"Vについて":「VからVへ:VTuberのVlogによる『日常の再創生』と、バーチャルとリアルの新たな可能性について」
序章:V(VTuber)から V(Vlog)へ
2024年12月19日にYoutubeで配信された動画に、僕は衝撃を受けた。
それは、VTuberである白上フブキが、VirtualMarket バーチャルマーケットに潜入する、という内容だった。
VTuberがVRChatに参加してワールドを探索する動画は、現在珍しいものではない。
ホロライブ傘下のグループ「hololive DEV_IS」一期生のユニット「ReGLOSS」の1人である火威青は、VRChatのプレイ歴は5年以上と公言しており、同じくホロライブに所属している宝鐘マリンは、初めてのVRChat体験動画を2024年11月4日に公開した。
V(バーチャル)の領域の存在であるVTuberが、VRChatというメタバースで配信活動することは今後珍しくなくなるだろう。
しかし、白上フブキの配信で僕が驚いたのは、「VTuberがVRChatに参加する」という企画内容ではない。企画の配信形式だ。
白上フブキがバーチャルマーケットに潜入する、という趣旨の動画は
Vlog形式で配信されていた。
VTuberがVlogを始めたのである。
動画冒頭は、お台場海浜公園というメタバース上で構築された仮想空間がいきなり登場し、配信形式は、白上フブキが「まるで本当に自分の持っているカメラで撮影されているかのように」バーチャルマーケット内を潜入する。
「実際に手に持っている動画」という印象を与えるために、手持ちカメラのように、動画は手ブレしているように揺れ続け、最後はショッピングカートに飛び乗った白上フブキが乗りこなすところで、動画は終わる。
白上フブキはVRChat内という仮想空間で「日常」を演出し、それをVlog形式で配信したのである。
これは、僕がこれまでみてきたVTuberの配信形式とは明らかに一線を画すものだった。通常、VTuberはゲーム実況や歌枠、雑談配信や3Dライブ配信を行うが主流と考えており、VTuberが「日常的な風景を切り取るVlog形式」という配信は、僕は今まで観たことがなかった。
もちろん、VTuberがVlog配信をすることは、今回が初めてではない。
「ReGLOSS」の1人である火威青は、12月19日以前にも、Vlog形式で配信をしている。
これはVTuberによる「日常性」の獲得である。
Youtubeというプラットフォームによって存在が規定されていたVTuberは、Youtube上で行われるライブ配信や歌枠によって「アイドル」や「アーティスト」という属性を必然的に付与される。
しかし、Vlog形式での動画配信による「日常性」を獲得したVTuberは、この「アイドル」「アーティスト」という属性を、自由に着脱可能になる。
そして「VTuber」が「Vlog」形式で配信して「日常性」を獲得したことは、VTuberの「実在性」を「日々の暮らし」を通して強化し、「日常を再創生」するための興味深い問いを投げかけていると僕は考える。
V(バーチャル)の存在であるVTuberが、V(Vlog)形式の配信によって「日常」を見せるとはどういうことなのか。それは単なるエンターテインメントの一形態なのか、それとも現代社会における日常生活を新たな視点で確認する視点を提供してくれる視座を提供するものなのか。
本記事の目的は、VTuberのVlog配信が持つ意味を多角的に分析し、その文化的・社会的意義を明らかにすることにある。具体的には、まずVlogとVTuberの融合がもたらす新たな表現形態について考える。次に、「日常の再発見」というテーマを軸に、Vlogが持つ深層的な意味を探る。そして最後に、僕が以前の記事で提唱した「偽装の創生」という概念とVTuberのVlogを結びつけ、新たな現実認識の可能性について考察する。
この分析を通じて、僕は「日常の再創生」という新たな概念を提示したい。これは、VTuberのVlogが単なる日常の記録や理想化を超えて、鑑賞者とVTuberが共に新たな現実を創造していくプロセスを指す。
具体的には、VTuberの「日常」を通じて鑑賞者が自身の日常を再解釈し、バーチャルと現実が融合した新たな「日常」を構築していく過程を意味する。
それは、鑑賞者が自分自身の日々の暮らしを新たな視点で捉え直すことではなく、「創り直す」ことなのだ。
