(ネタバレなし)『鬼滅の刃』を例に「物語を面白くする技術」を具体的に解説する
『鬼滅の刃』に限らず、多くの方に読まれている作品には、たくさんの「物語を面白くする技術」が使われている。この記事では、『鬼滅の刃』を例に、それがどんな技術なのか、物語制作を一切したことがない人にもわかるように、多くの作品に共通する基本的な部分を解説する。
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以下は、『鬼滅の刃』の最初の1ページである。
(『鬼滅の刃』第1巻より引用)
なぜ、最初の1ページが、このようになっているか、分かるだろうか?
なぜ、これが最初に来なければならないのだろうか?
物語は、最初から面白くないと、読者が離脱してしまうからだ。
いくら100ページ以降に面白くなっても、最初の100ページがつまらない物語は、少なくとも現代においては、なかなか読んでもらえない。
じゃあ、物語のクライマックスシーンを、いきなり物語の冒頭に持ってきたら、どうだろうか?
その場合、読者は、それを面白いと感じない。
主人公が宿敵と白熱のバトルを繰り広げても、読者は、それを面白いと思わないのである。
なぜか?
読者が、まだ、主人公に感情移入していないからだ。
よく知らない人が、よく知らない怪物と戦っていても、たいして面白くないのである。
また、面白いシーンというのは、たいてい、どんでん返しがある。
予想外の展開に読者は驚かされ、手に汗握ったり、感動したりするのである。
しかし、いきなりどんでん返しのシーンを冒頭に持ってきても、読者はそれをどんでん返しだとは感じない。
「どんでん返し」とは、読者の予想と違う展開にすることだ。
しかし、そもそも読者が予想していなければ、予想と違う展開など存在しない。
だから、どんでん返しを作るには、まず、読者に予想させる仕掛けが必要となる。
「読者に予想させる → その予想を裏切る」というのが、どんでん返しの作り方なのだ。
読者がキャラ(登場人物)に感情移入している場合、そのキャラが今後どうなるのか気になる。キャラの未来を、無意識のうちに予想するようになる。
どうでもいいと思っているキャラは、今後どうなろうと知ったこっちゃない。だから、感情移入していないキャラの未来など、予想しない。
だから、そもそも、読者をキャラに感情移入させる仕掛けがないと、どんでん返しが成立しないのだ。
じゃあ、読者をキャラに感情移入させるには、どうすればいいのだろうか?
一番重要なのは、キャラの動機である。
どういう動機で行動しているのかわからないキャラには、読者は、感情移入しない。
しかし、いくら動機がはっきりしていても、その動機が「正義のため」だったりすると、読者は感情移入しない。
「正義のため」という動機は、抽象的な、きれいごとだからだ。
その動機が「具体的」な「本音」だと感じられないと、読者は感情移入しないのである。
じゃあ、「お金のため」という動機はどうだろうか?
たしかに、これは「具体的」な「本音」ではある。
しかし、その場合も、読者は感情移入してくれないことが多い。
とくに、小学生でも楽しめる物語にするつもりなら、それを動機にすると、なかなかうまくいかない。
なぜなら、ほとんどの人は、「お金のため」に、命がけで戦ったりする気になれないからだ。
ほとんどの人は、お金は欲しいけれども、そこまで切実に欲しいとは思わない。
多くの場合、物語を面白くするには、「お金のため」という動機は、弱すぎるのである。
では、読者をキャラに感情移入させられるだけの強い動機とは、なんだろうか?
「好きな異性の心を射止めるため」なんてのも、よくあるパターンだが、それよりももっと典型的なのは、「自分、もしくは、自分の愛する人の命を救うため」である。
だから、炭治郎の動機は「妹を救うため」なのである。
妹を救うために、命がけで行動する兄というのは、リアリティがある。
だから、『鬼滅の刃』は、最初の1ページで、炭治郎の動機が「妹を救うため」であることを、読者に伝えたのである。
じゃあ、動機さえわかれば、読者は、主人公に感情移入するのだろうか?
もちろん、話は、そんなに簡単ではない。
いくら動機がはっきりしていても、「よく知らない人」に、読者は、たいして感情移入しないのである。
だから、まず、読者に、主人公の炭治郎がどんな人間か、よく知ってもらう必要がある。
しかし、炭治郎がどんな人間かを、くどくどと説明すると、話が面白くないので、そこで読者は離脱してしまう。
ここに、物語設計のジレンマがある。
物語は、最初から面白くないと、読者は離脱してしまう。
しかし、読者を主人公に感情移入させないと、物語を面白いと感じてもらえない。
感情移入させるには、主人公を知ってもらわないといけない。
主人公を知ってもらうために、主人公がどんな人間かを説明すると、つまらないので、読者は離脱してしまう。
どうせいっつーんじゃ!
