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2022/04/04

『アンドレ・バザン研究』第6号の入手方法

 『アンドレ・バザン研究』第6号は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。

 入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第6号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載したスマートレター(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第6号をご送付いたします。

 発送作業は2022年4月下旬以降に順次行う予定で、場合によっては一ヶ月程度ずれこむ可能性もあります。遅延しても必ず発送はいたしますので、どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。

【送付先】
〒990-8560
山形県山形市小白川町1-4-12
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会

※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。

※発送作業は研究所の所員が行うため、出張などにより発送まで10日間程度の期間をいただくこともあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。

※現在、頒布が可能なバックナンバーは、第3号第4号第5号のみとなっています。『アンドレ・バザン研究』第1号および第2号の頒布は終了しておりますので、ご留意ください。

※バックナンバーの入手を希望される場合は、必ずご希望の号を明記のうえ、送付希望先の住所・氏名を記載した冊数分のスマートレターを封入して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。

※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。
以上

2022/03/31

『アンドレ・バザン研究』第6号の刊行

 アンドレ・バザン研究会では、2021年度の(そして最後の)成果として、『アンドレ・バザン研究』第6号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2022年3月31日発行、A5判184頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします(【追記】入手方法についてはこちらのエントリーをご覧ください)。


 本号の目次は以下の通りです(解題は目次には非掲載)。

[特集]バザンの批評的実践
アンドレ・バザン「映画批評のために」(野崎歓゠訳)
      解題「アンドレ・バザンの出発」(野崎)
アンドレ・バザン「マルセル・カルネ『陽は昇る』」(角井誠゠訳)
      解題「批評と教育――アンドレ・バザンとシネクラブ運動」(角井)
アンドレ・バザン「解放以降のフランスにおけるシネクラブ運動」(須藤健太郎゠訳)
アンドレ・バザン「アヴァンギャルドの擁護」(須藤健太郎゠訳)
      解題「〈オブジェクティフ49〉の野心と冒険」(須藤)
アンドレ・バザン「フィルモロジーのフィルモロジー序説」(堀潤之゠訳)
      解題「批評と研究――バザンのフィルモロジー批判」(堀)
土田環「「アヴァンギャルド」という未知への投企――アンドレ・バザンと映画祭」
岡田秀則「《映画博物館》の誕生――パリ、メッシーヌ大通り七番地のアンドレ・バザン」
坂本安美「人間の声――アンドレ・バザンから始まる批評的実践」

[小特集]バザンと日本映画
アンドレ・バザン「日本の教え」(野崎歓゠訳)
アンドレ・バザン「『地獄門』」(大久保清朗゠訳)
      解題「アンドレ・バザンによる日本映画受容」(野崎)
アンドレ・バザン「『原爆の子』――黙示録への巡礼」(大久保清朗゠訳)
アンドレ・バザン「『おかあさん』――日本のネオレアリズモ」(大久保清朗゠訳)
アンドレ・バザン「『蟹工船』――日本の「ポチョムキン」」(大久保清朗゠訳)
アンドレ・バザン「『狂った果実』――戦後の日本の若者たち」(大久保清朗゠訳)
      解題「バザンと日本の「ネオレアリズモ」――「作家主義」から離れて」(大久保)
アンドレ・バザン「『西鶴一代女』」(木下千花゠訳)
      解題「作家の名――「溝口」の発見」(木下)

 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。

「戦闘的バザン」の教え――第六号イントロダクション
堀潤之

 2016年から足かけ7年にわたって活動してきたアンドレ・バザン研究会の活動の締め括りとして、本号の特集ではバザンが生涯をかけて取り組んだ「批評」という営みそのものを取り上げることにした。

 批評をめぐるバザン自身の文章としては、彼の最後のテクストの一つ「批評に関する考察」(本誌第二号に訳出)がよく知られている。だが、自らが携わる批評という営為を自己反省的に考察する「メタ批評」を、バザンが最初期にも手掛けていたことはそれほど知られていない。特集の冒頭を飾る「映画批評のために」は、本格的な批評をようやく書き始めたばかりの若きバザンがまさにそのような「批評の批評」を試みた意気軒昂な文章である。現下の映画批評の質の低さを嘆き、批評がどうあるべきかを綱領的に示す弱冠25歳のバザンは、自分がこれからどのような批評活動を展開し、それがどのような意義をもつのかをすでに見抜いていたかのようだ。その知的洞察に読者は感嘆を禁じえないだろう。

