「おまえ、noteぐらいやっとけよ」と若者に煽られる選ばれし者の記憶
母校、慶應義塾中等部は、部活棟こそ無くなったものの31年前私が通っていたころと変わらぬオンボロぶりでありました。
いや、校舎はボロくてもいいんですよ。
学ぶ諸君が楽しく中学時代を送ることさえできれば。
私はあまり楽しい中学生生活を送りませんでした。
数学研究会に入りオタク道を進む傍ら、草野球をやり、ゲームセンターに寄り道する日々。いまでこそ、かつての先輩同窓後輩はFACEBOOKに溢れ、日々仕事に家庭に活躍される皆さんがたと昔日を惜しむかのような交流をさせてもらっていますけれども、私は慶應義塾中等部が好きではなかったのだよ。
46歳になったいまようやく中学生時代の自分を客観視できますが、自分のしたいことを、全部はできない、誰からも理解されていないという、悶々とした日々を送っていたのです。
学校なんて燃えればいいのに。
先生もクラスメートも、みな死んでしまえばいいのだ。
このようなイケてない穢れた学校が、中学受験のトップ校のひとつで、狭き門を潜り抜け、当時バブル経済直前だった浮かれた保護者が世間に「うちの子は慶應ざます」と言いたいがために……私は中学受験のクソ大変な勉強をこなしここに通っているのか。極端なようですが、けっこう本気でそう思っておりました。
変な言い方ですけど、絶望だったのです。
それも、他の人たちが羨むような、誰もが入れない禁断の楽園で、素敵な生徒や教師や保護者とキャッキャウフフするハイソ中のハイソな選ばれし者たちだけが集う学校。右を向けば、教科書に掲載されているような、驚くべき業績を日本政治に遺した偉大な政治家の孫が、気品溢れたご友人と窓際で談笑しておられる。左を見れば、何十年何百年と続く老舗企業の御曹司が、広尾や麻布や松濤のだだっ広い一等地に住み運転手が学校近くのところまで何だか高価(たか)そうな車で送ってもらうのを毎朝見ながら登部しておるわけです。それも「学校の前に車をつけると他の同級生が気にするから」とかいう、もうとっくに気にしておるわ、ほっといてくれという理由でみんなと”わざと頭を下げて同列にいようと努力している”状況にありました。
一方の私と言えば、下町というか東京じゅうのクズが集まる当時の八重洲で生まれ、育った雑居ビルの一室はいまでいうサラ金が所狭しと密集し、神田に越したらそこはさらにヤバい金融屋や出版社が軒を連ねる微妙地帯でした。近くで殺人事件があって、お袋が嫌がって中野に引っ込むわけですが、当時のご近所からは「中野なんて都落ちもいいとこだろ」と言われて馬鹿にされて親父が憤慨していたのをよく覚えています。その親父は零細石油会社を営む傍ら冷戦下のソビエト連邦に支社を構え、これからは原子力の時代だと言って精製ウランを輸入して日本の電力会社や商社に卸すという謎の仕事をしている微妙家庭だったわけです。
まあなんつーか、そんな江戸っ子のヘドロのような環境にいた私と当時の慶應義塾中等部の世界は、あまりにも育ちが違い過ぎてどう付き合っていいのか分からんわけですね。
その後、親父は石油会社が立ちいかなくなって電飾屋を始めたり、産業廃棄物を扱う仕事に手を出し大炎上しておりましたが、要するに下から目線で「お前らとは違う」わけですよ。
ただし、私は勉強だけは抜群に出来た。御三家とされた開成以下すべり止め各校軒並み合格に至り、てっきり開成に進学するものだと思っていたのです、第一志望でしたから。当時の中学受験では「成績は正義」でしたので、当時の四谷大塚で毎週行われるテストで全国20番以内に入るか入らないかで山本家は大騒ぎして、また、その成績を励みにして10番になった、25番に落ちたと親父お袋と喧々諤々をやり、100番以下に沈もうものなら殴られたりしていたのですが、いくらベビーブームの熾烈な受験戦争とはいえ3,000人ぐらいいた四谷大塚の上位クラスの試験で100番以内に入っていればまあどこでも志望校は受かるラインなのです。でも、「ゴールまで気を抜くな、敗残者になりたくなければ力の限り全力疾走だ」という親父お袋の教育姿勢もあり、私の人生において中学受験という儀式は自分の存在意義そのものだったといまでも思います。
それが、より偏差値の高い開成に入り、さらに高みを目指していくものだと思い込んでいた私に、親父が「いや、おまえは慶應に行くのだ」といったときのズッコケ感は読者に共感してくれと言ってもむつかしいでしょう。開成より慶應義塾中等部はほんのり偏差値が低かったんです。筑駒はクジで落ちていたので仕方ないとしても、私が言っちゃなんだが開成万が一駄目だったときの保険で受けた慶應義塾中等部に進学するだと?
