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主婦業を引退します。

 どうやら私は、骨の髄まで昭和な人間らしい。

 平成の真っ只中に青春時代を送ったにもかかわらず、なぜか「引退」と言われて、思い浮かべるのは、安室奈美恵あむろなみえではなく、純白の衣装に身を包んだ山口百恵やまぐちももえの姿である。

 ラストコンサートで「さよならの向う側」を熱唱し、舞台中央に白いマイクを置いて、芸能界を去っていった山口百恵。
 一度見たら忘れられないドラマチックなシーンは伝説となり、平成を経た令和の今では、もはや神話となっている。

 私はただの主婦である。
 伝説や神話とは無縁の暮らしをしてきたわけだが、ある日のこと。居間でぼんやりしていると、台所から、何やらガタガタと音が聞こえてきた。

 夫が小腹でも空かせて、冷蔵庫からバナナでも出して食べているのだろう。そう思い、しばらく放っておいたが、騒音は止まない。
 不審に思い、台所に顔を出すと、ふんわりやさしい煮物の匂いが鼻をかすめた。

「ん? なんかいい匂いする」
 異変に気づいた私に、夫は小皿を差し出す。
「里芋がそのへんにほったらかしになってたから、ちょっと煮てみたんだよ」
 まさか料理をしていたとは……驚いた私は皿を覗き込んだ。

お?

 薄い色の上品な煮上がり。
 面取りなどはしていないが、表面は滑らかで、ほっくりつやつやとしている。
 里芋に見入る私が物欲しそうに見えたのだろう。夫はおそるおそる、
「一個、食べる?」
 と、訊いてきた。

 普段、自分の作ったものばかり食べている主婦にとって、他の誰かが作った食べ物はご馳走だ。私は
「食べる」
 と、食い気味に即答した。

 里芋に箸を入れると、むにゅりと気持ちよくふたつに割れた。火の通りは申し分ない。しかし、問題は味だ。
 私は里芋を口に運ぶ。

 むむっ!

 ねっちりした歯ざわり。
 素朴な味わいを邪魔しない程度に淡く利かせた出汁。里芋の自然な甘みが、舌をやさしく包み込む。

 噛み砕かれた里芋はなんの抵抗もなく、するりと喉を通っていく。穏やかな甘みだけを残し、私の口から去っていった里芋……ああ、なんと儚いはかな食べ物であろうか。

「もう一個どう?」

 お言葉に甘えて頂くことにする。
 舌が、やさしく味付けされた煮物との再会を喜んだと思った刹那、艶めかしいとろみが口の中に広がり、里芋はまたもや、するりと喉を通り過ぎていった。
 後味を残さない、滋味深い味わい。

 ……もしやここは、宿坊か?!

 と、錯覚しそうになる。
 私は思わず訊いた。
「これを、あなたが作ったの?」
「そうだよ」
 我が家は夫婦二人暮らし。他にコックなどいるはずもない。
「どっ、どうやって!」
 問い詰められ、夫はけ反る。

「か、皮剥いて、水入れて、ちょっぴりの麺つゆと塩を入れて煮ただけだよ」
「本当にそれだけ?」
「うん」

 鍋に残っていた里芋を、菜箸で転がしてみる。
 ……全て完璧な煮上がりだ。
 どの里芋も肩寄せ合い、幸せそうに鍋の中でほっこりしている。 

   ああ、この人に調理してもらってよかった。

 耳を澄ますと、そんな里芋たちの囁く声が聞こえてくるようだ。

 早いもので主婦になって24年。
 季節になると、手を変え品を変え、様々な里芋料理をこしらえてきたが、一度たりとも、

   ああ、この人に調理してもらってよかった。

 という里芋の囁きを聞いたことがない。
 私の作ったものより、夫が気まぐれに作った里芋のほうが美味しい……そんな現実を目の当たりにし、私の頭の中に、

引退。

 の二文字が浮かび上がった。
 私の心のステージには既に、山口百恵がスタンバイしている。このとき、偶然にも菜箸を手にしていた。それをマイクに見立て、グッと握りしめると、私は胸いっぱいに息を吸い込んだ。

「……ラースト・ソング・フォ・ユゥ ラースト・ソング・フォ・ユゥ~♪ 約束なしのお別れですぅ……」


 なんの前触れもなく、Bメロから熱唱を始める妻に、夫は目を丸くする。
 歌う曲はもちろん、山口百恵がラストコンサートで歌った、あの「さよならの向う側」である。


 だが、私が着ている衣装は真っ白なドレスではなく、毛玉の絡まったネズミ色のフリースだ。
 しかし、それを恥じることはない。
 主婦業の引退コンサートにドレスなど無用。手に菜箸ひとつあれば充分である。

 鼻歌交じりのお粗末な歌唱ではあったが、夫は唐突に始まった妻のラストソングを、黙って聴いてくれた。

 そして私は、さよならのかわりに、握りしめていた菜箸を流し台に置くと、山口百恵の如く、ゆっくり台所から立ち去ったのだった。




 山口百恵さんの公式動画は見つからず……こちらはミュージシャンの息子さんが歌う「さよならの向う側」です。


 その後私は、ネギ油を作るために熱唱から1時間足らずで主婦業に復帰した。 

ネギの青いところを使いました。具が美味しい。


 


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花丸恵
お読み頂き、本当に有難うございました!