 先にも触れた晩年の「批評に関する考察」は主として活字による批評を対象としているが、その冒頭付近に「私はシネクラブでの討論も批評の一種と考えている」と記されていたことにも注意を促したい。実際、本特集が詳らかにするように、シネクラブを介して古典や現代の重要作の意義を観客に理解させることは、バザンにとって、文章の執筆と両輪をなす批評行為だった。本特集を「バザンの批評的実践」と銘打ったのは、彼の批評がエクリチュールの生産にとどまらず、観客とじかに接する実践の場にも及んでいたことを強調するためである。

 バザンは占領下からさまざまなシネクラブの活動に参与し、重要作の解説に邁進した。その明晰さによって聴衆を魅了したと言われる彼の解説は、具体的にどのようなものだったのか。管見の限り、映像も音声も残されていないその様子は、立ち会ったことのある人々の証言など(その一端は、本特集で坂本安美氏が紹介している)から想像するほかないのだが、ここに掲載した「マルセル・カルネ『陽は昇る』」は、何度も繰り返し行った同作品の解説を口述筆記でまとめたものであり、バザンの肉声が聞こえてくるような文章となっている。とりわけ舞台装置の役割を重視したその作品読解は、具体的な細部に寄り添った啓発的なもので、作品体験を豊かにしてくれる見事な内容だ。

 続く「解放以降のフランスにおけるシネクラブ運動」は、シネクラブの歴史的、教育的な意義を考察した文章で、「メタ批評」のシネクラブ版とも言えよう。自らの実践をつねに一歩引いたところから眺めて検討を怠らないバザンの知的誠実さの現れでもある。そのバザンが、おそらく実践面で最も先鋭的な振る舞いに打って出たのが、伝説的なシネクラブ〈オブジェクティフ49〉の創設であろう。そのマニフェストである「アヴァンギャルドの擁護」を読むと、必要なときには好戦的であることも厭わない「戦闘的バザン」の姿が垣間見えてくるようだ。

 その好戦性は、偽名を使って発表された「フィルモロジーのフィルモロジー序説」で頂点に達する。1940年代後半に、ジルベール・コーエン゠セアがソルボンヌを拠点として主導した学術的な映画研究プログラムである「フィルモロジー」は、よほど批評家バザンの腹に据えかねるところがあったに違いない。鋭利に研ぎ澄まされた匕首のようなバザンの筆鋒は、聖人君子の印象が強いこの批評家の別の面を露わにしている。この批判は、バザンが批評の営みに何を賭けていたのかを裏側から明らかにしてくれるだろう。

 本号ではさらに、映画上映・保存の実践に関わりの深いお三方から特別寄稿を頂戴した。土田環氏は山形国際ドキュメンタリー映画祭でギー・ドゥボールを上映した体験を、バザンの〈オブジェクティフ49〉と結びつけて、この批評家のアヴァンギャルド観の大胆な読み直しを図っている。岡田秀則氏は、アンリ・ラングロワ率いるシネマテークが1948年にメッシーヌ大通りに「映画博物館」を設立した瞬間に注目し、その杮落としの展覧会を紹介したバザンの小さな記事の含意を鮮やかに読み解いていく。坂本安美氏は、アンスティチュ・フランセにてシネクラブの伝統を現代的に発展させている自身の経験を踏まえつつ、バザンの「批評的実践」の意義を真っ向から考察する。バザンの精神が坂本氏の実践に谺しているさまに、読者も心を動かされるに違いない。

 小特集は、取りまとめを担当した大久保清朗氏の尽力により、バザンの日本映画論の精髄がくっきりと浮かび上がるものになったのではないかと思う。黒澤明の『羅生門』(1950)の「啓示」をきっかけとしてバザンが精力的に執筆した少なからぬ数の日本映画評は、私たちのよく知る当時の日本映画をプリズムとして、作家の顕揚とは異なるバザンの批評の一面を改めて伝えてくれる。極東のこの国で『アンドレ・バザン研究』を刊行する以上、大久保氏ともども、このテーマは避けて通れないと考えていた。六号にわたる本誌の締め括りとして、ようやくその責を果たせたことを私も嬉しく思っている。

