下間 頼慶(しもつま らいけい、(1476年) - 天文10年6月11日(1541年7月14日)は、戦国時代の武将で、本願寺の坊官。の次男での弟。光頼、真頼、の父。通称は源四郎、官位は左衛門大夫、上野介。法名は蓮秀。後に法眼に任ぜられた。 本願寺第9世法主実如に仕え、永正3年(1506年)に摂津・河内の門徒が実如の異母弟実賢を擁立して法主交替を求めた事件(河内国錯乱)では実如の命令で実賢・実順・実従らを捕らえた。実如から孫の10世法主証如の補佐を命ぜられたが、享禄・天文の乱に際して甥の下間頼秀・頼盛兄弟との確執から本願寺を退去、天文4年(1535年)に証如が敵対していた細川晴元と和平を結び、主戦派として失脚した頼秀・頼盛兄弟に代わって本願寺へ帰参、和睦の使者として晴元の元へ赴き、幕府領の違乱を働く門徒の抑制と諸大名の外交に務めた。 天文10年(1541年)に死去。長男の光頼が後を継いだ。