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対暇空裁判報告

はじめに

改めて支援のお願い

 この記事では私が巻き込まれた暇空茜からの訴訟の結果を報告させていただきます。

 その本題に入る前に、改めてご支援のお願いをします。以前よりnoteを介して裁判費用のご支援を受けておりますが、率直なところ、裁判による被害を回復するに至っていないのが現状です。

 この記事は既にカンパをいただいている方むけの報告でもあるので無料公開としています。ですが、ご支援をいただけるのであれば投げ銭のかたちで受け付けていますので改めてよろしくお願いします。


裁判結果の公表に関する留意

 この記事は、私が自身の裁判に関する判決を読み、第一審と控訴審を合わせて要約して報告するものです。暇空茜はこれまでに判決書などを販売することで利益を得ており、こうした活動が広がることは不適切であると考えているので、私から判決書を公表することはありません。

 今後、あるいはすでに、暇空は判決書を販売する/しているかもしれません。しかし、仮に批判目的であったとしても暇空の記事を購入しないようにお願いします。判決書の販売が暇空の利益となることは不適切だと考えるので購入しないでください。

 これは第三者が発表する裁判に関する主張についても同様です。現状、新橋対暇空裁判に関して、適切な要約と報告がされている記事はこれだけだと考えてください。それ以外の記事について、内容の妥当性を担保することはしませんしできません。

裁判結果の要約

 本件の裁判の論点と結果を要約すると以下の通りになります。

①新橋は暇空がデマを流布したと主張し名誉を毀損した
 →名誉毀損なので損害賠償を払え

②新橋は暇空に対し生命・身体へ危害を加える旨の投稿をしている
 →単なる論評であり名誉毀損ではない


③暇空は新橋が殺害予告をしたと言った
 →単なる論評であり名誉毀損ではない

各論点の結果

①暇空がデマを流布したという主張について

 私は訴訟のきっかけとなった記事で、暇空が「Colaboの会計に不正があった」というデマを流布したと指摘しました。これについて、裁判所の判断を要約すると以下のようなかたちになります。

デマとは事実がない事を認識しながら主張することであり、暇空がColaboに会計不正がないと認識していたという証拠はない

・仮にデマを「単に事実に反する投稿をすること」だとしても、会計監査の結果不適切な会計があったことは事実であり、会計に不正があったとする暇空の主張が退けられたという主張は事実ではない

・ほかの裁判の結果は裁判所の判断を左右しない

・よって、暇空が「Colaboの会計に不正があった」というデマを流布したという主張は事実に反し名誉を毀損してる

 まず目立つのが、「デマ」の定義が狂っているということです。これが第一審での敗訴の主要な原因になっています。有史以来、「デマ」という言葉の定義として、「事実がない事を認識しながら主張すること」が不可欠な要素だと考えられたことなどないと思いますが、裁判所は違うようです。控訴審ではこの点を指摘し一部改められましたが、裁判官は相変わらずこの独自解釈に固執しています。

 ちなみに、この「デマ」のイミフ定義は暇空側が言い出したことではなく、第一審の時点で裁判所が勝手にどこからともなく持ち出したものです。百歩譲って暇空側の主張を採用したならともかく、無から屁理屈を生み出してまで暇空を勝たせたいのかと訝しみたくなるような判決でした。

 加えて問題なのが、元となった私の記事での主張を一切無視し、「会計不正」と「不適切な会計」を混同したまま暇空に寄り添った判決を下していることです。

 私は元となった記事で、わざわざ「会計不正」と「不適切な会計」を区別し、後者はあったことを認めたうえで前者は否定されたと指摘しました。この点は第一審でも明確に主張しているところです。しかし、裁判官は「不適切な会計」があったことを根拠に、暇空がデマを流布したという主張は間違いだと判断しました。

