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「好き」を取り戻すために「継続を趣味」にする

この間、若い編集者と雑談をしていて「趣味」を持つことが難しいみたいな話になった。
「好き」と「趣味」は違うのか?
どこまで「好き」なら「趣味」と呼べるのか。
いや、そもそも「好きなこと」がないし、「好き」ってなんだって、これぞ雑談な雑な会話。

趣味についてちょっと考えてみた。
少し前に気がついたんだけど、わたしの趣味は「継続」だった。
それが趣味だということに気がついてなかったけど、いろいろと考えてみたら「継続」が自分の趣味だとわかって腑に落ちた。

「自分の趣味」って意外に難しくて、わたしの場合は、好きなことはたくさんあって、ちょこちょこたくさん手を出してる割に「どれもそれほど深くない」というのがコンプレックスというか、これが一番というのがなくて、どれも等しく好きだし、なかなか「これが趣味です」って胸をはって言いづらかった。

映画は好き。週に4、5本は映画館で見てるし、配信やテレビで見る映画も含めたら1日1本以上は映画を見てる。たくさん見てるけど、これがなきゃ生きていけないけど、そんなに深くない。映画好きの人の集まりとかにいくとなんだか恥ずかしいほど自分の好きが足りない気がして落ち込んでしまう。そんなこと感じる必要ないのは分かってるんだけど、思ってしまうものはしょうがない。だから何となく「映画が趣味」とは言いづらい。マンガも好き。いや好きだった?以前はものすごい冊数を読んでいて「このマンガがすごい」の選考をしていた時期もあったけど、いつのまにか忙しさにのまれて読まなくなってた。最近はまた少し読むようになったけど、それを趣味と言えるのか?言えない気がする。ゲームも好き、ムチャクチャ好き。一生ゲームだけしていたいくらい好き。以前は映画より何よりゲームだった。たぶん映画よりゲームの方が詳しい。大学の卒論もゲームについて書いたのだった。でも最近は忙しくなってあまりやる時間がない。少しずつ毎日遊んでいるけど、これを今趣味と言える自信はない。のめり込んでることで言えば「納豆」は、最近の好きなことの一つ。食べた納豆の記録をつけはじめてから、食べたことのない納豆を探す楽しみが増えた。しかしこれが趣味なのか、よくわからない。毎日やっていると言えば、本は1日1冊以上読んでいる。なら読書は趣味なのか?これもよくわからない。読む習慣がなかったから、無理矢理読む習慣をつけようと思って毎日読んでるけど、これを趣味と言っていいかはわからない。2年くらい毎日掃除してたらいつのまにか掃除が好きになってた。なら掃除も趣味か?ダンスも毎日やってるけど、これも趣味?それなら、こうやってnoteやブログを書くのも続けていることだから、趣味ってことになるのか?少なくとも仕事じゃないのにやってることだから、趣味と言えば趣味のようだけど、楽しんでいるかどうかで言えば、どちらかというと辛いし…なんなんだ趣味って。

こんな堂々巡りをひたすらしてたんだけど、
去年突然降臨した「継続が趣味」という気づき。

そうか「継続」が趣味だったんだ。
この気づきは、雷に打たれたような衝撃だった。

それからは趣味を聞かれたら「継続です」と言うようにしている。
(ま、聞かれることはないけど)

趣味って、つまり自分が「いま一番打ち込んでいると自分で思っていること」なんだと思う。
私の場合、「継続」に関してたぶん一番真剣に考えている。
最も打ち込んでいることだと言っていい。
どうやったら「続けられるのか」そのことをひたすら考えている。

先月からはじめた新しい習慣。
1月に一度チャレンジして挫折したこと。
いつのまにか存在を忘れていた。
4月にやり方を変えて再挑戦してみた。
いまひと月毎日続いている。
詳しくはそのうちに書くけど、こうやって何か新しい挑戦をして、それをどうやったら続けられるのかを発見していくのは超楽しい。