 続いて、伊津野知多氏による編集後記の全文です。

 「いつの日かきっと、1905年から1917年にかけてのアメリカ映画における喜劇をめぐる800ページの博士論文、ないしそれに類した著作も登場することだろう。それが真面目なことではないなどとだれが主張できるだろうか」(「映画批評のために」)。批評家としてバザンがスタートを切ったとき、映画について真面目な研究書が登場することはまだ希望的な予測でしかなかった。他の諸芸術に比べて著しく歴史の浅い映画にもすでに歴史が存在しているというのに、あたかも歴史などないかのように映画は扱われ、批評言語も成熟していなかったからである。しかし批評家として脂が乗りきっていた彼の前に突如登場した「フィルモロジー」なる学術的な企てに対して、バザンはやっと映画が格上げされたことを喜ぶどころか、厳しく醒めた目を向けた。フィルモロジーが映画の具体的な実存に対する無知を戦略的に露呈することによって、大学人の劣等感を埋め合わせていることに気づいたからである。大学という場で映画研究に携わっている映画学者(フィルモローグ)の末裔かもしれない身に、このバザンの怒りは直接響いた。

 だが、当時バザンが発見した見知らぬ映画の産地である遠い極東の地で、バザンその人に捧げられた研究誌が六冊も発行されることまでは彼も予想できなかっただろう。バザン自体が歴史化されたともいえる現在だが、私たちはバザンを過去の遺物とは考えない。むしろ、現在の映画を、映像と観客との関係を、上映活動や映画祭のあり方を考えるための有効な参照点として、あえて言うなら映画論のアヴァンギャルドとして捉えている。そのことを彼に伝えられたらと思う。最終号となる本号では、当時のコンテクストを解き明かしつつバザンを現在へと繋ぐ各解題と、映画上映・保存の実践に携わる方々からの特別寄稿とともに、バザン自身の言葉をたっぷりとお届けする。

 日夜批評的実践に身を投じる中でつかみとられたバザンの理論には、極めて明晰で論理的でありながら、レトリックの効果にとどまらない独特の肌触りがある。バザンにおいて批評という営みと理論的思考は分かちがたく絡み合い、特異な映画論の身体を形作っているのだ。その肌理に迫るべく、これまでの号と同様に翻訳の質の向上に努め、原稿の綿密な確認を行った。編集担当と執筆者の間では校閲コメントで重くなったファイルが幾度もやりとりされ、折よくパリに滞在していた須藤健太郎氏には日本で入手困難な初出誌調査のために何度もBNFに足を運んでいただいた。編集協力の宮田仁氏とデザイン・組版の中村大吾氏の尽力にもどれほど支えられたことか。今回私は編集を担当しただけだが、それでも対面の研究会が開催できない状況下で、文字だけを通してこの上なく充実した研究活動をしているという実感が確かにあった。この厳しくも心地良かった時間を今は名残惜しく思う。

 バザンひとりが遺した膨大な言葉の質量に対して、集合知で挑んだ本誌の成果はごくささやかなものかもしれない。だとしても、本誌全六冊を通して『アンドレ・バザン全集』という巨大な岩にアタックするためのいくつかの足がかりは残せたと自負している。 
(J. H)

2021/04/16

『アンドレ・バザン研究』第5号の入手方法

  『アンドレ・バザン研究』第5号は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。

 入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第5号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載したスマートレター(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第5号をご送付いたします。

 ただし、新型コロナウイルスの影響が見通せないことから、発送作業は2021年5月以降に順次行う予定で、場合によっては一ヶ月程度ずれこむ可能性もあります。遅延しても必ず発送はいたしますので、どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。

【送付先】
〒990-8560
山形県山形市小白川町1-4-12
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会

※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。

※現在、頒布が可能なバックナンバーは、第3号第4号のみとなっています。このエントリーに記載のとおり、『アンドレ・バザン研究』第1号および第2号の頒布は終了しておりますので、ご留意ください。

※バックナンバーの入手を希望される場合は、必ずご希望の号を明記のうえ、送付希望先の住所・氏名を記載した冊数分のスマートレターを封入して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。

※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。
以上

『アンドレ・バザン研究』第2号 頒布終了のお知らせ

 このエントリーに記載のとおりすでに頒布終了している『アンドレ・バザン研究』第1号に加えて、第2号も好評につき残部がほぼ尽きましたので、本日をもって頒布を終了いたします。今後、増刷の予定もありません。

