日本を代表する巨大企業「東芝」が崩れ落ちていく。家電、メディカル、そして成長分野の半導体事業の切り売り。迷走を続ける経営陣からは新たなビジョンは読み取れず、再起への覚悟も感じられない。2006年に米原発大手ウェスチングハウス・エレクトリック(WH)を相場の2~3倍で買収したことが後の経営危機を招いたとされる。
経産省が旗を振る中、米国発の「原子力ルネサンス」に迎合して経営の柱に据えた原発事業のつまずきは、致命傷につながる負の一歩だった。
人はもし転がり傷ついたなら立ち上がり、普通は同じ轍(てつ)を踏むまいと考える。ところが、米国の原発建設で屋台骨を揺るがすほど膨らみ続ける巨額の損失に、東芝は向き合わず、不正会計で乗り切ろうとした。まるで高速道路を逆走していることに気付きながら、対向車と衝突を続け、さらにアクセルを踏み続けるドライバーのように…。
従業員19万人を擁した名門企業はなぜ道を誤ったのか。当事者能力の欠如はどこに起因するのか。その企業体質を物語る、ある団体に焦点を当ててみた。(共同通信=柴田友明)
▽「思想チェック」
それは東芝従業員の「監視マニュアル」「思想チェック報告」だった。マル秘、取扱注意と記された数百ページに及ぶ資料。東芝の労使問題を裏側で担う「扇会」という団体が一部の管理職向けに作成したものだ。共同通信は今年7月上旬までに入手した資料や関係者の証言を基にその実態を把握した。
扇会とは、東芝に再就職した公安警察OBらがメンバーとなり、特定の従業員をピックアップ、“問題あり”と見なした人の職場内外での活動を本社勤労部門に通報する組織とされる。1970年代に結成され、その後は名称を変えたが、つい最近まで活動は続いていた。
1973年8月に作成された「左派一般情勢と当社の現状」(年間総括)というタイトルの資料を手に取ると、この扇会がどういうことに力を注いできたかが分かる。過去1年間の国内の政治情勢、特定の政党や団体の活動を分析。企業防衛のためとして、東芝の各工場で監視対象の従業員たちの動向を詳細にまとめている。
「左派対策は勤労担当と(労組の)一部健全グループによる基礎固めの段階から幹部を中心とした統一体制、すなわちライン管理を強化しなければならない」。つまり管理職と会社に協力的な労働組合員が手を結び、社に批判的とみられる従業員を監視・排除していくという趣旨の文章が記載されている。全国の10工場で働く人のうち「左派」と見なした100人近い従業員の名簿をつくり、氏名、生年月日、住所、学歴、職場での資格だけでなく、集会などにどれだけの割合で参加しているか、その数字まで列挙していることには驚く。
「26.4%」「36.4%」など、ゼロコンマが付いた数字を眺めると、対象の人物を尾行して、常に行動をチェックしなければ、作れる資料ではないと思える。
1995年と2003年に、神奈川県内の東芝工場の従業員たちは神奈川県地方労働委員会に不当労働行為の救済を申し立てた。
神奈川県地労委は「会社の施策に対立する独自の組合活動を行うものを嫌悪し、不利益な扱いをした」と判断、賃金格差分を支払うように東芝に命じた。その後、東芝側が不服を申し立てたが、04年に中央労働委員会は東芝に是正命令。最終的に08年に双方の和解協定が成立した。申し立てた従業員12人の処遇を是正し、解決金を支払うことが決まり、退職者ら84人も和解の対象となった。
扇会の従業員監視の活動を示す資料は証拠として提出されている。地労委や中央労働委の担当者の「心証」に影響したことは間違いない。
▽経営危機の遠因
「ものが言えない東芝。上層部に自由に意見が言えないような体質ができてしまった」。東芝差別事件の弁護団長だった岩村智文弁護士(川崎合同法律事務所)は扇会の活動などが極めて風通しの悪い東芝の社風をつくってきたと見る。今回の経営危機についても、こういった異常な労務管理が「一つの要因、遠因になったのではないか」と指摘する。
