美しいと感じるとき
はじめに
P. S チャーチランドという哲学者が書いた『脳がつくる倫理』という本は、執筆者にとってかなりの衝撃でした。
この本は脳の認知研究で倫理の基盤を見ていこうという本で、それまで読んできた倫理学の本が「カントは~」などの引用と長い論述に支えられていたのとは全く違います。
例を挙げると、「道徳的」とされるものは、それを守るとオキシトシンが分泌されるようなもの、と語られ根拠として実験データが説明されます。
社会的行動はオキシトシンといったホルモンの、つまり私たちの生物学的あり方に基づくというところから倫理を考えるというものです。
要は「哲学者なる昔の人の空想やおしゃべりなんかより、脳や認知の実験データの方がしっかりと根拠になるよね」という話です。この考えが基のひとつになっているものとして神経美学という分野があります。
哲学者たちが「美とはなんぞや」と考えたり、「美術をどのように感じているのか」と悩んだりするなかで、多くの論考が書かれてきましたが、それらは過去の引用と「俺はこう思う」の繰り返しでしかなく、根拠が権威なだけということで、実際に認知の方を探りだしました。
美的経験の成り立ち
脳波測定器をつけて、いろんな作品を見せて脳のどこの部分が活動しているかを探るのが基本になります。その脳の機能は概ね分かっているので、それに照らし合わせて論文が書かれていきます。
絵を見ているときの脳の情報処理は全く違う部位が動いています。そのすべてにキレイや美しいという言葉を当てはめていますが、それは私たちの言語の習慣ということになるでしょう。
twitter(新X)で投稿したように、美術鑑賞は報酬系と呼ばれる脳の部位を刺激することが明らかになり、美は快である、と長年の美学の議論に終止符をうつかのような発表がなされています。
これを反論しようとしても、いわゆる思弁では説得力が欠けます。「あの哲学者がこう言ってたんだよ」くらいの根拠では覆らないですし、苦し紛れに「自然主義的誤謬だ」と言ったところで、だから何か問題でも?くらいのものです。
視線の分析
2009年情報処理学会五月号誌に載った『絵画鑑賞時の眼球停留の時間的な発生頻度に着目した注目状態の研究』という論文(検索すればネットで読めます)があります。これは実験者の視覚を測定して、絵を見ているときにどこを集中的に見ているのか、という実験の報告です。
実験は、特に美術への知識や関心がない大学生たちによって行われましたが、見事に「絵画の中央部と人が描かれている部分」しかちゃんと見ていないことが示されています。
知識がないと、絵はそのあたりしか見ていないということになるのです。要はほとんど見ていないという衝撃的な結論ですが、あまり興味のない作品への見方はこのようなものなので、納得はいきます。
絵の真ん中と、他に描かれている人がいるところだけで、背景や周囲はほとんど見ていないことが示されたので、「絵は知識で見るもの」というのが実際の所になるのでしょう。
「絵は真っ白な感性で、正直に見てごらん」「のびやかに自由に絵を見てみよう」とは美術教育の現場で一度は聞いたことがあるかもしれませんが、それでは真ん中と人の描かれたところしか見てませんよ、ということになります。知識があって初めて全体を見て、かつ細部も見ることができるのです。
まとめ
この態度に問題があるとすれば、まだ脳や神経には未解明の部分が大きいことがあげられます。この部位は実はこのような役割を果たしていそうだぞ、という新発見が相次げば、上記の実験結果も覆る恐れはあります。
ただそれ以外は、少なくとも哲学者の直感やお喋りと過去の引用よりは説得力があるので、有力だと思われます。私個人としても美学の諸問題はとりあえず脳波スキャンで片づけてしまえばいいのに、という冷めた立場です。
しかし美術の魅力は神秘的なところだったり、謎めいているところだったりするので、その根本を破壊しかねないと思いはします。
「痛みとはC繊維発火の状態だよ」と説明されても、「いや、そうじゃなくって…」と言いたくなるロマン派的な立場に親近感があることは自白します。
少なくとも美術史や伝統的な美学研究(もはや美学というより思想史研究だが)は、あまりこの神経美学的なアプローチに賛同していないように思われます。理系分野に苦手意識がある人が多いのが直接的な理由でしょうが、大きな関心は作家の脳であって鑑賞者の脳ではないからだと思われます。
実際、美術側と心理学・認知科学側が協同しているケースはそれほど多くないですし、身近なところでは東京大学医学部と東京藝術大学の共同研究?のようなものをやっていたことは知っていますが、現状どうなっているのかは不明です。