城柵(じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷(ヤマト王権、中央政権)が、本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設である。城柵は朝廷が蝦夷の居住地域に支配を及ぼすための拠点となる官衙であると同時に、柵戸と呼ばれる住民を付随する施設でもあり、兵を駐屯させる軍事的拠点でもあるという複合的な性格を有していた。 現代の歴史学では特に東北地方及び新潟県(陸奥国、出羽国、越後国)に置かれた政治行政機能を併せ持つものに限って言うことが多い。城柵は軍事拠点としての性格を有する一方で、中国地方や九州地方に築かれた古代山城と比べると防備が弱く、官衙としての性格が強いのが特徴である。 なお、前九年の役、後三年の役で安倍氏や清原氏が軍事拠点として設置した柵(、金沢柵、など)は成り立ちや性格が異なるので、一般的にはここで言う「城柵」に含めない。