扇会は管理職研修にもかかわり、社内の「問題者」をどう見つけて対応するか幹部社員らに説いてきた。評論家の佐高信氏もそういった東芝の体質を問題視する。佐高氏によると、問題者をどう発見するか、扇会は兆候判断のポイントを文書にしていた。
その一部を簡潔に紹介する。(1)職場で行動に空白部分が多く、昼休み時、終業後の行動が見当つかない(2)職場の同僚や、特に若年者と新入社員の悩みごとや苦情に対する世話役や活動を積極的に行う(3)就業規則をよく知り、有給休暇などの行使など権利意識が強くなる(4)朝のお茶くみ、掃除などサービス労働に抵抗するようになり、奉仕的な美徳をなくする方向に力を入れる(5)特定日の残業をしない―。
筆者は佐高氏に話を聞きながら、この項目を読み上げるうちに、思わず互いに笑ってしまった。こういった行動を問題者としてピックアップしたマニュアルを管理職研修として学んだ社員はどういう気持ちだったのか。ばかばかしいと思って聞いていたらほっとするが、本気でそう信じて問題者のあぶり出しに力を入れていたなら空恐ろしい気持ちになる。
▽「解散した」?
筆者は7月5日に東芝本社にメールと電話で質問した。「『東芝扇会』とはどういう組織だったのでしょうか。社としてのご見解をお聞かせください。現在は別の名称に変わりましたが、どういう活動内容をされていますか」。翌6日に広報担当者から、次のような回答が電話であった。
「(東芝扇会は)1992年に解散しました。その後、『自己啓発の会』(という名称)になっているのですが、数年前に解散したと聞いています」と会の存在自体は認めた。しかし、活動内容については「従業員の有志による集まり」と話す以外、何も答えようとはしなかった。質問の趣旨に何ら対応していないと聞き直しても、広報担当者は同じことを繰り返すばかりだった。
日本で最も歴史のある大手企業のひとつ、東芝は家電産業をその技術力でリードしてきた。国産第1号の冷蔵庫や掃除機、電気洗濯機などを販売し、1985年には世界初のノートパソコンを開発した。
テクノロジーだけでなく、財界史上、卓越した2人の大物を輩出している。作家城山三郎氏が小説「もう、きみには頼まない」で描いた石坂泰三氏は戦後間もなく東芝の社長となり会社再建に力を尽くした。高度成長期に長年、経団連会長を務め、最初の「財界総理」と言われた。その気骨や独特な存在感は語り草となっている。その後継者とされる土光敏夫氏は財界の「荒法師」と呼ばれた。1980年代初めに経団連会長を辞めて、「第2臨調」の会長として行政改革に臨んだことは中高年世代にとって、まだ記憶に残る。
注目すべきはこの2人は東芝社外から登用され、古くからある東芝の企業体質をあらためようとしていることだ。ノンフィクション作家山岡淳一郎氏は「気骨 経営者土光敏夫の闘い」(平凡社)で紹介している土光氏の逸話は面白い。
1965年5月に東芝社長として初出勤。社長室に入るや室内に設置された風呂やトイレを目にして「こんなものいらない」と業者を呼んで壊して、重役室は個室から大部屋に移した。夜行列車を使って工場の現場を見て回り、従業員から「オヤジ、オヤジ」と歓迎されたという。今で言う「劇場型」の経営手腕を発揮したのかもしれない。
ノスタルジックに語られる人物だが、土光氏と、東芝が足をすくわれた原発事業は結びつきが強い。山岡氏は作品で「土光は、紛れもなく原発を推進する勢力の中枢にいた。ただ、原子力を見つめるエンジニアとしての彼の目には、高度な技術への『憧憬』の光とともに『恐れ』の陰が入り混じっている」と語っている。
それから半世紀余。原発事業に深く関わり、巨大化した名門企業はその企業体質とともに、その行く末が問われている。