親父には親父なりの考えがあったことは、後からわかるんですけど、まあ要するに「このまま大学まで受験を重ねたところで苦労ばっかりでたいした大人にならない」一方「慶應に入っておけば大学まで出られるのだから俺の仕事を継がせるのには一番よいだろう」という判断があったわけです。お袋も、度の強い眼鏡をかけた他の父兄と受験や学力でギスギスするよりも慶應の華やかで社交的な世界に憧れていて、お前ら息子のことをブランド品のバッグかファーストクラスで海外旅行ぐらいのもんだとしか思ってないんじゃないかと、望まない慶應への進学を強いられた中学生の私は感じ取っていたわけですよ。
そりゃその後どうなるか、一択ですよね。
グレました。まあ、中学一年きっかりから始まって、高校二年まで親の言うことを全く全然毛頭聞かない長い長い長い長い反抗期を迎えました。いま思い返しても、心が痛いというか、私の気持ちは誰からも顧みられずに育ってきたのだなという悲しい思いが去来します。
家族は、もっと一体となって、思いやりのある場であるべき。
勉強は、己の思うことも含めて幅広く、納得いくまでやり遂げるべき。
自分の一生は、こうであるべきと思えることが実現できるために、最後の一滴まで燃やされるべきだ。
いまは、そう思います。でも当時はそんな自分の価値観を探し出すことはできなかった。慶應義塾中等部のみんなは性格も良く、素晴らしい家庭で、頭も良かったし気持ちの良い奴らだったんだけど、私とは違う。いや、私が、お前らと違う。どうか、私にそう構わないでほしい。クラスメートからすれば訳の分からない奴だったといまでも回想されますが、自分では一貫していたつもりです。
本当は私はここにいるべきではないのだと思い続けていましたが、校庭でふざけて私を殴ってきた吉田君を、ふざけていると知らずにカッとなって殴り返し、顔面への振り抜きストレートを喰らい鼻血を噴出した吉田君を見て職員室から教師が飛んできて、すぐさま職員室の奥の部屋で”尋問”されたのは、いまでも心に刻まれております。
翌週、自販機のあるピロティで下級生のカネでメロンソーダを買おうとした上級生を見てムカついてその場で後頭部を図工用カバンで殴り、再び職員室に呼ばれたときは、私はもう慶應から放り出されるのだと覚悟して入室したのをよく覚えているんですよ。ここには居場所はないと思ったんですよね。「殴ったのは間違いありません、僕が悪いです」とだけ言って、釈明をしませんでした。どうせ何言ったってあんたら私のこと信じないでしょ。
当時は、社会現象として「校内暴力」というのが話題になっていました。まさかこんな都会のど真ん中の、選ばれし者のみが通う慶應義塾中等部で粗暴な塾生が紛れ込み暴力沙汰を起こすなんてと驚かれたのかもしれません。
エネルギーがね、余っていたのです。それまでは、受験戦争に勝ち抜くことにフルベットされてきた私の情熱は、黙っていれば名門私立大学である慶應義塾大学を卒業できてしまうという暖かく自由な環境でむしろ行き場所を完全に見失い、パソコンとゲーセンにすべての行動ポイントが注がれ、隣接する慶應義塾大学の生協脇にある自販機でタバコを買い、喫煙所に大学生に紛れて堂々と一服するというどうしようもない中学生生活を送ることになります。
こんな学校を出て、その辺の中学でも高校でも行って、また勉強やり直して東京大学でも東工大でも入ればいいじゃないか。私はパソコンをやりたいのだ。数学を、学びたい。かなり本気で、慶應にいる意味は無いと思い込んでいました。学校が悪いのではなく、私にはここに居場所は、ないのだ。と。一言で言えば、名門校に通っているクズですよ。どう考えても。