本稿の構成は以下の通りである。第1章では、VlogとVTuberの融合について詳しく分析し、その特異性と影響力について考察する。第2章では、「普通の暮らしを美学する」という書籍やアニメ「小林さんちのメイドラゴンS」を参照しながら、日常の再発見とVlogの共通する意味や影響について探る。第3章では、「偽装の創生」という概念を軸に、VTuberのVlogがもたらす新たな現実構築の可能性について論じる。
VTuberのVlogは、バーチャルと現実の境界を曖昧にし、新たな「日常」の創造を可能にする。それは、現代のデジタル社会における人間のアイデンティティや日常生活の在り方を問い直す、重要な文化現象なのである。
第1章: VTuberとVlogの融合
VTuberによるVlog形式の配信。特に、ホロライブ所属の白上フブキがVRChat内でVlogを撮影し、YouTube上で公開したことは、僕にとって大きな衝撃だった。
ここで、従来のVlogの配信内容と特徴について明記してく必要がある。
Vlogとは、Video Blogの略称で、日常生活や旅行、趣味などを動画形式で記録し発信するコンテンツだ。
従来のブログが文章や写真で表現するのに対し、Vlogは映像や音声を用いるため、より豊かな情報量と実際に生活しているという臨場感を提供する。
Vlogの主な特徴ともたらす効果は以下の通りだ。
内容の多様性:日常風景、旅先の記録、料理、モーニングルーティンなどのテーマの幅広さ。
臨場感:映像と音声を通じて、その場の雰囲気やリアルな体験を伝えられる説得力。
共感と親近感:投稿者の日常をありのままに記録するため、鑑賞者は投稿者に共感しやすく、「親しみ」を提供できる。
この従来の「人間がおこなうVlog」に対して、VTuberがVlog形式で配信を行うことは、従来のVTuber活動とは一線を画す新たな試みだ。通常、VTuberはゲーム実況や歌枠、トーク配信などを行うが、日常的な風景を切り取るVlog形式はあまり見られなかった。
白上フブキの「VRChat内でのVlog配信」において、バーチャル空間内で「日常性」を演出し、それを「Vlog形式で配信」する手法。
それは現実とバーチャルの境界を曖昧にし、VTuberの日常的な場面を見せることで、キャラクターがより「生きている」ように感じられるように、鑑賞者を「Vtuberが行う日常の創生」に参加させ、VTuberのパーソナルな領域を共有することで、鑑賞者とVTuberの距離感がより近くなる効果をもたらした。
VTuberのVlogは、単なるエンターテインメントを超えている。
具体的には、まず、現実とバーチャルの境界の曖昧化だ。VTuberがVRChat内で「日常」を演出することで、何が現実で何がフィクションなのかという従来の区分が揺らぐ。これは、デジタル時代における「リアル」の概念を改めて問い直すきっかけとなる。
次に、鑑賞者との関係性の変化がある。VTuberの「日常生活の創生」に参加することで、鑑賞者はより深くVTuberに没入し、自分の身近な存在に親しみを覚える感情が強化される可能性がある。これはデジタル時代における、「自分たちが日々何気なく過ごしている日常とは何か」を鑑賞者に思索させ、「日常性を再発見」する新たな視点を提供する。
次章では、青田麻未の著『「ふつうの暮らし」を美学する』と
アニメ『小林さんちのメイドラゴンS』から、日常生活の価値と再発見・Vlogがもたらす日常の再解釈について提示する。
第2章: 『 「ふつうの暮らし」を美学する』と『小林さんちのメイドラゴンS』が示す、日常の再発見
本章では、『「ふつうの暮らし」を美学する』という書籍と、アニメ『小林さんちのメイドラゴンS』第10話のエピソードを通じて、Vlogがもたらす日常の再発見について考察する。
まずは「日常美学」とはどういった学問なのかについて簡単に紹介する。
「日常美学」は、2000年代に入ってから盛んに議論されるようになった学問領域だ。日常的な出来事に対して美的側面について論じる研究であり、どのように感性が働いているかを検証している。
青田麻未著作『「ふつうの暮らし」を美学する』は、日常美学という新しい学問領域を紹介する入門書だ。この書籍は、これまで美学の対象として軽視されてきた「家」や日常生活に焦点を当て、掃除、料理、地元、ルーティーンなどの身近な事象を通じて「美」を問い直している。