好きだったゲームやマンガ。
これをどうやったらまた好きになれるのか、それに没頭する時間を生み出せるか、その方法を考える。
マンガは必ず1日1話、朝の日記を書いたら読む。
ゲームは筋トレのあとSIXPADで腹筋に刺激を与える間に必ず遊ぶ。
いろんな好きなことをどうやったら生活の中で無理なく継続できるのか、習慣にできるのか、それを考えて続いていくことがとても楽しい。

苦手だったことを続ける。実はこれも楽しい。
いや楽しいってことに気がついた。
例えば、掃除。嫌いだった。本当に大嫌いだった。
最初は毎週金、土に簡単にテレビ台の裏や本棚の上のほこりを取るのを2、3分だけはじめみた。数ヶ月それを続けて、そこから毎日3分くらい簡単な掃除をする習慣に変えて、毎日ちょっとずつ1年くらい続けた。簡単な掃除だけしていたのが、やっていくうちに細かいところが気になるようになって、ここをきれいにするにはこの道具がよさそうとか、意外に汚れるのはこういう見えない所なんだなって、汚れやすいところに気がついたり、ベランダの室外機はきれいにしがいがあるとか、いつのまにコツをつかんで、こだわりが生まれるようになった。掃除がゲームのように楽しくなってきた。そして続けるうちにいつのまにか掃除が好きになっていた。いまでは朝の超大事な習慣のひとつになっている。つい数年前まで1週間以上仕事のデスクの上やテレビ台の後ろを拭かないで過ごしていたなんて信じられない。

じつは読書も似たようなものだった。
ぶっちゃけるとあまり読書は好きじゃなかった。
子どもの頃は本そのものがずっと苦手だった。
高校に上がるくらいまでにマンガやゲームの攻略本以外で読んだ本はたぶん両手で数えられる程度しかない。読むのがイヤで読書感想文もほとんど読まないで書いてた。たぶん幼少期の読書体験が乏しいのがわたしのが文章を書くのが苦手なことの要因なんだろうなと反省している。
そんな本嫌いがいつのまにか本を作る仕事に就いていた。
謎だった。
好きなことを仕事にするより、好きじゃないことを仕事にする方が失望しないですむかもな、くらいに考えていた。
社会人になって編集者になってしまったことで必要にかられて本を大量に読むようになったけど、1日に何冊も、でも必要なものを必要なようにしか読まなかったので、その頃はやっぱり本を好きにはなれなかった。
フリーになってもやっぱり本を作る仕事を選んだ。
20年以上ずっと本を作ってきた。
毎日10時間くらいは、本のとことを考えている。
するとどうなるか。
本のことがすごく好きになっていた。
今はもう1日中、本のことしか考えてなかったりする。
いつの頃からか忘れたけど、どこかに出かけたときに必ず行く場所が「本屋」になった。
旅先では映画館と本屋には必ず立ち寄るようにしている。
本屋にいると何時間でもそこにひたれる。
ずっと装丁だけを見て過ごせる。
仕事の目でデザインを見るのも楽しいし、単純にどんな本が存在しているか見るだけでも楽しい。
毎日本を読むようになってからは、それがもっと楽しくなってきている。
意外な本に意外なことが書かれていたりする。
求めていた言葉が、思いもよらないところに眠っていたりする。
モヤモヤとしていた気持ちの出口が、自分に何の関係もないと思ってた経営書の中にふと眠っていたりする。
いたるところに発見がある。
だから今はどんな本にも魅力と可能性を感じる。
そう思ってから本屋にいるのが前よりも好きになった。
以前は立ち寄りもしなかったコーナーに行くようになった。
本屋を歩いて本を手に取るだけで新しい世界が発動していく感覚がある。
こんなに本ってすごいものだったんだな。
ずいぶん時間がかかったけど、いまではすごく本が好きだ。
長い時間をかけてそれが好きになっていた。
自分の一部になっていた。