担任の村田さんや吉村さんは私を学校からやめさせたがっているのは、態度で良く分かりました。いまでも覚えていますが、まあ面倒な塾生が問題を起こしているのならやめさせなければならないと思うのは、教師として当たり前ですし、いまは何とも思っていません。親父とお袋が呼ばれて教員室前の面談室で日が暮れるまで話をして、もう明日から慶應中等部に来なくていいのだと宣告されるのを待っていました。親父もお袋も息子の不出来で迷惑をかけたと「米つきバッタのように」謝罪していたのですが、ブランド品をパチモノだと警察に取り上げられたくない一心のようにも見えていたのは事実です。ですので、早く話が終わらないかな、やめることにならないのかなと、中坊ながらワクワクしていたんです。また、受験勉強を心行くまでやれる日が来るのではないか、また順番が張り出され、競争の中に自分の身を投げ込むことができるのではないか、と。
ところが、中等部長だった荒井先生が遅れてやってくると、一気に空気は変わってしまいます。
「この子は、慶應中等部に必要だ」
式典ぐらいでしか会ったことのない、私を良く分からないはずの中等部長(校長にあたる)が、突然それを言い出したので、率直に「は?」と思いました。私の親も、机の中の私物まとめて出て行けと言いたそうな教師たちも、みんな「は??」と思っていたんじゃないかと思います。荒井部長は続けて「慶應には型にはまった子どもばかりだから良くない。山本君は慶應にいる。それでいいな」と言い放ちます。何か知らんが泣きだすお袋。いや、お前は私の将来よりも自分の子が慶應に通っているというステータスが欲しいだけなんじゃないの。
その後、ドラえもんの愛称で親しまれていたものの女性教師としては大変厳しい岩崎さんが部屋に入ってきて、自分が顧問をやっている数学研究会では、山本君が如何に優秀な塾生なのか、また、後輩の面倒見が良く率先して活動を引っ張り、イケてる感じかを説明するのです。言われてみればそうだったかな。パソコンが好きだし、数学が好きだし、ゲームが好きだし、ゲームが好きな部員とは確かに仲は良かったのは事実です。
でも、ふっと、私はどうしたいんだろう。そう思ったのです。
私は、私の居場所に戻りたかった。当時はそうはっきり自覚は無かったけれど、あとから思うとここ慶應義塾中等部には居場所はないと思い込んでいたのだと思います。実は、この場で慶應をやめなくて済む結論となり、教師たちが苦虫を噛み潰したように退席して散会したのち、私はまた、中等部校舎の三階から面白半分に飛び降りて再び教員室に呼び出され、さらに教室からベランダに出るところにあるガラスの扉を体当たりで次々と割り、血だらけになって慶応義塾大学病院に送られて手当てを受けたりしております。
ある日、クラスメートのカバンからパソコンゲームソフトが盗まれるという事態があり、ホームルームで全員残されたのですが、クラスメートから一斉に私に嫌疑がかけられたときは、本当にもうやめたほうがいいんじゃないかとすら思いました。
たぶん、激烈で熾烈な中学受験の世界に順応しすぎて、結果を出すことにカタルシスを得た小学生・山本一郎から、厳しい受験、それに対する猛烈な勉強というバリューが喪失した結果、精神のバランスを崩してベトナム戦争からの帰還兵のような喪失感を抱いていたのでしょう。
しかし、どういう理由か問題を起こしても慶應をやめさせられることなく2年生になり、3年生になると、私の成績は数学以外どんどん落ちていきました。数学は、勉強しなくてもできるのでほぼ満点を取り続けたものの、他の教科はからっきしで、ゲーセンに入り浸り、目的を見失って反抗期を続けたまま、ほぼ学年最低の成績で慶應義塾高校に失意の進学することになります。学力に覚えありの自信満々で慶應義塾中等部に入学してみたら、卒業するころにはその他大勢の問題児として出ることになるわけですから、まあプライドも何もあったものではありません。
