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奥行き

  「奥行き」 「余韻」 「残像」 

 いつしか、私は美しいと思うものの条件を問われた時に、この3つの言葉を思い浮かべるようになっていた。多分、この3つは密かに大事にしている言葉なのだと思う。これを考えるきっかけとなったのは体操競技に関わっていたから、に他ならないとは思うので、全てに当てはまるかはまだ分からない。この競技はこれらが3つ揃っている選手が、身体能力一点突破の選手と同等に競えるようなルール構造になっていると思っている。そして、それは、熟練性の上にしか成り立たないということに起因している。
・・・という私的体操論は斜め上に置いておいて、今回はその言葉の中の「奥行き」という言葉を哲学者の2人から立て続けに聞いたので、ちょっとこのタイミングでこの言葉について自分の体験や言葉を整理したいなと思った。

 ちなみにその哲学者というのは、國分功一郎氏と鞍田崇氏だ。

 國分さんは、齊藤環氏の「イルカと否定神学」という本の出版記念の講演でこの「奥行き」という言葉について触れていた。初学の私にはかなり難しい本だし、それを前提に怒涛のように進む講演はまったくメモが取りきれなかった。けれど、人間や言葉の「奥行き」についてを説明しながらこの本を読み解いてくださっていて、その部分が印象に残った。そして、鞍田崇氏は「民藝」という視点から環境や社会に触れている哲学者の方で、今回は宇野常寛氏の主催するイベントの中で、今の都市に必要なものは何かというテーマに対してこの「奥行き」という言葉を挙げていた。もう、この2人が挙げているだけで、結構「奥行き」という言葉自体がかなりの奥行きを持っている言葉で、私が思っている「奥行き」とはだいぶ違うんじゃないかと、わなわなしてしまう。そして、國分さんが理系の人にこの言葉を使いすぎると「奥行きハラスメント」と言われてしまうと(ちょっとニュアンスが違うかもしてれないけれど)言っていて、確かに、エビデンスとか数学に奥行きもたせっちゃったら、成立しないよなと思った時に、ある出来事を思い出した。そして、この何となく例に出された「奥行き」問題って、理系文系に限らず、世界にどこから触れているかでかなり違ってくるんだろうなと思った。

 ということで、ここから先はしばし読み飛ばしていただきたい。

 まだ学生の頃だったか、社会人になっていたかは忘れてしまったけれど、
友人と書道展を観に行った。毎日書道展という書道界の三大展覧会(日展、毎日書道展、読売書法展だけど・・・産経書道展を含めて4つという人もいる)それぞれに、特性があり「毎日」はかなり近代詩という分野が発展していて自由な作品が多い印象はある。友人は理系(今でいうシステム系)の学部に行っていて「the理系」という感じで、勉強とかも5教科9科目あるうち、あからさまに4科目は捨てて5教科(または理、英、数、3教科)に全振りするという効率の良い勉強の仕方をしていたと思う。私は、全く反対で、主要5教科は4科目をやるためのチケットくらいにしか考えていなかった。4科目なんて役に立つの?くらいに言われていた気がする。そんな幼馴染と大人になって初めて書道展なる場所に一緒に行った。そうしたら、なんかもう疑問を滝のように放出してきて、私が内省するという結果になったのである。これ、当時は、あんまり何も考えなかったけれど、この私と友人の差を考えるのって面白いかもなと思ったのでこの時のやりとりを書いておく。

友人「ねえ、一枚の作品の中でかすれてるのと滲んでる文字あるじゃん。これ、何で?」
私 「書道ってかすれと滲み以外で表現できないよ・・・。」
友人「そこがほんと意味分かんないんだよ。文字数考えて、かすれる前に墨をつけようとか思わないわけ?」             

 友人が言っているのは、次の文字を書くときに墨が足りなくなるだろうと予測して、前もってかすれないように書けないの?と言っている。何なら、その危機管理はどうなってるの的な感覚を問われている・・・。
「かすれ」についてこんなふうに思っている人がいるのかと正直驚いた。

