毎日、毎晩、お客さんがゼロの状態の料理店は、いかにして予約が取れない超人気店に成長していったのか。老舗京名料理店「祇園さゝ木」店主の佐々木浩さんは「店を出してしばらくのご祝儀来店がなくなった後が本当にキツかった。予約の方法を工夫したことが息を吹き返すきっかけになった」という――。

※本稿は、佐々木浩著『孤高の料理人 京料理の革命』(きずな出版)の一部を再編集したものです。

たかが、500万円、されど500万円

一九九八年九月に、祇園北側の路地の奥に、カウンター五席と小上がりがある小さな店をだしました。三十六歳でした。それまでに十年ほど先斗町の割烹で、料理長をまかされていたのですが、事情があって準備する時間がないまま、独立することになったのです。

京都で店をだすなら、祇園町でという夢がありました。ようやく、ここならと思える物件に出会い、契約することになったのですが、資金不足でした。

あと五百万円が用意できずに、京都の金融機関を駆けずりまわり、書類をそろえて頭を下げるものの、融資がおりません。ある信用金庫では、担当者が底意地の悪い対応をするのに、ブチ切れてしまい、力任せにカウンターを蹴り上げてしまいました。

「しもた、警察、よばれる」と焦りましたが、それは免れました。

契約日まであと二日に迫っていて、絶望的な気持ちになりました。一縷の望みを託して、料理長をしていた店の常連客に、地元の銀行の取締役がいたことを思い出して、電話してみました。

「ええよ、いつまでにいくら必要なんや?」とあっさりと話がついて、翌朝いちばんに、約束の五百万円が口座に振り込まれていました。

札束
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです

毎晩お客さんがゼロ…

こうして、祇園さゝ木が船出しましたが、ご祝儀の来店が一巡した三か月後に、ぴたりと客足が途絶え、店の電話が鳴らなくなりました。

〈まちがい電話でもええ、電話を鳴らしてくれ!〉

何度思ったことでしょう。毎日、毎晩、お客さんがゼロの日がつづいて、このころが、いちばんしんどかったです。情けない話ですが、お金がなくなり、自宅のある滋賀県まで帰る高速料金さえ惜しくて、一般道を走りました。クーラーもガソリンを浪費するので、窓を全開にしました。

あれはお客さんから、本物の朝鮮人参をもらったときのこと。若い衆やった木田(康夫。現在は「祇園きだ」店主)が「これ、焼酎に漬けときましょか」と、いうんです。

ところが、焼酎を買うわずか千円か二千円のお金すらない。でも、そんな情けないことは言えないから、木田には「うん、あわてなくていいよ」と、ごまかした。

あのころ、ほんまにキツかったです。