この矛盾を解決するため、多くの物語では、まず、主人公の日常生活を描くことから、物語は始まる。
つまり、主人公の日常生活の描写を通して、主人公がどんな人間であるか、読者に知ってもらうのである。
しかし、この日常生活の描写が退屈だと、読者は離脱してしまう。
この問題を解決する手段の一つが、アニメ化である。
音と映像の力を借りて、日常生活の描写を面白くするのである。
原作のマンガは小ヒットぐらいだったのに、アニメ化したら大ヒットになることがあるが、その場合、これが原因の一つになっていることがある。
しかし、まずはマンガ版をそこそこ多くの読者に読んでもらわないと、そもそも小ヒットにならず、「アニメ化しましょう」という話にならない。
したがって、まずはマンガという表現形式の範囲内で可能な方法だけで、日常生活を、読者が離脱しない程度には面白く描かなければ、話が始まらない。
なので、ここが、作者の腕の見せ所となる。
いくらマンガのクライマックスシーンを面白く描くことができても、この、「日常生活を面白く描く」という腕がない漫画家は、そもそも、読者に読み始めてもらえず、日の目を見ることはないのである。
とは言え、いくら作者が頑張って日常を面白く描いても、限界がある。
なぜなら、よく知らない人の日常生活を読まされても、読者は、なかなか、それを面白いと感じないからだ。
だから、物語の冒頭、まだ読者が主人公に感情移入していない時点で、主人公の日常生活を描くと、そこで読者はどんどん離脱してしまいがちだ。
この問題を解決する方法の1つが、「フラッシュフォワード」という技術である。
これは、「未来の緊迫したシーン」の一部を、物語の冒頭に持ってくるテクニックだ。
『鬼滅の刃』の最初の1ページは、実は、このフラッシュフォワードなのである。
このテクニックは、はるか昔から使われている技術だし、『魔法少女まどか マギカ』などの人気作品にも使われているものなので、ご存じの方も多いだろう。
『鬼滅の刃』でも、『魔法少女まどか マギカ』でも、定石通り、フラッシュフォワードの後に、主人公の日常生活のシーンが来る構成になっている。
もちろん、「よく知らない人」の緊迫したシーンを見せられても、読者は、それをたいして面白いとは思わない。
だから、フラッシュフォワードでできるのは、せいぜい、「緊迫した事態が、未来に発生するぞ」という予感を読者に伝えることぐらいだ。
このフラッシュフォワードは、一種のネタバレである。
物語が始まる前にフラッシュフォワードを提示することで、読者は、未来に、緊迫した事態が発生することを知ってしまう。
だから、いざ、その緊迫した事態が発生したときの、驚きが減ってしまう。
不意打ち度が低くなるし、どんでん返し度も低くなる。
物語の面白さが、減ってしまうのである。
フラッシュフォワードというのは、利息の大きな借金のようなもので、その代償は、今後の物語の面白さの棄損という形で支払わなければならない。
だから、フラッシュフォワードは、使わないで済むなら、使わない方がいい。
フラッシュフォワードを使わずに、読者に物語を読ませることができる場合は、フラッシュフォワードは使わない。
実際、フラッシュフォワードを使っていない物語も多い。
しかし、『鬼滅の刃』の対象読者には、小学生も含まれている。
彼らに、忍耐強さなど、まず期待できない。
フラッシュフォワードを使わずに、主人公の日常生活の描写から始めたら、退屈して離脱してしまう子が大量発生してしまう。
だから、作者は、フラッシュフォワードに悪い副作用があると知っていながら、それを使わないわけにはいかなかったのだ。
フラッシュフォワードの裏には、このような、ぎりぎりの駆け引きがあるのだ。
もちろん、『鬼滅の刃』の最初の1ページでは、フラッシュフォワードの悪い副作用を最小化するために、最大限の気遣いがされている。
まず、ネタバレが最小限で済むように、炭治郎と禰豆子以外の登場人物がどうなっているかの情報は、隠している。
禰豆子は「血を流して意識を失っている」「死にそうである」ことだけはわかるが、それ以外、どういう状態になっているのかも、一切、伝えていない。
だから、この後、炭治郎の家族が出てきても、その家族の運命がどうなるかは、読者は知ることはできないので、読者に不意打ちを食らわせることができる。
(一方、『魔法少女まどかマギカ』の場合は、フラッシュフォワードのこの弱点を逆手に取るというアクロバティックな離れ業で、この問題を解決している。さすが虚淵玄、と、うならずにはいられない。(虚淵玄氏は、『魔法少女まどかマギカ』の脚本を手がけた方))
