----この映画って、
カンヌ国際映画祭審査員受賞の話題作だよね。
監督は是枝裕和だっけ?
『誰も知らない』『奇跡』など、
子どもの演出には定評があるけど、
こんども父と子の話?
「さすがフォーン。
よく知っているね。
長年、パートナーを務めてきただけのことはある。
この映画もまた、
その“子ども”にズバリ焦点を当てた映画なんだ」
----キャッチコピーは“6年間育てた息子は他人の子だった――”
これってどういうこと?
お父さんがお母さんが別の男の人の子を生んでいたのを
知らなかったってこと?
「(汗)。フォーン、スゴイこと言うね。
これは、そういう生々しいものじゃない。
いや、こっちの方もこれはこれで衝撃ではあるんだけどね。
6年前に、赤ちゃんが病院で取り違えられていた…
と、こういうことなんだ」
----えっ、これって
いまの話だよね。
そんなことってあるのかニャ?
「うん。
なぜ、そうなったかは、
実は途中で明かされる。
そして映画自体も、
そのことによって弾みをつけていくんだ。
ただ、ぼくはこの是枝裕和っていう監督、
劇場デビュー作の『幻の光』の頃から苦手でね…。
テレビマンユニオンに参加していたということからも分かるように、
映画の<作り>がぼく好みのケレンとは対極。
一時期はやった言葉で言えば<抑制>されているんだ。
<画>もアップやロングを効果的に使うのではなく、
<節度>を持ったミドルショット。
誤解を恐れずに言えば、
あまりそこに美学を感じない」
----おおっ、それは問題発言だニャ。
「ところが、
この映画を観ていて
少し考えが変わったね。
この登場人物とカメラの距離は、
映像によって煽ることなく
そこで起きていることを真正面から<見つめる>、
そういう意味があるんだと…。
ということで少し人物構成を説明すると、
主人公は都心の高級マンションに暮らす野々宮良多(福山雅治)。
彼はその生活、地位のすべてを自分の能力と努力で勝ち取ったと自負。
物語は彼と妻のみどり(尾野真千子)が
ひとり息子の慶多(二宮慶多)の“お受験”で
親として面接に臨むシーンから始まる。
まさに、エリートならではの世界。
しかし、ある“事件”がこの完璧な人生を変える」
----それが、慶多が自分の子ではなかったということだニャ。
ということは、その子はよそで暮らしている。
「そういうことだね。
病院側の仲介で彼らが会ったのは
群馬で小さな電気屋を営む斎木雄大(リリー・フランキー)と妻のゆかり(真木よう子)。
あまりにも自分たちと違う身なりとガサツな態度に眉をひそめる良多。
というのも、この斎木という男、
何かというと慰謝料だの金の話にしてしまうんだ」
----う~ん。
「さて、物語はここまでにとどめておこう。
この福山雅治が演じる主人公・良多は常に上から目線。
おそらく観客の多くは彼を見て
“いけすかないヤツ”という気持ちを抱くと思う。
この映画では、
その良太の性格を表す一つひとつが
言葉、エピソードとして、
ほんとうによく練られているんだ。
一例をあげれば、慶多が他人の子だと知った後に、
良多がつぶやく次のセリフ
『やっぱりそういうことか』。
つまり、彼はふだんから
自分の息子にしては慶多がどこかもどかしい、
そんな気持ちを抱いていたというわけなんだ」
----ヒドいニャあ。
それは慶多も息苦しかっただろうニャあ。
「うん。
さて物語は、そこから
息子たちを互いの家に一泊させる形へと流れていく。
さあ、そのときお互いの子供は一変した環境の中で、
それをどのように受け止めるか…?」
----ニャんだか、それを聞いていると、
福山雅治が主人公には思えなくなってきたニャあ。
「うん。
実際に、演技として印象に残るのは
リリー・フランキーであったり真木よう子であったりする。
ところが最後に前面に出てくるのは
やはり福山雅治、
彼演じる良多が『そして父になる』こと。
これはまさにタイトルそのものの映画だったね」
(byえいwithフォーン)
フォーンの一言「大切なのは血か、それとも一緒に過ごした時間かを問うてもいるのニャ」
※なかなか難しい問題だ度
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上昇志向をしようにも、それが昔ほど思うようにできなくなっている日本なので、良多ほどガツガツしなくても・・・という考えの人が多いような気がするんです。こういうタイプの人は久々に見ました。
こんなことで取り違えられたら、親の側であれ、子の側であれ、
もうたまらないでしょうね。
リリー・フランキーと真木よう子はもちろんですが、
中後半からの子どもたちの存在感もまた印象的でした。
>ところが最後に前面に出てくるのは
やはり福山雅治、
彼演じる良多が『そして父になる』こと。
・・・このことがなければ良多はずっと変わらなかったでしょうねぇ。
まあ、彼がそれを悔やむことも無かったとも思いますが。
>「大切なのは血か、それとも一緒に過ごした時間かを問うてもいるのニャ」
そう、フォーンちゃんの言うとおり(=・ェ・=)
エンディングで救われましたね。
タイトルに「そして」がわざわざ入っていることの理由が
全編観るとよくわかりますね。
わたしには、同じことは流石に起こり得ないけど、
もし、我が子がそうだと言われたらどうだったのだろうと
つい思いながら観てしまいました。
良多にとっては、過酷だけどとても重要な「そして」でしたね。
見応えある心理劇でした。
しかし相変わらず子供の演出が抜群ですね。
主人公の息子の名前が演じている子役の名と同じなのも演じやすくする配慮でしょう。
記事中の「映画の<作り>がぼく好みのケレンとは対極」「<節度>を持ったミドルショット」という表現、というか、分析がめちゃくちゃ気に入ってしまい、1日たっても時々脳裏に甦ってきますw 僕はあまりそんな風に思ったことがなかったので。
デビュー作の『幻の光』ともなると、あまりに前なので、なんか徹底的に暗い画面だったという記憶しかないのですが、ならば『花よりもなほ』はどうですか? あれは結構ケレン味に富んだカメラワークだったと思うのですが。
いや、最近、こういう上昇志向の人が増えているんじゃないでしょうか?
そこで日本が二極化されているような気がします。
なんというか、
いわゆる<勝ち組>にリードしてもらってこの国を任せた方がいいという考えの人と、
いや、富は分配されるべきだという考えの人。
良多タイプの人はその前者をあたりまえのように思っている。
批判的視線は確かにあったかと…。
こういうことでもなかったら、
彼は変わらないままだったでしょう。
ただ、あのラストの続き、
答をはっきり提示していないところがなんとも…。
子どもたちの傷は測りきれないほど大きいはずですし…。
実際は、こういうことに出くわす可能性は低いはずで、
じゃあ、その場合、
彼はあのまま人生の選ばれた道を進んでいくのか…?
そういう中で育った子は
また、同じような人生を歩んでいく。
なんとも割り切れない映画ではありました。
役名と演じる人の名前を同じにするというのは
こういうとき効果を発揮しますね。
最近、日本の子役は目を見張るほど
うまくなってきましたが、
自然な演技と言う意味では
この映画がその極でしょうね。
デビュー作の『幻の光』があまりにも
そちら系(ドキュメンタル)だったので、
この監督の映画は、
抑制された演出というイメージが強いですが、
実際にはすでに第2作『ワンダフルライフ』でも
実験的な構成にチャレンジしていました。
『花よりもなほ』はオモシロかったです。
時代劇と言うことがすでに
彼のイメージを壊していたなと、
いま思い出しました。