【悪性リンパ腫・闘病記㉔】個室に閉じ込められた人間 -「伝える」ことについて-
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猫耳ニットとサングラス。
与えられた小道具は主にこの二つ。あとは作業用のPCとスマホ、あとは小物がチラホラと。まるで人里離れた山奥で修行をしているような気分だ。社会から完全に隔離されたこの空間での時間は、放っておくと誰からも自分という存在を忘れられてしまうような恐怖感がよく付き纏った。病状や薬の副作用で気分が悪くなって動けなくなったり、40度まで熱が上がったりもしたけど、治療のおかげか1ヶ月のうち半分くらいは動けるようになって、とにかく手と体を動かしてみた。個室に閉じ込められた男が、一人でどんな振る舞いをしたのかは、Instagramのアカウントを見てくれている方々は何となく知ってくれていると思う。
他人の人生を歩むことはできない。だから、単純な人生の比較は難しい。「あなたは○○だから人生楽そう」といったニュアンスの言葉はできる限り使わないようにしている。人の人生は十人十色、その人の数だけ幸福と苦痛に種類があって、繰り返しになるけど人生の比較なんて簡単にはできないはずだ。当事者が当事者だけの体験を語り、他者はそこから何を感じ取るか。それが想像力であり、共感だと思う。
私が人生をどんな風に捉えてきたかを話す。
誤解されやすい人生だったと思う。人は見た目が9割と言われるが、それは美顔が得をするという話ではなくて、9割方見た目で印象やキャラクターを認識されてしまうという話だ。事実、私は最初の印象で自分のキャパシティを超えた肯定的なイメージを受け取られることが多く、それが原因で本音が言えなかったり、ふざけたり、自分を曝け出すという行為がとても苦手だった。出席番号が常に1番ということもあってか、挙手制の委員長決めで誰も手を挙げなかったら「じゃあ、相徳がやって」と言われること多数。断れなかった私は渋々受け続けた。
大学進学のために関西に進学した。修学旅行くらいでしか九州の外に出たことがなかった内弁慶な私は、早速洗礼を浴びた。地元からの友達が一人もいない状態で始まった大学生活。入学後少し仲良くなれそうな雰囲気になった人と昼ごはんに行った。自己紹介をして、私はなぜこの大学に来たのかを話した。すると、
「オチは?」
「ん?オチ…?」
「え?話終わり?自分あんまりおもんないなw」
この地で生きていくには、日常会話でも一定水準のトークスキルが求められることを知った。実際、地元出身者は大人しい人でもボケツッコミができるし、そうじゃない人はもれなくテンションが高い。「何でやねん!」「おもろ!」「どないしてん!」って。だから、エセ関西弁と言われても関西弁をなるべく使うようにして、全く興味がなかったお笑いも見るようにした。少なくともトークにオチはつけれるようになった。
でも、初対面の人に自分を出すというのは相変わらずとても苦手で、就活の面接とかもう相性最悪だった。落ちに落ち続け、地元の企業からも2次面接で落とされて、周りはどんどん内定が決まって遊び出しているのに、自分だけは最後まで内定をもらうことはできなかった。
「なんか君のキャラクターがわからないんだよね」
「あなたは何がやりたいの?」
「(なんかこの学生、見た目の印象と違うな・・・)」
『伝える』という行為が最も難しい。なぜ友達にはできて、私にはできないんだ。それが分からなくて、悔しくて、とにかく本を読んだ。プレゼンの方法とか、コピーライターの考え方とか、本屋さんのビジネス本コーナーにある本を片っ端から読み続けて、実践して、でも空回って失敗して、その繰り返し。ようやく雇ってもえる会社が現れて、これから社会人として生きていくんだと決心したタイミングでコロナウイルスが蔓延。仕事のコミュニケーションは主にチャットが使われるようになった。
「君の文章は抽象的でわかりにくい」
「議事録も書けないの?」
「何が言いたいのかさっぱり分からない」
たくさん指摘され、また本屋さんに行って、実践して、空回って失敗した。ある日、心が折れてしまった。人間と直接関わることに自信がなくなってしまった。私と相手の間に立ってくれる何かが必要だ、私の考えをより具体的に表現してくれる例えが必要だ、それが、花だった。
花の世界に入ってからは随分と呼吸がしやすくなった。笑顔も増えて、自分の考えに意見を傾けてくれる人が増えた。「伝わる」という手応えは何にも代え難い喜びがあった。一方で、職業に対する肯定的なイメージが少し過分に働きすぎて「花が好きな純粋な青年」みたいな捉え方をされることも増えていった。それはもちろん嬉しいし間違いじゃないことではあるんだけど、やっぱり過去の経験があったし、そんな単純なイメージで私という人間を理解して欲しくないと考えるようになった。
何が言いたいのかというと、人って感情がたくさんあって、喜怒哀楽の4文字でも片付けられないくらいぐっちゃぐちゃな存在だということ。それを1つの側面だけを見て判断したりされるのって勿体無いし何か悔しい。
親友を始め、心を許した人たちはみんな知ってると思うけど、普段の私は毒舌だし、ボケるしツッコむし、ずっと喋ってるナルシストで、嫌いになった人はとことん嫌いになる、そんな人間らしい人間だと思う。同時に超負けず嫌いで、笑顔の裏ではどうやってこの人に勝とうかを常に考えているし、あと、めちゃくちゃケチ。ケチだから、このままタダで転ぶなんて全く割に合わないと考えられた。ふざけるなよ、なんで俺だけこんな目に遭わなきゃあかんねん。力不足だっけど、それでも私を一言で片付けたあいつらを見返したいし、どんな歪な形でもいいから花を咲かせたい。
社会から隔離された個室にいると、そんな気持ちがどんどん醸成される。ただ、ここは本当に自分を褒めてあげたいのだが、その煮えくり返った毒々しい感情をそのまま表に出さなかったこと、例えば根拠ない他者や社会への誹謗中傷に向かなくてよかった。もちろん溢れてしまうことはあるけど、ほぼ全ての感情をガソリンにして燃やすことに成功した。
それが、私の表現だ。
伝えることは本当に難しい。当事者にとって悪意ない言葉でも、相手を傷つけてしまうことがある。私を好きな人がいる一方で、私のことが嫌いな人がいることも知っている。矛盾に満ちていて、全部を掬い上げられない現実で、それでも今日も個室から叫びたいと思う。
「”私”を見てくれ!」