超人から人間へーイギリスすごいなと思うこと
頼んでいた通販が、トラッキングつきのはずなのに輸送中に見失われたらしい。
お店のひとは、すぐに「最近デリバリーの会社を変えたんだけど、いくつかトラブルが続いてて。もしうちに返送されてきたら連絡するから、とりあえずは返金させて」とすぐに対応してくれた。
一点モノだったのに…と残念に思うけれど、さすがにもうそんなことくらいでは動揺しない。
日本だったら、と思いもしない。
甘いハネムーン期もガッカリのショック期も何周もぐるぐる通り過ぎたから。
でも、いつもこの国に失望しているわけじゃない。
今回はイギリスすごいなと思うことを書いておきたい。
それは、身体障害者の社会のあちらこちらでの活躍ぶりだ。
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今年の夏は日本にいたので、日本でもパリ パラリンピックがかなり盛り上がっていたのを知っている。
今から12年前。
2012年のロンドンは、オリンピックに沸いていた。
直前まで結構反対運動があったし、国民の関心は薄いなんて話もあったけれど、実際始まってみたら、開会式からエリザベス女王とジェームスボンドは登場するしで、おおいに盛り上がって、そのお祭り騒ぎはかなりヒートアップした。
そんな興奮とともにオリンピックが終わった後。
そこら中に、こんな看板が掲げられた。
そう。
オリンピックを「前座」ととらえ、競技会本番前のウォームアップにたとえた、イギリスらしい皮肉が利いたユーモアたっぷりの広告だ。
そして、テレビではMeet the Superhumans(超人に会おう)というコマーシャルが流された。
すごい、と思った。
「オリンピックのあとのおまけ」ではなく、パラリンピックそのものを、「超人(Superhuman)たちがハイレベルの競技をみせる場所」だと強く印象づけていたから。
このコマーシャルに出演していた5人制サッカーのGreat Britain代表Dave Clarke選手は、
「障害者をSuperhumanと呼ぶのは皮肉だと最初は思った。
しかし障害者が素晴らしいプレーをしてSuperhumanと呼ばれるのは、ウサイン・ボルトというSuperhumanが100メートルを10秒以下で走るのと同じだと思った」
と後に語っている。
このキャンペーンが功を奏したか、ロンドンパラリンピックは「障害があるのによくがんばっているね」という同情ではなく、スポーツの1ジャンルとして共感され、受け入れられ、エキサイティングで観戦するのが楽しいからという理由で多くの応援を集めた。
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同じ2012年ころだったと思う。
シェイクスピアのグローブ座に「トリスタンとイゾルデ」を観に行った。
主要キャストのひとりが前腕欠損だと気づいたのは、舞台も後半にさしかかったころ。
それまで、まったくそんなことに気持ちがいかないくらい自然に演じていたからだ。
たとえば、今週一週間のテレビを振り返ってみても、たくさんの役割をごく普通に身体障害者のひとたちが務めている。
特別な24時間の企画番組ではなく、
ごくあたりまえの、日常の番組のなかに。
平日毎夜やっている番組では、車椅子に乗ったレポーターがレギュラー出演者としてでている。この日は特殊詐欺の問題を取り上げ、街頭インタビューもやっていた。
朝の情報番組では、聴覚障害者の料理研究家が野菜入りマカロニチーズのレシピを紹介している。
国会では「安楽死法案」のヒートアップした論議に、自らも障害をもつ下院議員が答弁を行っていた。
今週は見かけなかったけれど、天気予報も。
BBCの旅行番組「The Travel Show」の人気レポーターも、車椅子で世界を旅している。
そこには、取りたてて特別扱いをする感じも、同情を誘うトーンもない。
あくまで、たくさんのうちのひとり、だ。
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2012年のパラリンピック広告キャンペーンのコピーは「Meet the Superhumans」、2016年のリオデジャネイロのキャンペーンコピーは「We're the Superhumans」だった。
そして、2021年に開催された2020年東京パラリンピックでは、コピーは「Super. Human.」に発展した。
「超人」から「超・人間」へ。
この東京パラリンピックのキャンペーンコマーシャルビデオの最後で、ボッチャのGreat Britain代表David Smithが「Super. Human」のSuperの文字をたたき割る。
そう。
「超人」から「人間」へ。
ロンドンからの9年のあいだに、この国のパラリンピックへの、障害者への、社会の意識が変わってきたことを踏まえて、訴えている。
もう、人間の部分に焦点を回帰しようよ、と。
同情したり、過保護に反応したりする必要があるわけじゃない。
身体に不自由なところを抱えているというだけの。
あくまで、たくさんの個性ある人間のひとり。
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そういえば、その普通に社会の一部として受け止める姿勢は、車椅子に乗っている同僚が日本から出張してきたときにも体験した。
こういった「超人」が「人間」へと、変遷する過程をこの国のなかで見てきたから。
そして普通にいろんな場面で活躍数障害者たちを目にするから。
日頃の生活で、同情でなく、厚意で手を差し伸べる成熟した環境が整っていると感じるから。
こんなところは、イギリスすごいなと思ってしまうのだ。