でも、いまでこそ、慶應義塾の門を叩いていて良かったと思います。私の人生の半分は慶應でできています。もしももう一度人生があるとするならば、迷うことなく慶應義塾を目指します。ただし、慶應がいかに優れた塾風であったかに気づくのは、反抗期が終わり、自分の進路というものを真剣に考え始めるまでで、なお時間がかかりました。そこまで滅茶苦茶をやって、荒井部長の勘違いがあったかもしれないけど慶應はお前が必要だとし、中等部、高校と、暖かい環境で育った懐の広いクラスメートとの交流もあって、私はようやく慶應義塾の塾生だ、塾員であると思えるようになったわけであります。
途中、高校でジャミラと呼ばれた高橋さんという教師からキリスト教について学び、これは自分の心のよりどころにするべきと深く考えてバプテストに帰依したのも、担任の河内さんに「山本一郎は能力をもてあましているから」と高校からの留学を薦められたのも、慶應義塾が「自分で考えて行動する人間を育成する」というありがちだけどガチでそういう育て方をしている塾風をしみこませているバックグラウンドがあるからだと思います。親父もお袋もキリスト教には強い反対をしました。
でも、自分は神とともにあるのだ、自らが処すことのできないすべては神の導きであるのだ、放蕩息子である私は誰から指さされることなく神が見ておられる自分の信念に基づき善しとしたことに命を燃やすのだと思えるようになったとき、憑き物が落ちたかのように長かった反抗期を終え、余裕をもって自分の中学時代を振り返ることができ、慶應の暖かさを肌で感じ、前に進んでいくのだと思い切ることができたのです。紆余曲折はありましたが、それなりに仕事で成功し、大学や研究室に仕事を得て、したいことをやり、幸運にも家内と巡り合えて結婚をし、子どもたちや家族に囲まれて幸せに暮らせているのは、慶應義塾の優しい温室環境が受験戦争で冷え切った私をの精神を人として立ち直らせ最低限の社会人として世に送り出してくれたからだ、と慶應義塾には本当に深く感謝できるようになりました。
そんな慶應義塾中等部に、31年ぶりに戻ってきたのです。もちろん、慶應義塾大学には何度も用事があり、三田に足を向けるたび、中等部は見るわけですが、なんか私が入っちゃいけないんだろうなと思う気持ちが強くて… 足を踏み入れることは31年間ほぼ無かったのですよ。
久しぶりに入った校舎は、私が通っていたころの、オンボロで、カネがあるならどうにかしろよと毒づきたくなるぐらいの、それでいて懐かしさと口惜しさの同居した、切ない思いを私に投げかけてきました。ふてくされて呼び出された職員室、教師に詰められた応接室、某先輩をぶん殴ったピロティ、クラスで浮いているときにやることがなくて軟式ボールを壁当てして時間を潰した大教室前…… 記憶力は確かにいい方だけど、こんなに鮮明に31年前を思い出せるのかと思うぐらい、いろんなことが思い出されて、なんでこんな人生だったんだろうね、と言葉もない状況になったんですよね。
その慶應義塾中等部の、大教室で、先日私は在校生の皆さんに講演のような授業をしました。31年を超えた、私の後輩たちに、どちらかというと、一方的に押し付けるものじゃなくて、考えてもらうような内容をやりました。それも、いろんな国立大学に呼ばれては大学一年生か二年生が頭をひねらせるような、それなりに難易度の高い代物です。