 早い話が、記事の内容が事実に即したものになるよう、細心の注意を払って書いたにもかかわらず、その部分を一切無視して判決を下されたということです。記事の内容を全て読まないのが裁判官の考える「平均的な読解力」だとすれば、おおよそすべてのライターは名誉毀損のそしりを免れないでしょう。

 さらに問題なのは、「暇空の主張する会計不正が事実に反する」ことを裏書きするその他の証拠に一切触れないまま判決を下している点です。

 控訴審判決では第一審から新たに加わった、Colaboと暇空との裁判結果も証拠としています。いわゆる「タコ部屋」発言などに関するもので、裁判では暇空が敗訴しています。が、裁判所はただ一言「裁判所の判断を左右しない」とだけ書いて無視しました。明確な証拠を示しているにもかかわらず、理由すら示さずに無視されてはどのようにして裁判に勝てばよいのでしょうか。

 こうして結果を概観すると、敗訴の大きな要因として、デマの定義がくるっていることと同時に、暇空が原告となったことも大きかったのだとも思います。暇空が原告になったことで、裁判の論点が「暇空の主張が正しいか(≒会計不正が実際にあったか)」ではなく「新橋の主張が正しいか(≒暇空がデマを流布したという主張が正しいか)」になってしまいました。その結果、デマの定義が狂い「仮に主張が間違っていたとしてもデマではない」という状況になったり、僅かな不適切さを引っ張り出して「不正があると考えるのももっともだ」という判断が下され、「暇空がデマを流布した」という主張が名誉毀損とされてしまいました。

 ちなみに、本筋ではありませんが、第一審では暇空が「温泉むすめを叩かれたから」Colaboを攻撃したという点も否定されています。他の理由(会計の怪しいところを見つけた)があるからという理由でしょうが、本人がはっきりそう発言しているにもかかわらず、そしてそのことはもちろん裁判で指摘したにもかかわらず、当人の発言すら無視されています。もはやどうしようもありません。

 私にとっての不幸中の幸いは、皮肉なことに、裁判官が無視したColaboの裁判の結果が会計不正云々の事実関係に決着をつけているということです。私の裁判で裁判官が何と言おうが、Colaboが暇空に勝ったという事実は存在していてくれます。

②新橋が暇空を殺害予告したという主張について

 2つ目の論点は、いわゆる「ぶっ〇したほうが早い」発言についてです。これはある暇アノンが、宮台真司が襲撃された事件を指してColaboの会見から目を逸らすための「ナニカグループ」やColaboの仕業であるといった旨の陰謀論を流布していたものに対し、私が、そんなことをするなら「ナニカグループ」などが直接暇空をぶっ〇した方が早いので馬鹿げた主張だと指摘したものです。

 この点に関しては、言うまでもなく、暇空への殺害予告でも何でもなく、陰謀論のありえなさを指摘する論評であると判断され、損害賠償は棄却されました。

 当然の判決ですが、「デマ」判決への異次元さを考えればここで当然の判断が下されたのが奇跡であるかのようにも思えます。

 しかし、そもそも私が暇空から訴訟を吹っ掛けられるきっかけとなったのはこの発言に対し開示請求が認められたからでした。裁判で争うまでもなく殺害予告でも何でもない発言に対し軽々に開示を認めたせいでこうした厄介ごとに巻き込まれましたし、私の発言をRTしたほかの方まで訴訟を吹っ掛けられることにもつながりました。軽率な判断が暇空を調子づかせたことを裁判所は猛省してほしいと思います。

③暇空の新橋が殺害予告をしたという主張について(反訴)

 ②に対応するかたちで、こちらから暇空に対し反訴を提起しました。配信で暇空は、私が殺害予告をしたかのように主張していましたが、それは事実でないため名誉を毀損するものだと訴えました。

 結論から言えば、この反訴は棄却されてしまいました。第一審では、新橋のアカウントには同定可能性がなく、またフォロワー数はチャンネル登録者数から照らしてペンネームとしての法的保護の対象にもならないとされました。

