中国にとって”南京大虐殺”とは【前編】 ~”事実”として浮かび上がるもの~
2024年12月13日、中国にとって特別な日を迎えた。“南京大屠杀死难者国家公祭日”である。そもそも”南京事件”とは何か、また”南京事件”に関する日中間のとらえ方の違いという部分を中心に、南京大屠杀死难者国家公祭日当日の現地の様子について紹介する。前編となるこの記事では”事実”としての南京事件を解説する。後編では実際に筆者が中国で暮らして感じた”12月13日”にフォーカスする。
1.はじめに
”南京事件”とは、日中戦争開始後の1937年12月上旬に、当時の中華民国の首都であった南京で民間人を含む中国人が、日本軍兵士によって大量殺害された事件を指す。中国軍と熾烈な戦闘を行った第二次上海事変に続いて行われることとなった南京での戦い(南京攻略戦)の中で発生したこの事件について、あくまでも“南京事件”を対象に、①日中政府間の認識の違い②南京事件の背景③“南京事件”から87年を迎えた中国の当日の様子をお伝えする。
(日中戦争全体に関しては別の記事を作成しようと思う)
2.”南京事件”と”南京大虐殺”~日中間の認識の違い~
戦後約80年の時を経てもなお、日本と中国の間には歴史問題が大きなしこりとして残っている。その一つが“南京事件”である。この事件について“(大)虐殺”と呼ぶべきか否か、具体的には“死者数”という形をとって日本と中国の両政府、また両国の研究者の間で多くの論争がなされてきた。私があえて先ほどから“南京事件”と述べている理由は、現在のところ日本政府は“南京大虐殺”という呼称を使用していないからである。中国側はこの事件を“南京大虐殺”と呼び、30万人以上の人々が虐殺されたとしている。一方で、東京裁判の判決では「官民合わせて20万人以上」とされているほか、日本の一部の研究者は4万人ほどと主張している。この推定被害者数のばらつきが”南京事件“に関する大きな争点となっている。では、日本政府は”南京事件“をどのようにとらえているのだろうか。外務省のホームページでは、
日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
と書かれている。一見中国側の主張を受け入れているように見える文章であるが、この文章内では「虐殺と呼ぶべきか否か」については言及していない。また、“非戦闘員”についても、それが兵士のみをさすのか、兵士のみならず一般市民までを含んだニュアンスとして使用しているのかも釈然としない。以上より、日本政府はなお“南京大虐殺”とは呼ばず、“南京事件”という名称を意図的に用いていることがわかる。
*以下“”を用いずに南京事件と記す*
参考文献:
『歴史問題Q&A|外務省』
『南京事件70年―収束しない論争―』<4D6963726F736F667420576F7264202D208252825182574A955C8E86819597AA97F0817593EC8B9E8E968C8F3730944E817C8EFB91A982B582C882A2985F91888176816990AF8E52816A2E646F63>
3.なぜ”南京事件”は起きてしまったのか?
南京事件が起きてしまった背景には一つの大きな理由があるというよりも、むしろ日本側・中国側双方の複数の要因があったというべきであろう。以下、一つ一つの要因を解説する。
A:日中戦争は”事実上の戦争”?
