短編コミック「日本語から翻訳された」
エイドリアン・トミネの Killing and Dying には6編のストーリーが収録してある。どれもスタイルが異なっているから、さまざまなスタイルの試み、と理解すればいいのではないか。
4番目のストーリーは TRANSLATED, from the JAPANESE という題名だ。「日本語から翻訳された」という意味だ。
この作品は17点のイラストレーションと、それぞれにともなった短い英語の文章で構成されている。最初の文章だけは日本語でも提示されている。
見開きの左のページに、日本語で言うところのミニ・ノートという小さなノートブックの、上から6行目から6行にわたって、日本語の文章が手書きしてある。黒いインクを使った、やや幼い雰囲気もあるが、真面目な字だ。
I という一人称の語り手が、このストーリーの主人公だ。見開きの右ページには、TRANSLATED, from the JAPANESE という題名が2行で入れてある。
ストーリーの語り手である彼女は、アメリカの男性と結婚していて子供がひとりいる、日本の女性のようだ。夫はカリフォルニアに置いて、子供を連れてしばらく日本にいた彼女が、カリフォルニアに戻ることにした、と書くところから、このストーリーは始まっていく。
彼女が書くこの文章は、何年かあと、子供に宛てて書いたものだ、という想定になっている。ストーリーが始まったときすでに、その始まりは何年かさかのぼる過去のことなのだ。
カリフォルニアへ戻る、という彼女の決定に、彼女の子供にとっての祖母や叔父、叔母たちは反対だった、と彼女は書く。祖母とは、彼女にとっては母親、そして叔父や叔母は彼女の兄弟や姉妹のことだろう。
彼らの反対にさからってカリフォルニアへ戻るのだから、「お互いに気まずいまま別れました。でもそれは仕方のない事でした」と彼女は日本語で書く。
最初の一節だけがこうして日本語で、すでに書いたとおり、日本で売っている小さなノートブックに黒いインクで手書きしてある。次のページを開くと、この日本語が英語になっていて、その短い文章に最初のイラストレーションが添えてある。
雪景色のなかを成田エクスプレスが成田に向けて走っていく光景だ。画面のいちばん奥でスカイツリーがかすんでいる。
「しかたがない」の見事な英訳
「でもそれは仕方のない事でした」という最後のセンテンスは、英語だと次のようになっている。
It was all very understandable.
しかたがない、という日本語の言いかたを、どのような英語にすれば意味が伝わるか、という議論は僕が子供だった頃からあった。ひと頃は盛んに議論された。英語ではこのように言えばいいのではないか、という実例があげてあることは、一度もなかったように思う。
しかたがない、という日本語をめぐって、かつてなされた多くの議論の結論は、この日本語は英語にはならない、ということだったのではなかったか。
見事な翻訳がここにある。
翻訳された英語を日本語に訳してみると、しかたがない、という言いかたを英語にするにあたって必要とされる思考の経路が、あらわになる。英語からの可能なかぎり中立な翻訳を心がけるとして、次のようにもなる。
「それらはすべてたいそう理解の出来ることでした」
日本語での言いかたを細かく砕いていくと、砕ききったところにあるのは、純粋な意味だけなのではないか。その意味を英語にすれば、それでいい。
細かく砕いていく過程を、抽象化していく、というような言いかたで表現したことが、かつての僕にはあった。言いかたとしては抽象化でもいいかと思うが、しかたがない、というおおまかな言いかたを相手にするのではなく、意味を細かく砕ききると、意味の最小単位としての核心が、そこに見える。