本願寺攻略
元亀三年(1575年) 六月上旬 摂津国東成郡生玉荘大坂 朽木基綱
石山本願寺を五万の朽木軍が取り囲んでいた。何と言うか、壮大だな。城も大坂城の基になっただけに雄大だし五万の軍が包囲するのも凄い。何処か現実離れした感覚が有る。朽木軍が包囲してから一カ月が過ぎた。高津城、丸山城、ひろ芝城、正山城、森口表城、大海城、飯満城、中間村城、鴫野城、野江城、楼ノ岸城、勝曼城、木津城、難波城、本庄城……。本願寺が築いた支城だが五月下旬には全て攻略して今では朽木方の付城になっている。
殆どの城は大して抵抗しなかったが木津城、難波城等の河口、海の傍の城は激しく抵抗した。まあ海上補給路を断たれると思って必死だったのだろう。実際には制海権は朽木と三好で押さえている。あまり意味は無いんだが……。支城が落ちてからは本願寺は籠城に専念して打って出る事は無い。時間稼ぎをしているのだろうな。周囲の状況が変化して朽木に不利な状況になる事を期待しているのだと思う。まるで大坂冬の陣だな。まあ豊臣家とは違って本願寺には味方がいる。そう考えると必ずしも下策とは言えない。但し兵糧がもてば、の前提が有る。
今頃小夜と雪乃は如何しているか。二人とも出陣前に妊娠が発覚した。御蔭で大騒ぎだ。如何いうわけか同時期に妊娠する、なんでだろう? 当然か、二人とも此の俺が相手なんだから。出産予定日は十一月だそうだ。まあ今度は出産前に帰れるだろう。だがなあ、綾ママがまた騒ぐだろうな。辰を側室にしろと。それを思うと本願寺、頑張れよ、何とか十月末まで抵抗してくれと応援したくなる。家臣達の前では言えない事だ。
……新たな命がはぐくまれれば失われる命も有る。出陣前に伊勢の真田弾正忠幸隆が死んだ。昼寝をしていると思ったら死んでいたそうだ。悲しかった、涙が出たよ。今回の戦いに真田の一門は参加していない。参加したがったが供養をちゃんとしろと言って断った。後で俺も線香を上げてやらないと。伊勢海老が美味いと喜んでいたなあ。北の海は蟹、南の海は海老だと騒いでいたっけ。海に近い領地を貰って嬉しい、妻も喜んでいる、信濃ではこんな喜びは味わえなかったと言って顔をくしゃくしゃにして喜んでいた事を思い出す。寂しいなあ、本当に寂しい。
朽木の本陣には俺の他に舅の平井加賀守、蒲生下野守、黒野重蔵、田沢又兵衛、明智十兵衛、沼田上野之助、山内伊右衛門、梅戸左衛門大夫、千種三郎左衛門尉が居る。梅戸左衛門大夫は六角の姓を受けなかった。遠慮は要らないと言ったんだがな。本人が六角に拘るのは止めたいと言ってきた。朽木の中で生きる以上、そういうのは危険だと思ったらしい。
俺もそれ以上は無理には勧めなかった、確かに危険かもしれないから。そして二万石の領地は結局伊勢での領有を求めてきた。問題ない、伊勢には長野も真田も居る。梅戸の影響力が増大する事は無い。むしろ長野への良い牽制役になるだろうと思っている。今は従順だが将来は分からないからな。もっとも朽木領内の国人衆は総じて従順だ。
何と言っても近江では叡山を焼き討ちし堅田を踏み躙った。北陸では越前、加賀、越中の一向門徒を根切りと称して殺しまくった。伊勢では北畠を皆殺しにした。それを思えば小夜や弥太郎が父親の為に必死になる筈だよ。俺って戦国の虐殺王だ。怖がられて当然だよな。それに気付いて憂欝になった。信長もそうだったのかな? ちょっと史実の信長に親近感を感じている自分が居る。
舅の平井加賀守は兵糧横流し事件が有った所為だと思うが常に俺の側に居る。そうする事で謀反なんて起こしませんよとアピールしているのだと思う。俺もそういうのは分かるから出来るだけ舅殿と和やかに話をするようにしている。特に本願寺の内情については必ず舅殿の意見を最初に聞く。
受け入れるかどうかは別だ。だが最初に尋ねる事で舅殿を頼りにしている、尊重しているのだと周囲にアピールしている。気遣いが大事なのだよ。掠り傷だと言って甘く見てはいけない。傷が膿んだらとんでもない事になるし破傷風なんて御免だ。そうなる前にしっかりと手当だ。今では誰もが俺と舅殿の親密さを疑っていない。あ、イケメン十兵衛が陣幕の中に入って来た。こちらに近付いてくる。ちょっと緊張しているな、何が有った?
「御屋形様、お客様がお見えでございます」
「客?」
俺が問い返すと十兵衛が頷いた。戦場に客? 堺の商人かな? 天王寺屋? 納屋?
「関白殿下でございます」
「はあ?」
いかん、間抜けな声が出た。しかしこんなところに関白近衛前久が? そう思っていると関白殿下が“ほほほほほ”と笑いながら陣幕の中に入って来た。お前なあ、腰が軽過ぎだろう。周りが慌てて膝を着いて殿下を迎えた。
取り敢えず床几を用意させて座って貰い俺も失礼して床几に坐った。こいつ、ニコニコしている、上機嫌だ。俺達を驚かす事が出来て嬉しいらしい。子供みたいなところが有る。ま、そういうところは嫌いじゃない。例の兵を率いて宮中を守った事から朝廷では公家らしくない武断派の関白と言われているらしい。
「実はのう、少将。頼みが有って参ったのじゃ」
「頼みと申されますと?」
銭の無心? それなら手紙で済む。わざわざ戦場にまで来る事は無い。何だろう?
「本願寺と和睦せぬか?」
「和睦、でございますか」
周囲がざわめくので“静かにせよ”と言って黙らせた。
「朝廷の御扱い、そういう形で和睦は出来ぬかと思うてな、麿がそなたに相談に参ったのよ。勿論条件はそなたが本願寺に示した石山からの退去じゃ」
「……朝廷の御扱いでございますか」
関白殿下が頷いた。もう笑ってはいない。
「実はの、この和睦、顕如上人に九条さんが頼まれたのじゃ」
九条? 太閤殿下? そう言えば九条は本願寺と繋がりが有ったな。
「本願寺はもう戦えぬ状況らしい。顕如上人は降伏も已むなしと考えているのだが一部の跳ね上がりの信徒共が死ぬまで戦うと強硬なのだとか。という事での、朝廷の御扱いという形で和睦したという形を取りたいと言ってきたのじゃ。それなら跳ね上がり共を説得する事も出来るからのう。だが九条さんが動くと妙な勘繰りを受けかねぬ。ほれ、三好左京大夫とも繋がりが有るからの。それで麿に相談してきたのよ」
「なるほど」
「如何かな、悪い話ではないと思うが」
殿下が俺の顔を覗き込んできた。
ふむ、確かに悪い話じゃない。顕如が九条に泣き付いたか。もしかすると九条を動かしたのは顕如だけじゃなく三好左京大夫という線も有るな。義昭から文が届いているのは分かっている。それに応じる気配はないが鬱陶しく思っているのは間違いない所だ。和睦させてさっさと追い払おうとでも考えたかな。そして朝廷も和睦が成立すれば権威を高められる。本願寺から謝礼も入る、そんなところだろう。俺も謝礼を出す必要が有るな。
「条件が二つございます。それを受けて頂ければ」
「ほう、二つか」
「はい、一つは本願寺に、もう一つは朝廷に」
関白殿下がじっと俺を見た。
「先ず本願寺には石山は無傷で渡す事を約束する事、決して火をかけたりはしない事を約束するのであれば」
「和睦を受け入れるか」
「はい」
関白殿下が頷いた。
「では朝廷への条件は」
「かねてより願い出ております金銀の比率の件でございます」
「やはりそれか」
関白殿下が渋い表情をした。そう、それだよ。朝廷はこの件でどうにも比率の発表をしたがらないんだ。要するに責任を負いたくないのだと思っている。まあピンと来ないという部分も有るかもしれない。
「如何でございましょう。検討して頂き朽木に任せるとのお言葉を頂く事は出来ませぬか。その後は某が比率を発表し全国の商人達に伝えます」
「良いのか?」
「構いませぬ。天下を獲るのが朽木か、それとも他の大名家かは分かりませぬ。ですが朝廷において検討して頂ければ他家が天下を獲った場合も朝廷から下問する事が出来ましょう、どうなっているのかと。それによって金銀の比率について天下を獲った者へ注意を促す事が出来ます」
関白殿下が何度も頷いた。
「ほほほほほほ、実務は武家に任せ朝廷は鐘を鳴らすのが役目か。上手い事を考えるのう」
「武家は興亡が激しゅうございます。このような国の大事はこの国の創成と共にある朝廷こそが警鐘を鳴らさねばなりますまい」
「なるほど、道理ではある。そうよのう、そうよのう」
殿下が嬉しそうに相槌を打った。これでまた朽木は朝廷を重んじてくれると公家達は思うだろう。朝廷を利用しているとは思わせず朝廷を頼りにしていると思わせる、それが大事だ。
大まかな合意が出来た事で関白殿下はニコニコしながら帰って行った。……もしかすると俺が石山で根切りをするとでも思ったかな。それで和睦を持ちかけてきたのかな。有りそうだ、下野守も重蔵も俺が根切りをすると思っていたからな。やっぱり俺は虐殺大王か。落ち込むなあ。
十日もすれば朝廷から仲裁の使者が来る。使者は飛鳥井の伯父らしい。伯父はこの和睦が成立すれば権大納言に昇進する事になっているそうだ。去年正二位に昇叙しているから正二位権大納言か。まあ張り切って来るだろう。楽な仕事だ、感謝されるかな。ついでに来年の内親王宣下の事も話しておこう。喜ぶだろうな。
それにしても朝廷の御扱いか。史実も朝廷による和議だった。その和議で顕如は石山を退去している。この和議、顕如の依頼によるもの、信長の依頼によるものという説があるけど俺はちょっと違うんじゃないかと思っている。裏で動いたのは近衛前久で顕如の窮状を見兼ねて和議を勧め同意を得た上で信長に話を持って行ったのだと思う。そして信長の了承を得てから帝を動かした。
近衛前久が足利義昭によって京を追放された時、頼ったのは本願寺だった。そして義昭が信長によって追放されると京に戻り信長と親交を結んでいる。信長、顕如と親しく帝にも近い。裏で動いて和睦を成し遂げるには最適の人物だろう。腰も軽いしな。公家っていうのは強かな奴が多いわ。嫌いじゃないがね。
元亀三年(1575年) 七月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
竹若丸の部屋には竹若丸、松千代、竹の三人と北畠右近大夫将監具房が居た。
「この近江国というのは怪異なる物が多いのです」
北畠右近大夫将監がニコニコ笑いながら話すと竹若丸、松千代、竹の三人が興味津々という風情で右近大夫将監の話を聞こうとしていた。子供に人気有るんだよな、右近大夫将監は。気は優しくて力持ちなんだ。良く子供達に捕まって話をせがまれている。
ちゃんと仕事もしている。領内の見回りで橋が壊れているとか道の舗装が必要だとか情報を上げてくれている。足を使って見回るなんて仕事は皆嫌がる。でもそういう地味な仕事が大事なんだ。そういう仕事をしっかりとやってくれる人間は大事にしないと。
「滋賀郡の堅田には化け火という怪異が居ります」
竹若丸が“化け火!”と叫んだ。そして“それはどんな物なの”と言って教えてくれとせがむ。
「されば季節を問わずに曇りか小雨の夜に現れる目立ちたがりの怪異です。淡海乃海の岸辺から現れふわふわと宙を彷徨うのです。最初は、小さいのですが移動する事に大きくなり、最期には三尺もの大きさになると言われております。松千代様、竹姫様よりも大きゅうございますな」
子供達が“えーっ”と嬉しそうに声を上げた。
隠れて子供達の様子を見ていると藤堂与右衛門が“御屋形様”と小声で俺を呼んだ。子供達に気付かれないようにと配慮したらしい。なるほど、気遣いの男だな。
「如何した、与右衛門」
「御側室、雪乃様が暦の間でお待ちでございます」
「雪乃が?」
「はっ、急ぎ御屋形様をと」
「分かった。気遣い、済まぬな」
俺が感謝の言葉を出すと与右衛門が恐縮するかのように大きな体を屈めた。共に暦の間に向かう。
「与右衛門は将来どんな仕事をしたい」
「はっ、城造り、町造りをしたいと思っておりまする。御屋形様が御造りになられました今浜の町を見て感動致しました」
声が弾んでいる。築城の名人、藤堂高虎らしい答えだ。
「そうか、……石山に行くか? 与右衛門」
「石山でございますか?」
ちょっと訝しげな声だ。
「うむ。山内伊右衛門がな、人を欲しがっている。石山は城も立派だがこれから西国攻めの重要な拠点になる。物も集まり賑わうだろう。物を動かす事が出来る男が戦を動かすのだ。城造り、町造り、どちらも学ぶ所は多いと思うがな」
「御配慮、有難うございまする。石山へ行きまする」
「良し、決まった。伊右衛門に文を書く。それを持って石山に行け」
「はっ」
他に石田の兄の方も送ってやろう。三成は俺が使おう。あれはちょっと変わっているからな。要注意だ。
暦の間に入ると雪乃が膨らんだ腹を隠すようにして座っていた。これから暑さが厳しくなる、辛いだろうな。暦の間には下野守と重蔵も居た。一息入れようと言って休ませたのだがな、雪乃が呼んだかな? かなりの大事のようだが……。他に何人か小姓が居た。
「如何した、雪乃」
「敦賀の父より文が届きました。至急これを御屋形様にと」
雪乃が蒔絵の文箱を俺に差し出した。与右衛門が受け取り俺に差し出す。受け取って蓋を開け中の書状を取り出した。
「雪乃、そなたはこの中身を知っているのか?」
「いいえ、存じませぬ。私にはただこの文箱を至急御屋形様に御渡しせよと。大事が出来したとしか……」
「聞いておらぬか」
「はい」
雪乃が困惑を見せながら頷いた。氣比神宮の大宮司から書状か、何が有った? こんな事は初めてだが……。書状を開いて中を改めた。書かれていたのは一行だ。
『関東管領上杉輝虎殿、中風にて倒れる。予断許さず』
溜息が出た。確かに史実での上杉謙信の死因は中風だった。多分高血圧、動脈硬化が原因で頭蓋骨の中でトラブルが生じたのだろう。トイレで倒れて四、五日後に死んだ筈だ。予断許さずという事はかなり拙いのかもしれん。……酒の飲み過ぎだ! 注意したのに……。でも酒を送ったのは俺だよな。また溜息が出た。
「御屋形様?」
雪乃が不安そうな表情で俺を見ていた。いかんな、妊婦なんだから気を付けないと。下野守、重蔵、与右衛門も不安そうな表情を見せている。大将失格だわ、俺。
「雪乃、大宮司殿に俺が大変有り難いと礼を言っていたと伝えてくれ。俺も文を送るがそなたからも必ずな、頼むぞ」
「はい、あの」
物問いた気な表情だ。仕方ないな、でも出来るだけソフトに行こう。
「関東管領殿の御具合が良くないらしい、大した事が無ければ良いのだが」
ざわめきが起きた、無視。
「そなたは何も心配する事は無い。生まれてくる子の事だけを考えよ。男子だと良いな、だが女子でも良いぞ」
「はい」
優しく諭して雪乃を暦の間から下がらせた。
「御屋形様」
下野守が押し殺したような声で訊ねて来た。
「中風だそうだ。予断許さずと書いてある」
シンとした。
「……間違いは有りませぬので?」
「下野守、氣比神宮は越前を中心として越中、越後、佐渡にも社領を所持している。おそらく間違いは有るまい」
「念のため裏を取りまする。小兵衛に命じましょう」
「頼む」
重蔵が立ち上がり部屋を出て行った。
関東管領上杉輝虎が倒れたか。予断許さずと有ったが多分駄目だろうな。妙なものだ、この世界ではついに謙信とは名乗らずじまいだった。それに史実よりも少し早い様な気がする。信長と同年齢で死んだと記憶に有るから四十九歳で死んだ筈だ。二、三年早い。俺の所為かな、俺が酒を送らなければ……。意味が無いな。
心を切り替えよう、この事が天下にどう影響を与えるか、朽木にどう影響を与えるか、それが問題だ。この世界では北条からの養子、上杉景虎は居ない。だから御館の乱は起きない。だが景勝が養子にもなっていない。後継者が居ないのだ。必ず上杉家は混乱する。この混乱が何を引き起こすか……。
先ず考えなければならんのは北陸だ。越中の神保が動くかもしれん。場合によっては椎名も揺らぐだろう。能登、加賀、越前に警告を発しなければならん。当分そちらから兵は出せんな。それと飛騨、……信長がこの状況を如何見るか。場合によっては織田軍の飛騨侵攻という事も有り得るだろう。その時は如何する? 上杉に味方するか、織田に付くか、それとも中立を保つか……。
これまで盤石だった東部戦線がいきなりキナ臭くなってきた。この状況で西国攻め、出来るかな? 義昭、安芸に落ちた顕如、このままでは済まさない筈だ。必ずこの状況を利用しようとする。そして松永、内藤、三好、畠山……。頭痛いわ、こっちの方がストレスで血管キレそうだ。