この1ページを作るために考えなければならないことは、まだまだ大量にあるが、解説するのに飽きてきたので、この辺にしておく。
実は、このように、1ページ1ページ、1コマ1コマ、そこに詰め込まれている「物語を面白くする技術」を解析していくと、とてつもない分量の技術と思考が、それぞれのページやコマに詰め込まれていることが分かる。
しかも、その技術を使って、自分で物語を書こうとすると、そう簡単にはいかないことがわかる。
一流の柔道選手の技をいくら分析しても、それだけでは、その技を実戦で使えるようにはならないのと同じだ。
実際に自分で組み手をやり、その技で相手を投げようと試行錯誤してみないことには、その技は実戦で使えるようにならないのである。
もちろん、強い選手の技の分析をせずに、自己流で、やみくもに組み手を繰り返しても、それだけでは、強い相手を投げ飛ばせるようにはならない。
一流の選手の投げ方をよく分析して、そこで得られた知見を活用して、実際に組み手でその技を相手にかけようと試行錯誤を繰り返すことで初めて、実戦でその技を使って相手を倒せるようになっていく。
分析と実戦は、必ずセットでやらなければ、その技は、自分のものにならないのである。
それと同じで、物語制作も、ひたすら物語を書き続けるだけでは、ほとんどの人は、面白い物語を書けるようにはならない。
面白い物語を書ける人々のさまざまな作品を分析し、そこで得られた知見を使って、実際に自分で物語を書くことを繰り返すことではじめて、物語制作の技術が、自分の血肉になっていく。
なぜなら、フラッシュフォワードの例からわかるように、物語設計には、たくさんのトレードオフがあり、それらのトレードオフを一つ一つ細心の注意を払ってバランスを取りながら、自分で組み上げていかないと、物語は作れないからだ。
単に、大量の技術を丸暗記すれば、それだけで物語が作れるというものではないのである。
なので、それらの技術の習得には、膨大な時間がかかる。
実際、『鬼滅の刃』の最初の1ページを書けるようになるまでに、作者が費やしてきた思考と時間の積み重ねを思うと、気が遠くなる。
主人公の炭治郎の鍛錬どころではない。
作者の吾峠先生が新人作家の頃、初掲載が決まったので、編集者がその掲載紙を渡しに行ったところ、先生は、ページを開いたとたん、ポロポロと涙を流したそうである。
そりゃそうだろう、と思った。
このように、単にコンテンツを読者として消費するだけではなく、そこに詰め込まれている制作技術を解析し、1コマ1コマに詰め込まれた膨大な思考の質と量に圧倒され、その技術を血肉にするまでに作者が費やした時間に思いをはせながら読むと、ある意味、そのコンテンツ以上に濃厚で面白い、まったく別の物語が立ち上がってくる。
作者の人生の物語が立ち上がってくるのだ。
もちろん、これは、漫画に限ったことではない。
日常、さして気にも留めずに消費しているコンテンツ、プロダクト、サービス、論文の多くは、それを創り出すまでの技術と思考の積み重ねを解析してみると、技術と思考の質と量に圧倒され、畏敬の念を抱かずにはいられなくなる。
これはある種、ブラタモリで、地形や地層を分析して、その土地のはるかな物語に思いをはせるのに似ている。
コンテンツやプロダクトの技術・思考・情熱の堆積層を見て、その制作物語に思いをはせるのだ。
コンテンツ・ブラタモリである。
もちろん、事前知識のない人が、いきなりブラタモリのようなことをやってもどこに地層が露出しているか分からないし、地層を見てもなんのこっちゃわからない。それと同じで、コンテンツ・ブラタモリも、事前知識のない人がやっても、技術・思考・情熱の堆積層は見えてこないし、見えたとしても、意味が分からない。
ただ、事前知識さえあればできるのかというと、そんな簡単な話ではない。
物語の作り方は、漫画・小説・脚本の書き方の本に書いてあるが、ほとんどの人は、それらの本を読んだだけではコンテンツ・ブラタモリできるようにはならないし、自分で物語を作れるようにもならない。
実は、「小説や漫画を書いたのだけど、ろくに読んでもらえない」という人のほとんどは、次の3つのタイプのいずれかである。
(1)ひたすら自己流で物語を書き続けているだけで、他人の優れた作品の分析をろくにやらない。
(2)漫画・小説・脚本の書き方の本や動画を見たり、他人の作品の分析をするのだけど、自分の作品をろくに書いていない。