掃除が好きになる。
本が好きになる。
好きじゃなかったものを好きになる。
それは何だったのか。
そこに何があったのか。

時間をかけた。

これなんだと思う。
時間をかけて、毎日それに向き合い続けたから好きになった。

先日見た韓国映画「不思議の国の数学者」でそれに似たことが描かれていた。
数学が苦手だった高校生が数学にのめり込んでいく映画。

地元で神童と言われながら、超エリート校に進学したら落ちこぼれてしまった男子高校生と、脱北してきて学校で警備の仕事をしている偏屈な天才数学者の話。
経済的理由で塾に通えない主人公が、その数学者から数学を学ぼうとする。
男子生徒の目的は「いい成績を取りたい」だから、すぐに答えを求める。
すぐに簡単に解ける「公式」を教えて欲しいと頼む。
だけど数学者は成績には何の興味もないから、公式は教えない。
テストとは何の関係もない解くのがやたら面倒な問題を出す。
「正解を解くよりプロセスが大事」だ。
そう言って、リーマン予想を提唱した天才数学者のベルンハルト・リーマンが√2を地道にすごい桁まで計算したメモを見せる。
この計算は何の役にも立たないし意味がない。
なぜこんな意味のない計算に取り組んだのか。
リーマンがしたことは「時間をかけて数字に向き合う」ことだったという。

数学者は言う。
「時間をかけて数学と仲良くなる」ことが大事だと。
それは「数学を好き」になるということだ。
答えをすぐに出すと嫌いなままで理解を生まない。
好きになることで理解が深まる。
そのために必要なのは「時間」なのだという。
どれだけ向き合ったか、その時間が「理解」を生み、世界を広げていく。
こうやって数学に苦手意識を持っていた生徒が数学にのめりこんでいく。

「好きになるには時間が必要」
「時間をかけると人は苦手のものも好きになれる」
必ずそうなるとは言い切れないけど、わたしは「掃除」も「本」も好きになっていた。

「時間をかける」ということは、「続ける」ということだ。
つまり「続ける」というわたしの趣味は「好き」を生み出すことでもあったのだ。

冒頭の話に戻ると、「趣味がない」「好きなものがない」これって、すぐに答えが出てしまう時代の必然なのではないかなと思った。
すぐに答えが出ちゃう時代だから、好きから遠のいてしまう。

便利になると生きやすくなると普通は思う。
便利になることで好きなことに使える時間が増える。
でも逆だったんじゃないかと思う。
便利になることで人は好きを失っているんじゃないか。
好きなことを作るのって、不便さの中で自分が時間をかけて取り組んだ先にあったのではないかなと思う。

例えば映画を好きになること。
サブスクで便利になっていつでもどこでも見たい映画にアクセスできる。
でもその環境が果たして「好き」を生むのかは少し疑問だ。
やはり時間が決められた映画館に行くという、言わば不自由な体験や、一本の映画にお金を出し対価を払うという行為が、好きを強固にしていくと思うし、映画に限らず好きになるには、時間と向き合うために支払う何らかの代償が必要なはずだ。
「好き」になることの裏には、ただ楽しいだけではない何かがあるのだ。

AIの進化でこれからもっと何でもすぐに答えが出てしまう時代になると思う。
「時間をかける」ということがもっと難しいものになっていくかもしれない。

そうするとますます「好き」から遠のいていく気がする。
生きやすさって「便利さ」よりも「好き」の先にある気がする。
「好き」を失うと人生はすごく生きづらいものになると思う。

一度手に入れた便利さを手放すことは難しいと思うけど、その中で難解さを自分に強いて、時間をかけて取り組んでいくというのは、「好き」を取り戻すためにとても役に立つことなのではないかなと思った。

「好き」を手に入れるために、「好き」を取り戻すために「継続を趣味」にする。
生きやすさを作る手段としてこれはありなんじゃないかなと思う。

というわけで無趣味という人には、「継続」を趣味にすることをオススメしたいと思います。
というかこれまでの投稿もそんなことを言おうとしていたのかもなっていま気がついた。

そうか、自分のテーマはこれだったんだ!

「好き」を取り戻すために「継続を趣味」にする。

そして「不思議の国の数学者」とにかく素晴らしい映画でした!!!


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