 閲覧にあたっては、お手数ですが、国会図書館(こちらを参照)や、大学図書館(こちらを参照)をご利用いただければ幸いです。

2021/03/31

『アンドレ・バザン研究』第5号の刊行

  アンドレ・バザン研究会では、2020年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第5号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=角井誠、堀潤之、伊津野知多、2021年3月31日発行、A5判140頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします




 本号の目次は以下の通りです。

[特集]不純なバザンのために
角井誠「リアリズムから遠く離れて――アンドレ・バザンのアニメーション論」
アンドレ・バザン「アニメーション映画は生き返る」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「倫理的リズムあるいは九去法」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「ペリの危機」(角井誠゠訳)
伊津野知多「不純な存在への賭け――バザンとテレビ」[解題]
アンドレ・バザン「永遠についてのルポルタージュ――『ロダン美術館訪問』」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「映画館よりテレビ向きの映画もある」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「テレビの美学的な未来――テレビは最も人間的な機械芸術だ」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「テレビ、誠実さ、自由」(伊津野知多゠訳)
細馬宏通「3D映画のミザンセヌ――『ダイヤルMを廻せ!』を捉え直す」[研究ノート]
三浦哲哉「魂の現実性とは何か――翻案、預言、反復」[研究ノート]

 [小特集]バザンの収容所映画論
堀潤之「リアリズムの臨界――バザンと収容所映画」[解題]
アンドレ・バザン「『最後の宿営地』」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「収容所的ゲットー――『長い旅路』」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「『夜と霧』」(堀潤之゠訳) 

 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。

映像の「実存」――第五号イントロダクション
角井誠

 「不純な映画のために――脚色の擁護」(1952)のなかでバザンは、サルトルの「実存は本質に先立つ」という文句を踏まえて次のように書く。「映画に関して、実存はその本質に先立つといわなければなるまい。批評家は映画の実存から出発すべきなのだ――それに大胆きわまる拡大解釈を加えようとする場合でも」(『映画とは何か(上)』岩波文庫、2015年、168頁)。映画を何らかの「本質」によって規定する本質主義と訣別し、移りゆく映画の「実存」に寄り添おうとする批評家バザンの姿勢が鮮明に打ち出されたこの一節には、ずっと心惹かれるものがあった。

 もちろん、バザンにも本質主義的な側面はある。写真映像の特性を起点にリアリズムの美学を語るバザンは、ときに本質主義に限りなく接近する。本誌第二号掲載の最初期の論考「リアリズムについて」などがその最たる例だろう。他方で、バザンは、文学や演劇の脚色の増加という現象を前に、それを本質主義のもとに断罪するのでなく、「不純な映画」として擁護した。バザンが論じた「映画の実存」は、脚色映画ばかりではない。1950年代には、テレビが普及し、それに伴って映画も変容を被った(シネラマやシネマスコープなどの大型スクリーン、3D映画の登場など)。バザンが、そうした変容にもしかるべき批評的関心を寄せていたことはこれまでも知られてきた。

 そして2018年のバザン全集刊行は、映像の「実存」に対するバザンの関心のさらなる広がりを明らかにしてくれた。二巻本でほぼ三千頁の全集には、三千篇近いテクストが並ぶ。長文の論考で理論的な思索を深める一方で、バザンは時評家としてテレビも含む膨大な作品を取り上げていった。日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に書かれた時評だけでもおよそ千四百篇と全集の約半数を占める。「映画の実存から出発すべき」という言葉は決してはったりではなかったのである。本号では、(実写の)映画ばかりでなく、多種多様な映像の「実存」と向き合うバザンを「不純なバザン」と名付けて特集タイトルに掲げた。バザン自身の用法では、「不純な映画」は、映画と他の諸芸術の関係にのみ関わるものであるが、ここでは「不純」の語をやや広義にとらえた。

 まず、拙論とともに、バザンのアニメーション論の翻訳を掲載する。バザンがアニメーションについても時評や批評を書いていたことはあまり知られていない。『全集』の頁を繰るうち、ふと目に止まったアニメーションについての時評に興味をそそられて、アニメーション論を体系的に読む作業を行った。拙論は、同時代の文脈を踏まえ、バザンのアニメーション論を辿るものとなっている。ディズニーに対するアンビヴァレントな関係や、反ディズニー的な「アニメーション映画」への関心は、バザンの映画論を考えるうえで新たな視座を与えてくれるのではないかと思う。また、CGの導入に伴って実写とアニメーションの境界が揺らぐ現在、「カートゥーン・フレンドリー」なバザンに光を当てることにも少なからぬ意義があると信じたい。