一つひとつの項目を説明するたび、中等部生はざわざわしていました。横の子と、前と後ろと、問題について話し合っているのです。おい、講義中だぞ。国立大学などで大学生相手にやるときは、もっと静粛にしています。とある別の私立中学でも、静かに課題にみな取り組んでいたのをよく覚えています。でも、慶應義塾中等部は何かが違う。
お前、これどう思う。どういうことなの。どうしたらいい。俺、こう思うんだけど。それ違うんじゃない。いや、いいと思う。そのざわめきは、受験戦争を一人で闘ってきた大学生たちにはあまり見られない、自分の考えをまとめたり、誰かと意見をすり合わせたり、みなで問題を解決していこうというような、団結力のある、一体となったざわめきでした。言葉と考えが、縦横無尽に広がって、中等部生を繋いでいるのです。
ああ、これが慶應義塾中等部なのだなと。受験番号、1294番。そう、後ろから二列目に座って、この大教室で受験していたんだよ。私が生まれた1973年当時はベビーブームで受験の倍率なんてひどくてね。その四半世紀のときを超えて、コリコリ国語算数理科社会を答案用紙に書いていた私がいた教室で、いまこうやって後輩にややこしいことを説明し、理解させようとしている。これでようやく、私は慶應義塾中等部を卒業できたことになるのではないか。自分に課せられていたクエストを、一個終えることができたのではないか。
一通りプログラムが終わり、さらにざわざわする教室。いや、いいんだよ。ざわざわできることが彼らの特権であり持ち味であり次の時代を開く力なのだ。そのざわざわに入れなかった私だからこそ、この学校の強さも良さも実感できるのです。私は幸せで素敵な中学校生活を送ることはできなかったけど、少なくともその後、自分を見つけることはできました。みんなで考え抜けば、いずれ、なにかが見つかることでしょう。
壇上で、ああこれが後輩かと勝手に感動していたのは事実です。私のいたころよりもはるかによくまとまり、楽しそうにしていたのもこの学校の塾風を作っている先生がたの努力の賜物だと思うんですよ。私の代も、私以外は幸せな学校生活を送っていたと思いますが、本当に、若き諸君に幸あれと感じました。
お話が終わって部屋からの帰りしな、あ、私が受験したころの机の近くを通るなあと思っていたら、そこに座っていた中等部生が… 気を利かせたのか「ありがとうございました」と声をかけてきてくれました。そこは、間違いなく私の… 絞り出した言葉は「どうか、頑張ってくださいね」だったわけですが、人生、本当にいろいろです。良い高校生活を、義塾での勉学を、社会人となってからの飛躍を、家庭人としての安定を心から祈念したいと思います。
帰る段になって、思い出の深いピロティから、綺麗な人工芝に張り替えられた学校の中庭を見ました。晴れ上がった空から古い校舎に春の光が差し込んでいました。この景色から、いろんな思いを持った塾生が飛び立っていくのかな。校舎はオンボロでも諸君の胸に希望が詰まっていればいいのだ。ざわざわしながら、前に進んでいってほしいと思います。
帰宅して家内に概ねの説明をしたら「それって凱旋なの?」と笑っていたので、思わず私は本音を言ってしまいまして。「どっちかっていうと、罪滅ぼしだよ」
背広を脱ぎ、私服に着替えてから、新四年生になる長男の手を引いて、晴れた午後に外出をしました。中学受験のための、塾の、ガイダンスに。
(著者註:だいだい認識している事実の通り書いたつもりですが、ニュアンスが違うとか、実在する誰かや団体については少し配慮して記述しています。真実は、私の心の中だけに… すみません。)