私「これ、奥行きを出すためにわざと滲ませたりかすれたりさせてるか ら・・。滲んでいるのが手前、かすれていると遠くにあるように見える。
遠近法みたいな感じ。だからできなくてかすれちゃったとかじゃない。」
友人「でも、それじゃ読みずらいというか読めなくない?これの何がうまいのか良いのか分からない。」

 文字は、人に言葉を伝える手段なのだから、読めないとか読むのに時間がかかってる時点で効率的でないし意味を失ってない??というところだろうか?そもそも「書道」の意味(文字を美しく書くことの重要性はワープロが出てきた時点ですでに無いといえば無い。)

 確かに、小学校の時に習う書写の授業っていかにかすれずに、大きくはっきりと読みやすく書けるか的なものであった気がする。滲みもかすれも良くないと言われていた気もする。確かに、ここに展示されているくらい自由に墨と筆を操れる人が友人的危機管理を持って完璧にやったら、滲みもかすれもない作品を書くことは可能だろう。多分それが、「お手本」ていうやつだ。あの朱墨(オレンジ色の墨)は見やすいように滲まない成分でできている。

私「読まなくて良いんだよ。(・・可読性については流派や時代で色々考え方があるので、ごめんなさい。ここは私の意見です)」
友人「読めなかったら字じゃなくない??」
私  「うん。実はあまり字だと思って観てないし、書いてないし、自分が書く時は辞書は引くけど、人の作品そんなに読めない。基本絵だと思ってる。白黒でどれだけ奥行き出せるか大会・・(また語弊が・・)」
友人「え?読めないの?」
私    「え????読むの?」

書道を長らくやっている人は作品の字を読めると思っていたのに、さらには字を読むなと言われた友人と、実は字を読んでいない、というか字を読まないで突破してきてしまったことをたった今自分の言葉で自覚してしまった私・・・。書道歴については語るべき時が来たら(来るのか?)語るので今は詳細は書かない(去年頼まれて久々に文字を書いた程度で今やっていない)が、これは確実に良い面と悪い面と両方ある。
その後から必死に文字を読もうとしないように頑張る友人。隣で密かに文字を読む私・・なんの修行だこれは。。
そして追い討ちの質問がくる。

友人「もう一つ許せないことがあるんだけど」
私 「何?」
友人「このさー。はみ出てるのあるじゃん。これが許せない。」

 確かに、子供の頃は紙からはみ出さないように、とか言われていた気がする。ちなみに二度書きがだめとかは、大人の書道には無い・・・(けれど、それをすることで筆の勢いを殺してしまうことがあることを知った上でやる。損なわないと判断したなら普通にやる。)

私「なんか勢いみたいなの。はみ出した先に何かありそうな感じがするみたいな。」
友人「何も無いよ。」
私「だから想像力だよ。」
友人「それも奥行きってやつ?」
私「多分・・・。」

 そして、展示場の美術館を出た後に、友人はやっぱり書道は意味わからないし、納得できない・・と言っていた。しかし、なぜか次の年もその次の年も、書道展に行きたがるわけで、その方が意味が分からない。奥行きハラスメントをされたいのか、論破したいのかよく分からなかったけれど・・まあ、絶対的に思いつかない質問をされることはなんか楽しいので、全く問題ないというか歓迎なのだが・・。しかし、私の方が言葉を持ってないから毎回説明しきれない。言葉を持っていない原因は、子供の頃からやっていることって感覚でしか考えられなくなっていて、本当はどこかで理論と往復しなくてはいけないところがいろんな状況や環境で抜け落ちてしまったということだと思う。思い当たる節しかない。