 続いて、伊津野知多氏による解題とともに、バザンのテレビ論をお届けする。先行研究を紹介しつつ、バザンのテレビ論の主要なモチーフを浮かび上がらせる伊津野氏の解題は、きわめて有用なイントロダクションとなっている。そこでは、対象を映画からテレビに変えつつも、メディウム固有の美学や心理学、「不純なテレビ」の可能性を探るバザンの姿が精緻に描き出される。新たなメディアと向き合うバザンの果敢な思索は、変化するメディア状況の中にいるわれわれにも示唆を与えてくれるに違いない。 細馬宏通氏による寄稿は、バザンの3D映画論を起点に、彼自身は見ることのできなかった『ダイヤルMを廻せ!』(1954)の3D版を分析することで、3D映画に固有の演出に迫ろうとする刺激的な論考である。「ゼロ平面」や「ゴースティング」などの概念を発明しつつ、3D映画の美学的可能性を描き出すその見事な手つきは、バザンのそれを彷彿とさせさえする。

 三浦哲哉氏の研究ノートは、バザンの「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」を再読するもので、語の本来の意味での「不純な映画」に関わる。しかし三浦氏は、「魂」や「預言」の語に着目し、バザンの議論の根底で作動するカトリシズム特有のイメージ論を炙り出すことで、バザンの映画論を大胆に読み直してみせる。

 小特集「バザンの収容所映画論」では、堀潤之氏による解題とともに、強制収容所をめぐるバザンの映画評の翻訳をお送りする。バザンのリアリズム論が、写真映像の特性ばかりでなく、強制収容所など「現実世界をめぐる状況論」にも由来するという堀氏の鋭利な指摘にあるように、これらのテクストは、特集とはまた別の角度から、バザンの本質主義、リアリズムを問い直すものであるだろう。

 全体として、本号では比較的知られていないバザンの顔に光を当てることとなった。バザンの批評は広大である。そこにはまだ、われわれの知らないバザンが眠っている。

 続いて、堀潤之による編集後記の全文です。

 前号のイントロダクション「『バザン全集』からの再出発」で、私は2018年末に刊行された全集がもたらした衝撃について語り、「今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう」と述べた。本号の特集「不純なバザンのために」で取り上げたアニメーション論とテレビ論という二つの「まとまり」は、まさに『全集』が可能にした綿密な読解作業を礎に成り立っている。

 なるほど、いずれのトピックも「未聞」とまでは言えないかもしれない。野崎歓氏もエルヴェ・ジュベール゠ローランサン氏も、バザンとアニメーションという一見したところ相容れない組み合わせに早くから注目していたし、テレビ論に関しては、とりわけダドリー・アンドルー氏が編纂した『アンドレ・バザンのニューメディア』(2014)に英訳がまとめて収録されて以降、その存在が広く知られ、様々な観点からの研究が活発になされているからだ。とはいえ、バザンの数多あるアニメーション論およびテレビ論を渉猟し、そのエッセンスを論考ないし解題で独自の観点から浮き彫りにし、幾つかのキーテクストを訳出した角井誠氏と伊津野知多氏の貢献は決して小さなものではないだろう(なお、これまでの号と同様、論考については厳正な査読を行い、翻訳もすべて綿密なピアチェックを経ていることを付言しておく)。特集には、バザンを一つの契機として3D映画論という未踏の領域に切り込まんとする細馬宏通氏と、バザンのよく知られた脚色映画論を搦め手から見事に読解する三浦哲哉氏の研究ノートがさらなる彩りを添えてくれた。

 小特集「バザンの収容所映画論」でも、バザンの相対的に知られざる三篇の映画評を繋ぎ合わせることで、ごく小規模なものとはいえ、私なりに「未聞のまとまり」を見出そうとした。これが単なるマイナーな記事の発掘にとどまるものではなく、戦時下のユダヤ人大虐殺の表象をめぐる「ランズマン以前」の議論の地平を見据えるための作業であることが、解題によって詳らかになっていることを願うばかりである。

