社会の変動期だから僕は政治家を目指した
〜「市議会議員に転職しました。」(小学館)第6章より〜
私が議員になってから、最もよく受ける質問は「なんで政治家になったの?」です。確かに、親はもちろんのこと、親戚にも政治家がいたわけでもない私が、出身地でもない場所で選挙に立候補したわけですから、ごく自然な質問だと思います。これから選挙の実務について説明するに当たって「なぜ、自分は立候補するのか」は、たいへん重要な要素になりますので、少し立候補に至る経緯について触れたいと思います。
私が立候補を決めたのは、直接的な要因と間接的な要因があります。直接的な要因はま さに私の背中を押したもの、間接的な要因は選挙に向けた準備や選挙、さらにはその後の 議員生活の根幹を支えている大事なものです。
まず、直接的な要因について話しましょう。それは、ズバリ手術です。私は2006年 春にアトピー性皮膚炎を悪化させて、それが原因で両方の目が白内障になってしまいまし た。仕事でパソコンに向かっていて、目がかすむ日が続きました。最初は「なかなか疲れが取れないのかな」と気にかけていなかったのですが、1週間経ち、2週間経ってもかすみが取れません。会社の診療所で診てもらうと、白内障ということだったのです。わずか数か月のうちに、もともと2・0あった視力は、左が0・2、右は1・0まで落ちていました。
白内障は 歳を超えれば高齢化によって、ほぼだれもが経験することになりますが、 20代での白内障はたいへん珍しく、進行も速いことから緊急を要するとのことで、急遽手術をすることになりました。 私の執刀医は白内障治療の大家、秋葉原にある三井記念病院の赤星隆幸先生でした。手術前の検査の際、赤星先生からのひと言は今でも忘れることはできません。 「もっとしっかりと身体のケアをしなさい。アトピーが原因だから、人より緑内障の発 症リスクも高いですよ。最悪のケースは失明です。」 。
この時のショックは今でもはっきりと覚えています。手術は無事に終わりましたが、赤 星先生からのひと言がずっと頭から離れず、「五体満足でなくなる日が、将来やってくる かもしれないけど、後悔のない状態でその日を迎えたい」と強く思うようになりました。 そして、私は政治を目指すことにしたのです。
では、なぜ「政治を目指そう」と思ったのか。間接的な要因が大きく影響しています。 私は1977年生まれ。都市銀行に勤務する父と専業主婦の母、弟が一人という典型的な昭和モデルの家族像で育ちました。「良い学校、良い大学、良い会社と歩むことが人生の幸せ」というモデル。もちろん、親がはっきりとそういったわけではありませんが、私たちの世代はそういう価値観の下で育ってきました。
ところが、私たちの世代はその価値観が崩壊していく過程を直接体験することになりました。私が小学生の頃、湾岸戦争がありました。あの時、日本はクウェートに対して総額135億ドル(当時の日本円で約1兆8000億円)の資金援助、経済援助をしていながら、戦争後、クウェートの感謝決議の中に日本の名前は記載されていませんでした。小学生ながら衝撃でした。リクルート事件もほぼ同じ時期に起きていました。政治とお金を強 く意識する出来事でした。その後も、東京佐川急便事件で自民党の金丸信氏が議員辞職に追い込まれる汚職事件が起き、日本新党を代表とする新党ブームに火がついたのです。
しかし、新党ブームも長いものではありませんでした。1995年1月、阪神淡路大震災では法制の不備の問題もあり、知事による自衛隊への出動要請の遅れと、それに伴う被害者の増加が指摘されました。その半年後には、「政治とカネ」の問題を追及して組織を大きくしたはずの新党の議員がオレンジ共済組合事件を引き起こし、ブームに完全にケチ がついてしまいました。
小・中・高の約 年間の多感な時期にこれだけのことが起きたの です。いやでも「大人は未来のことを考えているのだろうか」と疑問に思うようになりました。
1996年、私は大学に進学しましたが、経済と政治の混乱は一向に収まる気配はありませんでした。1997年に山一証券が破綻し、野澤社長が「社員は悪くありませんから」 と涙を流した姿が連日テレビで報道されました。この年は、北海道拓殖銀行が都市銀行として初めて経営破綻しましたし、それ以外にも京都共栄銀行や徳陽シティ銀行も破綻しました。総会屋事件で第一勧業銀行に家宅捜査が入り、逮捕者だけでなく自殺者まで出して しまいました。
今振り返れば、バブルの清算だったのでしょうけれども、絶対に潰れない といわれた銀行が潰れる、家宅捜査が入る、日本を代表する証券会社の社長がカメラの前 で泣くと、「これまで自分がぼんやりと信じてきた価値観は終わったな」と思うには十分 過ぎる世相でした。
ちょうど、この頃、私は初めて靖国神社に参拝しました。当時は今以上に閣僚の公式参 拝がクローズアップされていたので、自分の目で確かめないといけないと思いました。今でも忘れません、私はここで大きな体験をしました。靖国神社に隣接する遊就館を拝観し、 特攻隊の手紙を見た時に、涙が止まらなかったのです。当時の私には戦争の是非や、東京 裁判からサンフランシスコ講和条約、その後のA級戦犯の合祀問題など議論できるだけの知識も自分の考えもありませんでした。
ただ、特攻隊の手紙は、私に一つの事実を突きつけました。それは「戦争によって夢や希望を諦めなければいけなかった人がいた」という事実です。私にとって50年前の出来事であったとしても、戦地に赴いた人たちは19や20、24という年齢で人生の幕が閉じているというきびしい事実。それまで戦争は教科書の中の記号でしかなかった私の中で、なにかがガラガラと音を立てて崩れた気がしました。「この人たちが今の日本を、今の政治を見て満足してくれるだろうか。」。
ちょうど世の中が大きく変わろうともがき、過去の膿みを出している時期だったことも手伝ったのでしょう、「いつか政治の道へ」と私がはっきりと意識したのは、1997年の大学2年生の時でした。これが、私が政治を目指すことになった間接的な要因です。
そうはいっても、親兄弟はおろか親戚にも友人にも政治家はいません。どうやって議員を目指すのかもわからず、大学・大学院と進学し、マスコミに就職しました。そして、就職して5年目に直面した白内障の手術。私にとって政治の世界に足を踏み出すことになんの迷いもありませんでした。
目を患う1年前の郵政選挙の直後に、当時住んでいた横浜市青葉区から無所属で当選した 江田憲司衆議院議員(現結いの党代表)の下に、「話を聞かせてほしい」と押し掛けていたことも幸いしました。その縁を頼って、私は2007年春に行われた統一地方選挙に横浜市緑区から立候補することになりました。
なぜ、このような話を書いたのかといえば、選挙中あるいは当選後に、自分が政治家を 目指している理由はなんなのか、その原点と向き合わなければいけない局面が何度も訪れ るからです。単に選挙に当選するだけなら、いくらでもノウハウは存在しますが、それでは日本の政治を変えられません。議員を目指す動機は十人十色でしょうけれども、少なく とも自分の原点は「これだ!」というものを胸に政治の世界に飛び込んでほしいと思いますし、あるいは、議員を目指さない人でも「この候補者が政治家としての原点、大切にし ているものはなんだろう?」という視点で観察すると、今までとはちがった見え方になるはずです。
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