(3)漫画・小説・脚本の書き方の本を読むし、他人のすぐれた作品の分析もするし、自分の作品もたくさん書くのだけど、面白い作品にならない。
このうち、(1)と(2)は論外なので、言及するに値しない。
問題は、(3)のタイプである。
実は、(3)のタイプの人と「面白さの作り方」について議論すると、ある、共通した特徴があることが分かる。
『鬼滅の刃』の作者の吾峠先生と担当編集者のやり取りを例に、それを説明する。
以下、『『鬼滅の刃』担当編集者座談会』より引用する。
( 『『鬼滅の刃』担当編集者座談会』 https://www.shueisha.co.jp/saiyo/works/special/kimetsu/talk/ より引用)
この例で言うなら、(3)のタイプの人は、「マンガはキャラが大事」で思考が止まってしまっている人だ。
吾峠先生のように、「いつどこでどのようにキャラは大事なんですか、そもそもキャラとは何を指しているんですか」「では、それは具体的にはどのように描けば読者に伝わりますか」と、具体的な問い、精緻な問い、厳しい問い、本質的な問いを重ねていないのだ。
どんな分野でも、本物の実力とは、「何故そうなのか?」「本当にそうなのか?」「具体的にはどうやるのか?」と高い解像度で問い続けながら自問自答することなしには獲得しえないものだ。
しかし、本に書かれた「正解」を効率よく暗記すれば、実力が身につくのだと勘違いしている人が多い。
確かに、大学入試には「正解のある問題」しか出題されないから、正解の出し方を効率よく覚えれば、いい大学には入れる。
しかし、現実の仕事や生活においては、答えを出す能力以上に、的確に問う能力がカギとなるのだ。
私自身、自分で書いた小説が、『小説家になろう』(小説投稿サイト)のランキングで、カテゴリ1位をとれるようになったのは、かなり長期間に渡って、「何故そうなのか?」「本当にそうなのか?」「具体的にはどうやるのか?」を延々と積み重ねた後のことである。
もちろん、自分ひとりで「何故そうなのか?」「本当にそうなのか?」「具体的にはどうやるのか?」と自問自答するだけでは、あまり効率よくない。
だから、漫画家には担当編集者がついてくれて、延々とディスカッションするのだ。
じゃあ、担当編集者がついてくれない、我々素人はどうすればいいのか?
実は、編集者はついてくれなくても、プロ作家と編集者が行うのに類似したディスカッションは、可能である。
たとえば、私自身について言えば、一番効率良くコンテンツ・ブラタモリや小説執筆のスキルがアップしたのは、オンラインコミュニティで、自分たちで書いた小説の原稿や企画案を相互レビューしたり、人気作品の面白さがどのように創り出されているかについて、ディスカッションしたときだった。
とくにプロの漫画家や小説家になるつもりのない人間が、そんなことをやってなんの意味があるのか?
少なくとも私の場合、自分で物語を書くのは、物語を読むことよりも、何百倍も面白い。麻薬的に面白い。文字通り寝食を忘れて没頭できる。
つまり、意味があるとかは関係なく、単に面白いからやっているのだ。
私と同様の人は、他にもたくさんいる。
ただ、それだけではない。
私は、こういう目で世界を見始めてから、なにげないコンテンツやプロダクトを、より楽しめるようになり、かつ、より深い学びを得られるようになり、そこで得られた知見によって、仕事や生活の質が大きく向上した。
私は元プログラマーで、その後起業して経営者を経験したが、経営者をやっていたとき、プログラミングで獲得したスキルが大いに役に立った。プログラムのロジックを組み立てるような感覚で、企画やビジネスモデルや組織を組み立て、デバッグ&チューニングすることができたのだ。
それと同じように、さまざまなコンテンツ、プロダクト、サービス、論文を、コンテンツ・ブラタモリすることで得られた知見は、自分の日々の仕事や生活に、さまざまな形で活かすことができ、投資した時間をはるかに上回るリターンを得ることができた。
なにより、心からの敬意を持って人々が作ったものに接することができるようになり、世界をずっと豊かなものに感じ、幸せな気分で日々を生きていけるようになった。
これは、かなりオススメの学習ハックであり、ライフハックなのである。
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この文章は、『文章力クラブ』のみなさんに添削していただいて出来上がりました。