 今回、バザンが日刊紙『ル・パリジャン・リベレ』に寄せた一四〇〇本近くの掌篇のうちの二篇を、本誌で初めて訳出できたのも嬉しいことだ。バザンがその決して長くない批評家としてのキャリア全体を通じて、ほぼ三、四日に一篇のペースで書き続けた短いながらも鋭利な評には、しばしば後に別の媒体で発展していく論点が凝縮されていることも多く、従来アクセスが困難だったこれらのカプセル・レビューを一種の「映画日誌(シネ・ジュルナル)」として読み進めることは、『全集』が著しく容易にしてくれた大きな楽しみの一つなのである。巻頭言で角井氏も言うように「映画の実存」を克明に記録したこれら一連の時評は、通読すれば、バザンという強靱な知性のプリズムを通じた、1945年から58年までのフランス映像文化をめぐる第一級のクロニクルとしての姿を現すはずである。

 次年度は本研究会が助成を受けている科研費の最終年度に当たる。本誌も次号をもって完結することになるだろう。最終号にふさわしい内容とするべく鋭意努力したい。 
(J. H)

2020/04/09

『アンドレ・バザン研究』第4号の入手方法

 『アンドレ・バザン研究』第4号は非売品で、国会図書館および一部の大学図書館を除いて、一般に流通しません。

 入手を希望される方には、実費(送料分)で送付いたします。任意の封書に①『アンドレ・バザン研究』第4号を希望する旨のメモ、②送付希望先の住所・氏名を記載したスマートレター(180円)の2点を封入のうえ、以下の宛先に郵送してください(往信の切手代はご負担ください)。折り返し、封入いただいたスマートレターにて第4号をご送付いたします。

 ただし、新型コロナウイルスの影響で当面、通常の業務体制が整わないことから、発送作業は2020年5月7日以降に順次行う予定です。どうかその旨、ご了承のうえお申し込み下さいますようお願いいたします。

【送付先】
〒990-8560
山形県山形市小白川町1-4-12
山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内 アンドレ・バザン研究会

※スマートレターは全国の郵便局等でお買い求めください。スマートレター以外の方法による送付はいたしかねますので、必ずスマートレターをご用意ください。

※発送作業は研究所の所員が行うため、出張などにより発送まで10日間程度の期間をいただくこともあります。また、授業期間外の場合、発送まで大幅に時間がかかることもあります。どうかご了承ください。

※このエントリーに記載のとおり、『アンドレ・バザン研究』第1号の頒布は終了しておりますので、ご留意ください。

第2号第3号はまだ残部があります。あわせてバックナンバーの入手を希望される場合は、必ずご希望の号を明記のうえ、送付希望先の住所・氏名を記載した冊数分のスマートレターを封入して下さい(万が一ご希望の号が不明な場合は、より新しい号を発送させていただきます)。厚さの関係で、複数の号を一つのスマートレターに同梱することはできかねますので、ご留意下さい。

※残部僅少となった場合、このブログでも告知し、受付を中止します。
以上

2020/03/31

『アンドレ・バザン研究』第4号の刊行

 2016年6月に山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会では、その2019年度の成果として、『アンドレ・バザン研究』第4号を刊行しました(発行=アンドレ・バザン研究会、編集=堀潤之、伊津野知多、角井誠、2020年3月31日発行、A5判116頁、ISSN 2432-9002)。なお、本誌は一般には流通しません。入手方法については、後日、本ブログにてお知らせします


 本号の目次は以下の通りです。

角井誠「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」
ダドリー・アンドルー「バルト、バザン、エクリチュール」(伊津野知多゠訳)
アンドレ・バザン「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」(堀潤之゠訳)
アンドレ・バザン「スクリーン上の死」(角井誠゠訳)
アンドレ・バザン「報道か屍肉食か」(角井誠゠訳)
谷昌親「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」

