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四井 主馬(よつい しゅめ、生没年不詳)は、戦国時代、安土桃山時代の忍者(初代)。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩士、富山藩士(二代)。四井は「しい」とも読む。 初め甲斐国の武田氏に仕えていたとされ、後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍軍を率いていたという。天正13年(1585年)2月村井長頼に従い加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている。関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという。その後主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず西軍に味方したとされて改易になった。なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない。 子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え、元和侍帳では四井喜兵衛 百石と記され、御馬廻衆に属した。その後父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える。寛永14年(1637年)本多政重・横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている。同16年(1639年)前田利次の富山立藩に従い、30石を加増された。承応4年(1655年)越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に23石が支給された記録が残る。二代藩主正甫の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった。

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  • 四井 主馬(よつい しゅめ、生没年不詳)は、戦国時代、安土桃山時代の忍者(初代)。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩士、富山藩士(二代)。四井は「しい」とも読む。 初め甲斐国の武田氏に仕えていたとされ、後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍軍を率いていたという。天正13年(1585年)2月村井長頼に従い加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている。関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという。その後主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず西軍に味方したとされて改易になった。なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない。 子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え、元和侍帳では四井喜兵衛 百石と記され、御馬廻衆に属した。その後父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える。寛永14年(1637年)本多政重・横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている。同16年(1639年)前田利次の富山立藩に従い、30石を加増された。承応4年(1655年)越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に23石が支給された記録が残る。二代藩主正甫の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった。 (ja)
  • 四井 主馬(よつい しゅめ、生没年不詳)は、戦国時代、安土桃山時代の忍者(初代)。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩士、富山藩士(二代)。四井は「しい」とも読む。 初め甲斐国の武田氏に仕えていたとされ、後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍軍を率いていたという。天正13年(1585年)2月村井長頼に従い加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている。関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという。その後主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず西軍に味方したとされて改易になった。なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない。 子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え、元和侍帳では四井喜兵衛 百石と記され、御馬廻衆に属した。その後父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える。寛永14年(1637年)本多政重・横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている。同16年(1639年)前田利次の富山立藩に従い、30石を加増された。承応4年(1655年)越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に23石が支給された記録が残る。二代藩主正甫の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった。 (ja)
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  • 四井 主馬(よつい しゅめ、生没年不詳)は、戦国時代、安土桃山時代の忍者(初代)。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩士、富山藩士(二代)。四井は「しい」とも読む。 初め甲斐国の武田氏に仕えていたとされ、後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍軍を率いていたという。天正13年(1585年)2月村井長頼に従い加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている。関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという。その後主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず西軍に味方したとされて改易になった。なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない。 子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え、元和侍帳では四井喜兵衛 百石と記され、御馬廻衆に属した。その後父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える。寛永14年(1637年)本多政重・横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている。同16年(1639年)前田利次の富山立藩に従い、30石を加増された。承応4年(1655年)越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に23石が支給された記録が残る。二代藩主正甫の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった。 (ja)
  • 四井 主馬(よつい しゅめ、生没年不詳)は、戦国時代、安土桃山時代の忍者(初代)。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩士、富山藩士(二代)。四井は「しい」とも読む。 初め甲斐国の武田氏に仕えていたとされ、後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍軍を率いていたという。天正13年(1585年)2月村井長頼に従い加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている。関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという。その後主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず西軍に味方したとされて改易になった。なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない。 子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え、元和侍帳では四井喜兵衛 百石と記され、御馬廻衆に属した。その後父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える。寛永14年(1637年)本多政重・横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている。同16年(1639年)前田利次の富山立藩に従い、30石を加増された。承応4年(1655年)越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に23石が支給された記録が残る。二代藩主正甫の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった。 (ja)
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  • 四井主馬 (ja)
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