「買い物の次」を考えると都市の「これから」が見えてくる
さて、昨日は毎年恒例の渋谷ヒカリエでの年忘れイベント(大忘年会)だった。第1部(文化)とメインステージの3部(社会)の間に、僕が昨年立ち上げた有志の都市開発についての研究会「庭プロジェクト」の発表会を第2部として行った。登壇したのはプロジェクトメンバーから小川さやかさん(人類学)、門脇耕三さん(建築)、鞍田崇さん(哲学)と僕の4人。こういった分野の人が集まって「都市」について考えるというのはなかなかユニークな試みだと思うのだけど、今日はここで個人的に改めて考えたことをまとめてみたい。
また、このテキストは同時に『庭の話』で展開した都市の「静脈系」(ものを「捨てる」、家事やメンテナンス、ケアなど)についての議論の補足になるだろう。
鞍田さんは今の都市に欠けているのは「奥行き」だという。この奥行きは象徴的なものだ。情報社会論に置き換えると、情報プラットフォーム下にある社会では、人間は自分が自覚している欲望を入力して検索するために、明確な「目的」に縛られる。そのために事故的に、偶然的に触れるものに注意が向かなくなりがちだ(ハッシュタグの目当ての事物にまっしぐらに向かい、道すがら触れるものに関心が向かない)。鞍田さんはこれと同じような現象を、むしろ目当ての場所に期待通りのものがある(期待通りのものしかない)「奥行きのなさ」と表現したのだ。
僕はこの話を聞いて少し考え込んだ。要するに都市に「奥行き」をもたらしていたものはなんなのだろうか、と考えたのだ。
少なくとも僕が子供のころのそれは明らかに商業……具体的に小売や外食だったように思う。当時(80年代〜90年代)は、仕事帰りや休日に「買い物に行く」というのが、もっともハードルが低く、そして求心力の高い娯楽のひとつだった。この時期は大衆が生活必需品「ではない」ものを好き好んで買う、ということそのものが現代の豊かさを享受する行為として現代より遥かに強い力を発揮していたのだ。
人間は「買い物」に行く。そして目当てのものを探す。その過程で目当てではないものを目にする。Googleマップやハッシュタグもないので、目当ての場所や物事に「まっしぐら」に行くこともないので、偶然触れるものに関心を向けることも多くなる。これが都市の「奥行き」を成立させていたと思うのだ。
この種の議論では、行政の「規制」の厳しさや監視社会化の問題、あるいは再開発の担い手によるデベロッパーのよる大規模建築(◯◯ヒルズの類)が「余白」や「冗長性」がないとか、そういった話に帰着しがちだ。もちろんそれは間違いではない。しかし僕の考えではもっとも大きいものは「買い物」の求心力の相対的な低下だ。
消費社会の常態化(「消費」が当たり前のことになる)は、「買い物」の快楽を人間に慣れさせた。そして情報技術の進化は、「モノ」ではなく「コト」のシェアを可能にした。その結果として、見えっ張りな人間は自己表現としてモノの消費による間接的なセンスや裕福さを主張するのではなく、自分の知的さや意識の高さをアピールするためにイベント参加や読書歴や人間関係の顕示にシフトした。むしろ現代において「消費」を好みすぎる人間は、即物的すぎると軽蔑される傾向すらあるだろう。
そして何よりEコマースの発展は、人間の生活から「買い物」を大きく後退させた。これによって、都市を支えていた商業空間の「力」が大きく後退したのではないかと思う。こうして、都市は「奥行き」を失った。正確には人間がその「奥行き」に不意に触れてしまう機会を失ったのだ。(この種の議論が、渋谷ヒカリエで行われたのはある意味皮肉なことかもしれない。)
さて、ではどうするか。大抵の人はポスト「買い物」は「人と会うこと」だと考えるだろう。しかし僕はこの意見に全く賛成できない。少し考えればわかることだが、たとえば「人と会う」ことこそ、いまもっとも情報王ラットフォームで効率化されているものだからだ。おそらく人類は30年前の「待ち合わせ」の失敗の多さと面倒くささを、完全に忘れている。
しかしこの「失敗の多さ」と「面倒くささ」こそが、都市に奥行きを与えていたのだ。かといって「昔に戻れ」というのは愚の骨頂で、まったく話にならない。
僕の考えでは、やはりここで介入すべきポイントはやはり人間と人間ではなく、人間と物事の関係だろう。そして僕が今、「期待」しているのは「動脈」(つくる、買う、行う)ではなく「静脈」(捨てる、メンテナンスする、ケアする)だ。
ここから先は
u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。