 巻頭言は、収録したそれぞれの文章のごく簡潔な内容紹介を含んでいるので、以下、その全文を掲げておきます。

『バザン全集』からの再出発――第四号イントロダクション
堀潤之

 バザンが生誕100周年を迎えた2018年も暮近く、本研究会の界隈は、ついに刊行された浩瀚なバザン全集(André Bazin, Écrits complets, édition établie par Hervé Joubert-Laurencin, Éditions Macula, 2018)の話題で持ちきりだった。日本学術振興会外国人研究者招へい事業の助成で来日していたダドリー・アンドルー氏の講演を軸にしたイベントを12月16日と20日に東京と山形で開催した際にも、コーヒーブレークにはとかく、三千頁のうちにおよそ2700篇の記事がぎっしり詰まった二巻本によってもたらされた衝撃が口の端に上った。私たちはすでに、バザンがその短い生涯で書いた文章が、『映画とは何か』全四巻を筆頭とする十数冊の単行本に収められた分量のおよそ十倍に及んでいることを知っていたし、まさにアンドルー氏その人の尽力で公開されたオンラインの書誌データベース(https://bazin.yale.edu/)を活用して、書庫に潜っては単行本未収録の記事を繙読していた(その成果の一端は、本誌でこれまで披露してきたとおりである)。しかし、こうしてバザンの全記事が、編者エルヴェ・ジュベール゠ローランサンによる周到な校訂を経て、有用きわまりない解説文と無数の活用法を見出しうる五種類の索引とともに重厚な物質的な塊として送り届けられると、私たちの知るバザンがやはり氷山の一角でしかなかったことが明白な事実として実感されたのである。

 しかも『全集』は、24の区切りに沿って、全記事をひたすら時系列順に並べている。この単純な仕掛けによって、私たちは一般的に流布しているバザンのさまざまな問題設定――作家主義、リアリズム、映画と他の諸芸術、映画の社会学、等々――をいったん括弧に入れて、徒手空拳でテクストに向き合うように迫られる。バザン自身がある程度まで構想したはずの『映画とは何か』四巻の構成という括りすらいったん解体するこの『全集』という装置は、そのささやかな偶像破壊的身振りによって、先入観なしにバザンを読むことへと読者を改めて誘っているのだ。

 本号に収められているのは、各執筆者がおそらくはその誘いにも乗って、それぞれの仕方で、新しいバザン読解を模索した試みの成果である。巻頭を飾る角井誠氏の「存在の刻印、魂の痕跡――アンドレ・バザンの(反)演技論」は、生誕100周年記念イベント(東京)での発表から生まれたもので、俳優論・演技論という新しい切り口からバザンのテクストを再読している。バザンの存在論的リアリズムが俳優を対象に据えたときに何が起こるのか、それは俳優をスターの「神話」から読み解くバザンのよく知られたアプローチとどう異なるのか、こうした新たな問いの数々はこれまでとは違った角度からバザンを捉える可能性を切り拓いているように思われる。

 続くアンドルー氏の「バルト、バザン、エクリチュール」は生誕100周年記念イベント(山形)の講演に端を発するもので、前号に掲載した氏の論考「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」に続いて、英語での公刊に先立って最新の成果をここに訳載することができたのは大変悦ばしいことだ。元々は「映画とアダプテーション」という枠組みでの講演だったが、バザン研究では馴染み深い「脚色」の問題系をはるかに超えて、アンドルー氏は、相対的に知られていないものを含むバザンの多数のテクストを軽やかに渉猟しながら、それらとバルトの「エクリチュール」概念との共鳴を探っている。

 バザンを同時代の知的コンテクストへと開いていくという構えは、特別寄稿をいただいた谷昌親氏による「死骸的現存としてのイメージ――映画『闘牛』をめぐるバザンとレリスの交錯」にも共通する。2018年11月に山形大学で生誕100周年プレイベント「バザン、レリス、闘牛」を開催した際に、大久保清朗氏による日本語字幕付きで初上映されたピエール・ブロンベルジェのドキュメンタリー映画『闘牛』La Course de taureaux(1951)の解説をしていただいたことをきっかけに生まれたこの論考では、バザン、レリス、さらにはブランショのありえたかもしれない接点がスリリングに探られ、バザンの映像論を、文学と哲学の領域におけるより広範なイメージ論の文脈へと接ぎ木している。なお、谷氏の論考が、それに先立つ二篇のバザンの記事(これまで未邦訳だった「スクリーン上の死」、「報道か屍肉食か」)とともに、「死の表象」をめぐるセクションをゆるやかに形作っていることも付け加えておこう。

