941年(昭和16年)の第3次近衛内閣において再度、大本営政府連絡会議となる。 大本営の最高意思決定機関は「大本営会議」で、統帥権の独立により、出席できるのは天皇と陸軍・海軍の統帥幹部に限られていた。そこで政府首脳との意思統一・疎通の場として、連絡会議が設置された。議長は内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長・軍令部総長(場合によっては次長も)が出席した。また内閣書記官長と陸軍省・海軍省の軍務局長が幹事として出席した。 連絡会議では議長に強い権限はなく、誰もイニシアティブを発揮できない仕組みになっていた。さらに陸海軍同士のセクショナリズムも強く、情報共有どころか、予算や資材を巡るやり取りの場に化することもあった。こうしたことが、戦争指導に重大な欠陥をもたらすことになった。 東條の後を受けた小磯国昭は、連絡会議を「自由な放談あるいは議論を述べることができる」場とするべく、1944年8月、連絡会議を最高戦争指導会議へと発展的解消させた。出席者は連絡会議よりさらに限定されたが、政軍の一元的な戦争指導は最後までついに実現しなかった。 (ja)
  • 大本営政府連絡会議(だいほんえいせいふれんらくかいぎ)は、1937年(昭和12年)11月に設置された、大本営と政府間の協議のための会議である。1940年(昭和15年)11月に大本営政府連絡懇談会に改称。さらに1941年(昭和16年)の第3次近衛内閣において再度、大本営政府連絡会議となる。 大本営の最高意思決定機関は「大本営会議」で、統帥権の独立により、出席できるのは天皇と陸軍・海軍の統帥幹部に限られていた。そこで政府首脳との意思統一・疎通の場として、連絡会議が設置された。議長は内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長・軍令部総長(場合によっては次長も)が出席した。また内閣書記官長と陸軍省・海軍省の軍務局長が幹事として出席した。 連絡会議では議長に強い権限はなく、誰もイニシアティブを発揮できない仕組みになっていた。さらに陸海軍同士のセクショナリズムも強く、情報共有どころか、予算や資材を巡るやり取りの場に化することもあった。こうしたことが、戦争指導に重大な欠陥をもたらすことになった。 東條の後を受けた小磯国昭は、連絡会議を「自由な放談あるいは議論を述べることができる」場とするべく、1944年8月、連絡会議を最高戦争指導会議へと発展的解消させた。出席者は連絡会議よりさらに限定されたが、政軍の一元的な戦争指導は最後までついに実現しなかった。 (ja)
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  • 大本営政府連絡会議 (ja)
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