吉本隆明的「ではない」自立と、そのためのオタク的自己幻想(の抑制)について
今日は『庭の話』(正式には今日発売)の補足的なサブテキストとして、昨日に続いて「自立」の問題を考えたい。
吉本隆明が60年代末から70年代初頭の「政治の季節」の終わりに唱導した対幻想に依拠した「自立」の戦略は、二つの点で失敗していた。第一にそれが、戦後日本においては家父長制の延命に寄与したこと、そして第二にそもそも吉本は人間の分人的な側面を過小評価していたため、ある幻想に依拠することが別の幻想への依拠を相対化することなく、むしろ強化することがあることを、視野に入れなかったことだ。第二の理由がより根源的で、第一の理由(家父長制の延命)はその結果にすぎないと考えることができる。
ではどうするか? 吉本隆明はその後80年代に自己幻想に依拠した「自立」を考えた。が、前述の第二の理由についての対応が、つまりある幻想に依拠することで、他の幻想を相対化できない(むしろ、結託することすらある)という問題への対応が不十分であまり機能していない。実際に80年代の消費社会化は、たしかに個人の精神の自由をエンパワーメントした。しかし、その一方で戦後日本の標準家庭的なイデオロギー、つまり対幻想がこの時期に温存、または強化されたことは間違いなく、それが今日の深刻なジェンダーギャップ(専業主婦こそが「標準」、女子の高等教育に消極的、「片親」への差別など)とも結びついている。
そこで『庭の話』では、むしろ自己幻想の肥大を抑制する方向で考えた。今日においては、SNSプラットフォームによって、自己幻想が肥大している。むしろ自己幻想の肥大が、対幻想や共同幻想への悪いかたちでの依存をもたらしている。「タグ付け」は対幻想による自己幻想の強化であり、タイムラインでは常に界隈(共同体)へのアピールのためにその「敵」への攻撃がメンバーシップの確認のために反復されているが、これは共同幻想を用いた自己幻想(自己のアカウント)の強化だ。
なので、僕は自己幻想に対する欲望を抑制することで、対幻想や共同幻想(特に後者)への依存を緩和する……という方向から考えた。丸山眞男的に述べれば「である」こと(共同体からの承認)でも、「する」こと(市場からの評価)でもない、自己幻想のかたちを模索することで、それが対幻想や共同幻想と結託して肥大することを抑制する……という考え方だ。
ここは、この形では記述していない(同じような内容を別の形で記述しているので)この文脈では少し分かりづらかったかもしれない(なので、ここで補足しておこうと思う)。
自己幻想を抑制する……というと安直な(しかしプライドだけ高い)人は、言葉の表面的なイメージに飛びついて、禁欲的なものを思い浮かべるかもしれない。しかし僕が考えているのはそれとはかなり違うモデルを考えている。それは、「消費」ではなく「制作」することだ。
これは僕の実存的な問題と深く結びついていて、
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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