 ということで、これ私の方に文系の能力がもっとあったなら、この友人はもっと何かに出会えたかもしれないなとか思う。ざっと言うと、私はこの分野での「奥行きハラスメント」をしきれていない、確実に失敗している。それって、細かく説明する能力とかじゃなくて(多分それは蘊蓄というものでちょっと違う)相手の感覚的なものを引き出せるような言葉を選ぶ能力というのだろうか。そしてこれ、もちろん理系がどうのという問題では全くなくて、専門領域を一般の人に伝えるときのバリアフリーの感覚も私の方に無いんですよ。だから、相手は自分の中の経験とか言葉(単語)そのものの意味でしか考えられないわけで・・ちょっと変な表現になるけれど、奥行きハラスメントをしながらバリアフリーをする方法というのが、私が今文系の方々から学びたいというか、すごく聞きたいなと思っていることの一つなのかなと思う。そのためには、言葉の持っているそれこそ「奥行き」だったり言葉の掘り下げ方だったり、その周囲の周回の仕方(考え方)だったりが必要で、そこを学びたい。思えば、國分さんと鞍田さんの言葉の使い方とかって、「奥行き」「余韻」「残像」の全てがあるなと感じることが多い。國分さんは「奥行き」レイヤーがありすぎて辿りきれないし、うっかり辿るとイオニアとかに行ってしまう・・。鞍田さんの言葉は頭の中に「余韻」と「残像」がゆっくり残るのでいつまでも考えたくなる。おそらくは、この二つを残すような問いかけ方をしているのだと思う。強い言葉を使って印象づけるのではなくて、言葉の先を想像させるような言葉を選んでいるように思う。私は冒頭でこの3つの言葉を美しさの条件と言ったけれど、これはもしかしたら、「美しさ」ではないのかもしれない。本質に迫ろうとしているときに、側から見て、感じとれてしまうもの、条件ではなくて結果これがあるよねというものなのかなと。
(冒頭で言えば、体操競技の本質に近づこうとしている選手の演技に宿るものなのかもしれない)このお二方は複雑なのに単純化したがる社会の奥行きと広がりを考えることが仕事なんじゃないかと思うくらい何度も角度を変えて思考しているから、この3つが揃うけれど、揃ってない場合の会話って、上記の友人と私みたいになるのだと思う。しかも途中まで、相手が何をみているか全然分かってないまま話しているわけだ。この場合は「書道」を観る場合の考え方なので、特に問題ないけれど、実際、この2つの視点が共存しなくてはいけない場合は結構難問だと思う。中間をとったりしてしまったら、誰も作りたくないものができそうだ。

 「木を見て森を見ず」または「森だけ見て木を見ない」
 こんな言い方もできるのかもしれない。絵として全体を捉えるか、細部の文字を文字としてのみ仕上げることに注力するか?ということ。
私も仕事では何十個もの数値を管理していたりするので、気づくともうなんか数値に囚われて、細分化されすぎて、木どころか、木の皮を貼り合わせることに必死だったりする。もはや木すら見えていない時もある…木の皮に対応するだけで精一杯で、後で、よく考えたら全体像こうなってない?とか気づく。木の皮に対応しながら森全体のことを瞬時に考えつくことが意外と今の社会で必要なのかもしれない。となると、やはり、結構な奥行き訓練が必要なんだど思う。
 空中戦と地上戦を行き来するような思考の訓練、思わず奥行きを考えざるを得なくなる「奥行きハラスメント」だったら唯一受けてみたいハラスメントかもしれないなと思った。


 ちなみに、國分さんの「中動態の世界」と「初めてのスピノザ」は読んでいるけれど「暇と退屈の倫理学」がまだだったので、買おうとしたら間違えて横にあったこちらをポチッとしてしまいました。なんか、人生相談すると本を紹介されるシステムが最高だし、かなりエグい質問に対して、哲学でこれでもかと言うほど答えていて・・・やはり「奥行き」と言う言葉は、簡単には語れないなと思いました。紹介しておきます。間違って良かった・・・。バリアフリーをしながら奥行きハラスメントもしっかりしていると思わずにはいられない・・。


こちらは、「民藝の人」(紹介が雑すぎる・・)えと、生活と社会を民藝という営み、視点から考えている哲学者・・鞍田崇さんの本。「民藝」を全く知らない私が、一番初めにこの本に出会えたのは幸せなことだと思った。


 あと、このお二方に出会えたのは、宇野さんがよく対談されているからに他ならない。その宇野常寛さんの新著「庭の話」この本の帯をとるとThink αs a  Garden という英訳が出てきます。story(物語)ではなく、思考。この英訳の方が本質を表現していると私は思っています。


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