南京事件を理解するには、日中戦争の特異な性質に注意する必要がある。我々は1937年~1945年に発生した中国との戦闘を一般的に日中“戦争”と呼ぶが、実は正式な“戦争”とは言えないのだ。日本、中国ともに“宣戦布告”を行っていないからである。日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件、そしてそれに次ぐ第二次上海事変を皮切りに”事実上の戦争”を開始したが日本と中国はともに“宣戦布告”できない理由があったのだ。それはアメリカの中立法の影響である。この中立法は1935年に制定された法律で、戦争状態の国に対して①武器輸送②一般物資輸送③金融上の取引などが制限するものである。第一次世界大戦を経て巨大な債権国となっていたアメリカは、この法律に以下の2つの役割を期待した。
①物資と資金力を脅しに使って他の国から戦争するインセンティブを奪っていた(戦争抑止的側面)
②アメリカ自身を戦争から遠ざけていた(孤立主義的側面)
開戦時の中国はアメリカから武器と一般物資が届かなくなることを、日本はアメリカと金融上の取引ができなくなることを恐れて宣戦布告をあえて行わなかったのだ。
では、これと南京事件はどのような関係があるのだろうか?それは“天皇の詔書”の有無である。宣戦布告がなく始められた戦争のため、日露戦争や日清戦争の際に見られた「国際法規を順守すべし」との文言がなかったのだ。その当時、陸軍歩兵学校が配布していた冊子の“捕虜の扱い”の部分には「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので「仮にこれを殺害または他の地方に放つも世間的には問題となることなし」と書かれていたのだ。それゆえ非人道的な行為が行われてしまった。
B:一流の兵士たちが投入されなかった南京戦線
当時の日本の仮想上の主敵は、ユーラシアの超大国ソ連であった。故に石原莞爾などをはじめとする軍中枢部は現役の兵士を対ソ防衛のために重点的に使用した。したがって、彼ら現役兵士は基本的に満州に派兵されたため、上海や南京での南部方面の戦線ではそのような一流の兵士達はメインではなかったのだ。むしろ、南京戦線には予備兵や未教育兵が投入されたために紀律を守らない者が多く、風紀の乱れに繫がってしまった。
C:中国軍の兵士のとある行動
当時の日本兵を苦しめたのは中国軍の兵士が軍服を脱ぎ、市民を装ってゲリラ的に日本軍に攻撃を仕掛けたことである。また、彼らがひとたび軍服を脱いで一般市民・国際安全区などへ逃げ込まれたら一般市民と兵士の区別がつかなくなってしまったのだ。そういった状況を前にがむしゃらに戦ったために、非戦闘員からも多くの死傷者が出てしまった。
D:略奪に頼るほかなし
南京戦線では兵士の食糧状況などもよくなかった。実は南京への進撃は多くの兵士にとって予想外だった。南京事件の前に、彼らは上海で中国軍と熾烈な戦いを行っており、上海から中国軍を撤退させることができた彼らは「日本に帰国できる」と希望を抱いたのだ。しかし、そんな兵士たちに突きつけられたのは、300kmも離れた南京への進撃だった(東京~名古屋くらいの距離間である)。こうした追撃戦は補給が不十分な状態で続けられたため、食糧などを現地での略奪に頼るほかなかったのだ。挙句の果てには首都の南京攻略後も戦闘を続けると命令され、兵士たちのストレスは計り知れないものとなっていた。
E:鉄壁の首都”南京”
日本側の要因のみならず、南京という土地の特殊な事情と中国側の戦略ミスも南京事件の一つの要因となった。
まず南京の特殊な土地柄について。南京の町は西部と北部に川が流れているほか、18メートルにわたる防衛壁で町全体が覆われていた。これほど防衛に優れた街ということは、裏を返せば一度敵の侵入を受けてしまったが最後、自国民、自国軍(防衛壁の中の市民)が抜け出すことは相当難しい街でもあった。
そのうえで、当時の中国軍がとった戦略は“徹底抗戦”だった(ここで日本との戦いを粘ることで国際情勢に訴えかけ、なおかつソ連の出方を観察するため)。この徹底抗戦を行った中国軍の司令官は、現代戦を指揮したことのない”唐生智”だった。彼は、焦土作戦などで日本軍に対して抵抗を図ったものの結局は住民被害を増加させることに繫がり、なおかつ住民を盾にして脱出の時間稼ぎを図ろうとした。
このような複数の原因が積み重なり、当時の中華民国の首都南京で非戦闘員を含む多くの方々が犠牲となってしまった。
*参考文献:
①加藤陽子 『満州事変から日中戦争へ』
②小林英夫 『日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ』