現代アートの巨匠、クリスチャン・ボルタンスキー。その遺作が、宮城県南三陸町にある。ただ、展示場所は美術館ではない。場所は東日本大震災の記憶を伝える震災伝承施設「南三陸311メモリアル」だ。被災者の体験談や遺物の展示が中心となる施設に、なぜフランス出身のボルタンスキーの作品があるのか。調べていくと、地元と建築家・隈研吾氏、そしてボルタンスキーの強い意志が浮かび上がってきた。(共同通信=高城和子)
▽「あの日の記憶がよみがえってくるような空間」
南三陸町は震災で620人が死亡し、今なお211人が行方不明になっている。大きな被害を受けた町は、被災の記憶を風化させないため伝承館「南三陸311メモリアル」の建設を計画した。2022年に開館した伝承館には、クリスチャン・ボルタンスキーの「MEMORIAL」が展示されている。暗い空間に、膨大な数のさびたビスケット缶を積み重ね、密集させた作品だ。それらを天井からつり下げられた電球がほのかに照らす。施設展示の指揮を執ったのは文化事業ディレクターの吉川由美さん。吉川さんはこの作品についてこう語る。「地元の方々にとっては、生と死を見つめる思索の空間でありますし、やはり対峙するのが怖くなるようなあの日の記憶がよみがえってくるような空間かもしれません」
▽「来館者の記憶に残す」
吉川さんは東北地方の文化施設を中心にアートプロジェクトを手がける。南三陸町が始めた「女性たちによる観光のまちづくり事業」で講師として招かれたのをきっかけに、震災以前からこの土地に携わってきた。伝承館の依頼を受けたが、悩んだという。
「どうすれば、来館者の記憶に残すことができるのか」
被害実態を示す資料を置けば、被害の大きさや経験した苦悩を理解することができる。ただ、単なる展示では来場者がどうしても受け身になり、「自分事」として捉えることは難しい。すぐに忘れられてしまう恐れがある。
ヒントになったのが、新潟県の十日町市と津南町で実施されていた現代アートの国際芸術祭「大地の芸術祭」。里山を舞台に点在するアート作品はどこも行列となっていた。吉川さんは、鑑賞者が作品を見たり、近づいたりしながら能動的に体験する様子を見て、アート鑑賞の特徴に気付く。「もし伝承施設にアートを取り入れることができれば、人々の記憶により強く残るのではないか」
▽南三陸町町長が下した決断
吉川さんは当初からこう考えていた。「震災を勉強するのに絶対条件として必要なのは、その時に大勢の人が亡くなってしまったという痛ましい事実」。一方で、町にあった遺物は、復興に向けた動きの中で処分されていて、展示できそうな遺物は残っていなかった。被災者の語りによるプログラムも考えたが、震災から年月がたっておらず犠牲や悲しみを前面に押し出して語ってもらうことははばかられた。
アートの力を借りることにしたのは、震災を語る上で避けられない「死」や「不在」について来場者に考えてもらうため。ボルタンスキーは、ホロコーストなどの主題を通して、それらを訴えてきたアーティストとして国際的な評価を得ている。
吉川さんは南三陸町の佐藤仁町長とともに、香川県・豊島を訪問した。佐藤町長はここで見たボルタンスキーの作品「心臓音のアーカイブ」にこんな印象を持った。
「光の点滅が、あるべき肉体が消えゆく瞬間であるかのように思え、震災の記憶がまだ生々しく残る当時の私にとっては残酷で衝撃であった」
だからこそ、当初は「ボルタンスキーの作品が伝承館に似つかわしいのか、疑問が拭えないまま豊島を後にした」。それでも、自問自答を重ねる中で気持ちに変化が生じた。
「自分がさまざまな感情を抱いたあの空間こそが作品で、あの感情こそがボルタンスキーの意図だったのでは、と腑に落ちる部分があった。メモリアルに人々の記憶や命そのものを考える役割があるのだとしたら、これに向き合い、考える空間としてボルタンスキー作品以外にないのではないかという決断に至った」
▽被災地を歩いたボルタンスキー
町はボルタンスキーに作品製作を依頼。すると、快諾とともに「南三陸だったらこんな作品にしたいというイメージをもっている」として「MEMORIAL」の構想が告げられた。缶を積み重ねたこの作品で伝えたかったことは何か。ボルタンスキーが町や隈研吾建築都市設計事務所に提案した作品コンセプトによると、彼は私たちの世界のもろさを訴え、地震への警告をしたいと考えていた。積みあがった缶は、地震が起こってしまえばいつ崩壊するか分からない、もろく不安定なものに見える。
ボルタンスキーは震災があった2011年の9月に宮城県石巻市を訪れている。南三陸町が依頼するよりずっと以前に、自らが希望して訪問したという。翌12年の「大地の芸術祭」への参加が決まっていた彼は、制作予定の作品が震災直後の状況にそぐうのか、自分の目で確認したかったのだという。石巻市では海岸を歩き、小学校などを訪問。「MEMORIAL」に影響を与えた可能性は十分にある。
▽建築家・隈研吾が見た「MEMORIAL」
作品を収容する伝承施設「南三陸311メモリアル」の建築を手がけたのは、建築家・隈研吾さんだ。隈研吾建築都市設計事務所は、「南三陸さんさん商店街」など一帯のグランドデザインも担った。
南三陸町がボルタンスキーに作品を依頼したいという話を聞いた隈さんは、取材にこう答えた。
「驚いたけど、僕もまさに彼がこの展示にぴったりな人だと思ったから感激した」。ボルタンスキーを「空間のなかに濃密な空気感を作れる人」と評する隈さんは、建築家としていつも憧れをもって見ていたと明かす。町の人々の復興に関する取り組みに接する中で「記憶に対する向き合い方が真摯」と感じていた。その姿勢がボルタンスキーと結びつくように思えたという。
さびた缶を積み重ねた「MEMORIAL」の構想を提案された際の印象については、こう振り返った。
「何でもない物質を特別なものに感じられるようにしたいといつも思っているので、アイデアはすごく魅力的に感じた」
ボルタンスキーが被災地を訪れたことにも触れた。「東京では段ボールなどの包装が多いが、東北など地方に行くと缶のようなものは残っている。そういうのを彼は多分感じ取ったのではないか。日本を何度も訪れ、東京と南三陸町の距離感が分かっている人だからこのような作品が作れたのだと思う」
ボルタンスキーは作品のイメージをすり合わせるため、パリにある隈事務所に足を運び、話し合いを重ねた。隈さんはパリの事務所を訪れると、今でも懐かしさがこみ上げるという。「ここにボルタンスキーが来てくれたのだなあと思う」
▽加工を繰り返した地元の職人たち
作品で使用した缶は1千個超。缶の腐食加工も、南三陸町で行われた。現地での制作を提案したのはボルタンスキー側だったと、隈事務所でプロジェクトの実務を担った名城俊樹さんが説明する。
加工を請け負ったのは町内の「三浦板金工業」。本業はアート制作ではない。
職人たちは試行錯誤を繰り返した。缶を人工的にさびさせるにはどうすればいいのか。吉川さんも製作現場を何度も訪れ、作品のテーマや、試作の中から彼の意図に近いものはどれかなどを語り合った。制作で印象に残ったのは、職人の1人が話したこんな言葉だという。「缶にさびを施していたら、一個一個が人間に見えてきた」
さびた缶を作り上げるため、職人たちは水道で洗ったり、風にさらしたりした。職人の家族も加わり、ひとつとして同じものはない膨大な数の缶を作り上げた。
ところが作品完成を控えた2021年7月、ボルタンスキーは病気で亡くなった。76歳。訃報は世界に衝撃を与えたが、それは南三陸町や隈事務所にとっても同様だった。それでも生前に送られていた作品の3Dデータから、遺作「MEMORIAL」を完成させた。
施設内に設置して完成した作品を見て、隈さんは改めて驚いたという。「彼が建物を予測してここに置いたのではないかと思えるぐらい、はまっていた」