はじめに-平賀源内とはどんな人物だったのか?
平賀源内(ひらが・げんない)は、江戸時代中期に本草学者、戯作者、発明家としてマルチに活躍した人物です。彼の活動は本草学や物産学の枠を超え、文学、技術、産業など多岐にわたりました。新しい技術や知識の導入を目指し、火浣布(かかんぷ)の製作やエレキテル(摩擦起電器)の復元など、多くの革新的な取り組みを行なっています。
また、『根南志具佐(ねなしぐさ)』や『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』といった文学作品を通じて封建社会を風刺した点でも特筆に値します。源内の生涯は、奇才としての功績とともに、波乱に満ちたものでした。
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(以下『べらぼう』)では、多彩なアイデアを持つ江戸の有名人(演:安田顕)として描かれます。
目次
はじめに-平賀源内とはどのような人物だったのか
平賀源内が生きた時代
平賀源内の生涯と主な出来事
平賀源内にまつわる逸話
2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』で描かれた、平賀源内
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で描かれる、平賀源内
まとめ
平賀源内が生きた時代
平賀源内が生きた18世紀中頃の江戸時代は、経済や技術、文化が変容していく時代でした。江戸幕府の財政難を背景に、田沼意次(おきつぐ)による殖産興業政策が推進されていました。そして、西洋文化の影響が徐々に広まり、本草学や物産学、蘭学が注目され始めていた時期でもあります。
源内は、こうした変化の潮流をいち早く捉え、新たな知識や技術を日本に導入しようと試みた人物の一人でした。
平賀源内の足跡と主な出来事
平賀源内は、享保13年(1728)に生まれ、安永8年(1779)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
幼少期と本草学への道
源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市)で高松藩の足軽・白石茂左衛門良房の子として生まれました。幼名は、四万吉(よもきち)でした。
幼少期の源内は「天狗小僧」とあだ名されるほどいたずら好きだったと伝えられています(『平賀実記』より)。賢いがゆえに、周囲の大人を困らせることも多かったのかもしれません。こうした好奇心の強さや大胆な行動力は、後年の奇才としての基盤となったのでしょう。
父の死後に家を継ぎ、姓を「平賀」と改めました。藩主・松平頼恭(よりたか)に見出され、支援を受けて長崎に遊学。本草学を学び、藩の薬園で働き始めました。
しかし、宝暦4年(1754)には、妹婿に家督を譲り、独立を決意して江戸に向かいます。江戸では本草学者の田村藍水(らんすい)に師事し、さらに儒学や医学を学びました。
物産学の推進と「物類品隲」の出版
源内は、宝暦7年(1757)から日本で初めての「物産会」を5度、藍水とともに開催。全国各地から多様な産物を集めて展示し、国内の資源開発と活用を提案しました。その成果をまとめた『物類品隲(ぶつるいしんしつ)』(1763)は、本草学の実用性を重視した画期的な著作でした。
(国立国会図書館デジタルコレクション) (https://dl.ndl.go.jp/pid/2555265/1/2)をトリミングして作成
【平賀源内と田沼意次の関係。次ページに続きます】