特に注目すべきは、本書が提示するVlog鑑賞に関する洞察だ。著者は、Vlogの楽しさは単に平凡な日常に対して感じるものではなく、Vlog配信を通して、日常が実は特別な瞬間に溢れていることに気付かせてくれる点に価値があると主張する。
そしてVlogを鑑賞する際には「憧れ」と「焦燥感」の2つの感情が働くと論じる。鑑賞したい配信者のVlogを観ているとき、Vlog撮影者の日常を特別なものとして享受し、自分の日常とは距離があり、だからこそ憧れる楽しいものとしての観ている気持ちが働く。
もうひとつの「焦燥感」は、自分自身の「日常」とVlogに映される「日々の暮らし」との間のギャップが大きいとき、そのVlogの憧れの遠さに焦りを感じてしまうと著者は主張する。
そして著者は「憧れ」と「焦燥感」、この2つの感情は表裏一体の関係にあり、僕たちはそれぞれのルーティーンで出来上がる日常を生きている。
Vlogを鑑賞する行為は、この同じような日常生活を送るルーティーンを変化させる可能性があるのではないか、論じる。
この「日常」を変化させる再発見、日常の中に潜む特別な瞬間を描き出すことに成功した好例として、『小林さんちのメイドラゴンS』第10話が挙げられる。
「小林さんちのメイドラゴンS」は、クール教信者による漫画を原作とするアニメの第2期シリーズだ。
主人公であるOLの「小林さん」のもとに、異世界から来たドラゴンの「トール」が押しかけメイドとして住み込み、トールをはじめとしたさまざまなドラゴンが集まり物語が展開するコメディ作品である。
第10話:カンナの夏休み(二か国語放送です!?)の後半では、異世界からきたドラゴンのひとり、「カンナカムイ / 小林 カンナ(こばやし カンナ)」と小林さんが二人で過ごす何気ない一日が描かれる。
普段はインドア派の小林さんが、カンナと一緒に外出することで新たな発見をする場面は印象的だ。例えば、マンホールの蓋を調べるカンナに付き合うことで、普段は入ったことのない喫茶店に入店したり、通常のマンホールとは違う、色とイラストがついたマンホールの蓋を発見する。それに対して小林さんは「ずっと住んでるのに知らないことあるなー」と発言する。これは、日常の中に潜む新鮮さや驚きを再発見する過程そのものと言える。
Vlogは、このような日常の再発見を促進する表現形式として機能する。鑑賞者は、Vlogを通じて他者の日常生活を鑑賞することで、自分自身の日常を新たな視点で捉え直す機会を得る。それは、平凡に見える日常の中に特別な瞬間を見出し、単なる娯楽以上の意味を持つ。僕たちの生活に対する認識を変え、日々の暮らしをより豊かなものにする潜在力を秘めている。
「ふつうの暮らし」を美学するが提示する視点と、「小林さんちのメイドラゴンS」が描く日常の再発見は、Vlogの持つ可能性を示唆している。Vlogは単なる記録や娯楽ではなく、僕たちの日常に対する認識を変え、生活をより豊かにする潜在力を持つツールなのだ。
では、V(VTuber)が、V(Vlog)を行う、とはいかなる意味を持つのか。
次章では、VTuberのVlog配信を、僕が以前の記事で展開した「偽装の創生」という概念と結びつけ、その意義と可能性について考える。
第3章:VTuberのVlogと「偽装の創生」による「日常の再創生」
本章では、VTuberのVlog配信を「偽装の創生」という概念と接続し、日常を豊かな感性で「捉え直す」のではなく「創り直す」という視点から、日常生活の意義と新たな可能性について考察する。
日常を豊かな感性で「捉え直す」のではなく「創り直す」とは、単に日記で日々を振り返る受動的な行為ではない。それは、意識的に日常に新たな習慣を取り入れ、思考と行動を伴わせることで、生活への主体的な関わりを深めることである。例えば、毎日5分間の瞑想を取り入れたり、新しい料理に挑戦したりすることで、私たちは日々の生活を「消費」するのではなく、「創造」する主体へと意識を転換させ、より深く日常を体験することができるのである。
「偽装の創生」とは、僕が創り出したV(バーチャル)に対する鑑賞者の内部に起こっている創造的プロセスを指す。
詳しくは下記の記事に詳細に書いているので割愛するが、端的に言うとVTuberに代表されるV(バーチャル)を鑑賞することは、「存在しないもの」を複数の創造する主体が協働して「存在するもの」として創造し続けるプロセスそのものだ。VTuberを観る「鑑賞者」もVTuberを創生し続ける主体の1人として機能する。