 本号ではもう一篇、バザン最初期の未邦訳のテクスト「『希望』あるいは映画におけるスタイルについて」を訳出した。ここで扱われているアンドレ・マルローの唯一の映画には、私自身、並々ならぬ興味を抱いていた。野崎歓氏がかつて記したように(「アンドレ・マルローの聖別」、『ユリイカ』1997年4月号)、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちはたびたびマルローに言及していたし、その後、ゴダールも『映画史』(1988-98)でこの映画を引用し、ストローブもまた『共産主義者たち』(2014)と『水槽と国民』(2015)でマルローの「脚色」を手がけているからだ。加えて、バザンその人が徒手空拳で映画に向き合う始まりの場にも関心があった。実際、本論考は単なる作品論を超えて、小説の文彩(省略や直喩)と比較したときの映画の表現の可能性と限界を掘り下げた、まことに気宇壮大な考察となっている。同じく1945年に発表された「写真映像の存在論」が提示する映画の根本的な特質とはまったく異なる映画の特質が、ここで捉えられているのだ。バザンの探究は、映像の存在論だけでなく、映像の修辞学にも、もう一つの軸足を置いて開始されたのではないか、と考えたくなる所以である。

 本号を貫いているのは、こうして既知のバザン像をあえて遠ざけて、いわば初心にかえってバザンを読むという態度である。今後の本研究会は、『全集』をバイアスなしに読み込む作業を積み重ねつつ、再び何らかの意味的なまとまり――願わくば未聞の――を見出してゆかねばならないだろう。

 続いて、伊津野知多氏による編集後記の全文です。

 第四号は前号に引き続き、本研究会が2018年に東京と山形で三度にわたって開催したバザン生誕100周年記念関連イベントで提起された問いを発展させたものとなった。バザン的な映像の存在論に対しては、ブランショの「死骸的現存」という概念を通して光を当てる谷昌親氏の特別寄稿と、演技論という切り口から迫る角井誠氏の精緻な論考を、またもうひとつの大きなテーマである映画言語や文体論、脚色に対しては、ダドリー・アンドルー氏による「エクリチュール」という観点からの特別寄稿を掲載することができた。またバザンの未邦訳文献としては、映画的表象の臨界点ともいえる「死」をめぐる小論二篇と、その後のバザンの問題系が凝縮して現れているような初期の批評一篇の翻訳を、読み応えのある解題とともにお届けする。レリス、ブランショ、バルト、マルローなど、同時代の言説を通して歴史的・社会的な文脈のなかでバザンを捉え直すという視点も本号の執筆者に共通するものだが、直接的な交流ではなく、あくまで書物や作品というテクストを通じた想像的な出会いのなかにバザンと彼らの関係が探られている。そこにはバザンの核心に関わる思いがけない発見があった。

 バザンは存在を死によって、映画を小説(や他の諸芸術)によって、演技を反演技によって語る。こうした態度はある意味で一貫しているが、逆説の中にこそバザンの理論的想像力があり、新しい何かに答えを与えるために設定された仕掛けだったのではないかと感じる。映画の進化や「アヴァンギャルド」にこだわり、映画はまだ発明されていないとさえ言うバザンが求めていただろうその何かを、私たちは彼の文章の細部から再構築していきたいと思う。論考については厳正な査読を行い、翻訳については綿密に相互チェックすることで、できる限り精確な言葉でそれを読者に届けられるよう努めた。

 2018年に刊行された『バザン全集』とともにバザン研究の新局面を迎えた2019年、私たちはこれまでとはちがった形でバザンに向き合うようになった。情報収集という面で利便性が向上したのはもちろんだが、それにとどまらない衝撃があったことは堀潤之氏の巻頭言にある通りである。この突如として全貌を現した未踏の大地には、想像していた以上に刺激が満ちている。その細部に眼をとめて存分に観察するばかりでなく、積み重なった地層や、場所ごとの植生の違いを調べて、彼の思想の変化や年を経ても変わらない根のようなものを探っていくこともできるだろう。思えばバザンと私たちは既に出会い損ねており、ただテクストを通して向き合うほかない。しかしだからこそ、ひとつひとつの文章のなかに彼の存在の痕跡を探すのだ。本研究会員もそれぞれの関心によってさまざまなルートから探索を開始している。今回の編集作業を通して、執筆者や研究会メンバーたちと探索を共にできたことはとても貴重な体験だった。遭難しかけたところを救われたことも多く、感謝するとともに足腰を鍛えておくことの必要性を感じている。これから一気に加速しそうなバザン研究のベースキャンプのひとつとして、今後も本研究会が機能できればうれしい。 
(J.H.)