 もちろん、こうした判断は誤っているため、控訴審では覆されました。しかし、それでもなお、暇空の主張はあくまで論評の域を出ないものだとして損害賠償は棄却されました。

 第一審の判決は、早い話が、フォロワー数やチャンネル登録者数が多ければ保護の対象になるが、少なければならないというものです。ですが、これは登録者数を増やす過程を一切無視し、単に世間に広く知られていれば保護される価値があるという不合理な判断と言えます。

 また、暇空の発言を論評だとした点も納得のいかない判断です。私が聞く限りでは事実の適示になっているようですが、裁判所はそうは考えなかったようです。なお、反訴では暇空が私に対し「SNSで執拗に悪口を書いた」とした発言も訴えていますが、これも論評だとされました。暇空の発言は全て論評になるのかもしれません。

今回の裁判について

 名誉棄損の訴訟に関しては一般に、裁判所は平均的な読解力を有する読者を想定して判断すると聞きます。であれば、私が考える「平均的な読解力」と裁判所の考えるそれには大きな隔たりがあるのかもしれません。私は、少なくとも書かれている内容はそのまま受け取るのが「平均的な読解力」だと思っていましたが、裁判所はそうではなく、記事を好き勝手に読み飛ばすし、単語をピックアップして勝手に曲解するし、都合の悪い情報は無視してしまうのが「平均的な読解力」だと思っているのかもしれません。そして、それは事実かもしれません。事実だったからこそ暇アノン問題が起こったのでしょう。

 (ちなみに、この記事に対し、暇アノンが碌に読まずに『負けたと書くだけでこの長さ?』というようなネットミームのコピペで反応することを予言しておきます。なので当たったらそいつは罰金として10万円払うように。noteの投げ銭機能を使えば簡単です)

 今回の件で思い出すのは、以前、関西のある大学で角田由紀子弁護士の講演を聞いた時のことです。当時はもちろん暇アノン問題などなく、氏がColaboの弁護団に加わるのも遠い未来のことだった時期です。その講演は性犯罪に関するもので、氏は裁判所がときにありえない判決を下すことを述べていました。

 質疑応答のとき、私は氏に1つ質問をしました。性犯罪事件の裁判で色々不可解な判断が下されているのは私も知っていましたが、それは裁判官も何かしらの基準があって(基準の正否はさておき)言っているのではないか、みたいなことを聞いた覚えがあります。うまく表現はできなかったと思いますが。裁判官には裁判官なりの基準のなりなんなりがあって判断しているのであって、まさか個々人が好き勝手に適当な判断をしているわけではないだろうと思ったのです。

 ともあれ、私の質問を、角田弁護士は「根拠はないのだ」という旨の回答でばっさり切り捨てました。当時は何となくそんなもんかと分かった気になっていましたが、自分の身に降りかかって初めて実感をもって理解できました。当時の自身の不明を改めて恥じる思いです。

 裁判官は良心に従って判断を下すとされています。これは権力や世論の風潮から惑わされずに判断を下す権利と義務を示すものだと考えていいいでしょう。ですが、裁判官の中には、それを「知見や証拠を無視して自分の脳内で勝手に決めていいこと」だとはき違えている者もいるようです。

 偶然にも、この記事を書いているタイミングで、ある性暴力事件が無罪判決となりました。詳細は省きました、情報をみる限り、撮影されていた被害当時の動画に女性の拒絶がはっきり残っているにもかかわらず同意のある性行為だとされてしまったようです。事実だとすれば、その裁判官は良心と性欲の区別がついていないようです。

 性暴力事件と自身の訴訟を並べるのはあまりにもおこがましいのですが、しかし、こうした事例を見ても、裁判官はもう少し常識的な判断を下してほしいと思わざるを得ません。

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新橋九段
金のない犯罪学者にコーヒーを奢ろう!金がないので泣いて喜びます。