VTuber文化における「偽装の創生」は、以下の特徴を持つ
・現実とフィクションの融合:VTuberの存在自体が、現実の人間が演じるバーチャルなキャラクターという二重性を持つ。
・アイデンティティの流動性:VTuberのキャラクターは固定的ではなく、鑑賞者との相互作用によって常に変化し続ける。
・共創的なプロセス:VTuberの「偽装」は、配信者と鑑賞者が共に創り上げていく過程そのものである。
VTuberがVlog形式で配信を行うことは、「偽装の創生」のプロセスをより深化させる効果があると考える。Vlogを通じて「VTuberの日常」を見せることで、VTuberと鑑賞者はより心理的距離を縮め、VTuberの「実在感」を強化させる。
そして「VTuberがVlog配信を行う」行為は、鑑賞者側にも大きな影響を与える。鑑賞者は、VTuberの「日常」を通じて自身の現実認識を変容させ、新たな「日常」を創造していくきっかけとなる可能性がある。
この過程は以下のように考えられる:
・現実認識の変容:VTuberの「日常」を鑑賞することで、鑑賞者は自身の日常生活を新たな視点で捉え直す。
・「創り直す」意識の芽生え:VTuberの「日常」に触発され、「偽装の創生」に参加した、鑑賞者自身も自分の日常を見つめ直す、のではなく、「創り直す」という、より深い創造的プロセスが働く。
これらのプロセスを通じて、「偽装の創生」はより強化され、VTuberの「偽装」をより精緻なものにし、鑑賞者の没入感を高める。結果として、VTuberと鑑賞者の間に形成される関係性はより複雑で深いものとなる。
終わりに
VTuberのVlogがもたらす「日常の再創生」は、単なるエンターテインメントや自己表現の手段を超えた、現代社会における自己と現実の関係性を問い直す重要な文化現象だ。それは従来のVlogや一般的なVTuber活動とは一線を画すことになる。
「日常の再創生」とは、従来の人間のVlog配信における「日常」の「憧れ」「焦燥感」といった感情で、「日常」を「捉え直す」のではなく、「創り直す」行為として昇華された創造的プロセスだ。
「偽装の創生」と「日常の再発見」が組み合わさることで、VTuberのVlogは従来のVlog配信では考えられなかった、日常に関する新たな気づきや発見を超えたレベルの「日常」を提示する。それは、バーチャルと現実が融合した新たな現実の構築プロセスそのものだ。
「日常の再創生」とは、VTuberと鑑賞者が共に新たな現実を創造していくプロセスを指す。それは単なる日常の記録や理想化を超えて、デジタル時代における日々の暮らしの再認識と、アイデンティティの在り方に根本的な問いを投げかける。VTuberのVlogを通じて、鑑賞者は自身の日常を再創生し、バーチャルと現実が融合した新たな「日常」を構築していく。
それは、テクノロジーや技術の進化によって変容を続ける僕たちの「日常」をどのように理解し、構築していくべきかという問いに対する一つの答えとなりうるだろう。
今後の課題として、この「日常の再創生」がもたらす社会的・文化的影響のさらなる検証が必要だ。例えば、VTuberのVlogが鑑賞者の現実認識にどのような心理的メカニズムの変化をもたらすのか。
自分自身の日常生活をただ「捉え直す」のではなく「創り直す」という、より主体的なコミットメントを実現させるためには、何の要素が必要か。
また、この現象が既存のメディア環境や社会構造にどのような影響を与えるのかといった点について、より詳細な調査と分析が求められる。
技術の進化に伴い、VRやARなどの技術がさらに発展した場合、「日常の再創生」はどのような形態をとるようになるのか。この点についても、継続的な観察と調査が必要だろう。
結びとして、VTuberのVlogがもたらす「日常の再創生」は、デジタル社会における人間の存在様式を問い直す重要な文化現象であると僕は考える。
それは、エンターテインメントの枠を超えて、僕たちの現実認識とアイデンティティの在り方に深い影響を与える可能性を秘めている。
今後、この視点からのさらなる研究と考察が、VTuber文化のさらに深い理解と、デジタル社会における人間の「日常生活」の在り方の探求につながることを期待したい。