第80話 「いきなり訛ってんじゃねえですだよ」
ヨレた黒Tシャツの上にチェックシャツを羽織り、半端に伸びた髪が鬱陶しい。
見た目の印象は、九十年代初期型の標準的なオタク、といったところだ。
アイドルをストーキングする人物像として、あまりにピッタリすぎて逆に容疑者から外したくなる。
とはいえ、血走った眼でコチラに近付いてくる時点で、スルーしたくともできないのだが。
「ぅおぃっ! お前ぇっ!」
腹の底から出そうとしているが、慣れてないせいで一部引っくり返った怒声。
五メートルほどの距離を置いて立ち止まった男が、左手で俺を指差してきた。
ブカブカなジーンズのポケットに突っ込まれて強張っている、毛深い右手に意識を留めながら俺は半笑いで応じる。
「おまふぇって何だ。グリコのか?」
「うっ、うるせぇんっ! だっから、お前ぇっ!」
「そんなデケェ声を出さんでも聴こえる。だから、何の用だってんだ」
「お前なぁ、『くまたま』とっ、どういう関係だっ!?」
くまたまってのがわからなかったが、佐久真珠萌の真ん中を抜き出した愛称なのだろう、と見当をつけた。
しかし、本人の前には姿を見せないのに関係者の前には平然と出てくる、コイツのぶっ壊れたバランス感覚は中々にヤバい。
ここで何と返事するべきか、脳をフル回転させてベストアンサーを探る。
彼氏を自称して煽る――冷静さを失わせるには最高だろうが毒性が強すぎる。
無関係の住民を装う――部屋への出入りを確認されていたら話が拗れそうだ。
後任の管理人のフリ――相手がこのマンションを常時監視していたら即バレ。
友人の弟だと正直に――言ってやるメリットはないというかデメリットのみ。
となると、事務所の関係者を演じて、逆に詰問してやるのが効果的だろうか。
年齢的にちょい厳しいが、今の恰好なら童顔の若手みたいな感じでイケるな。
態度をチンピラ仕様に切り替え、粘度の高い視線を絡めながら低い声で訊く。
「どういうも何も、そっちこそウチの佐久真と、どういう関係なんだ?」
「えっ、ウチのって……俺は、その……」
「あぁ!? どの? おい、質問に答えろ。アンタはどこのドチラさんで、ウチのタレントに何の用だよ」
「うっ、きっ――訊いてんのは、コッチだろがっ!」
「馬鹿か。見ず知らずの野郎に答える義理ねぇだろ。それより、佐久真にイヤガラセしてんの、アンタなんだな? そうだろ?」
この論法だと俺の質問にも答える義理はないが、オタクは明らかに怯む。
何となく想像はついていたが、あまり荒事に慣れていないようだ。
動揺に乗じてもっと情報を引き出すべく、勢い任せにゴリゴリ詰めていく。
「どういうつもりだ、あぁ!? ファンだからって許される範囲、とっくの昔に越えてんだよ、おいっ! 一人でやってんのか? 楽しんでんのか? クズがよぉ」
「うぅう、うるっせぇ! ゴチャゴチャとぉ、うぅるさいんだよっほぅ!」
「よっほぅじゃねえよ。ノリノリか。わかってんだろうけど、アンタのやったことは単なる犯罪だ。警察にも相談してるし、証拠も渡してある。もう逮捕待ったナシだ」
「だっ、だぁらっ! 関係ねっ、つってんだろぉ!」
唾を飛ばしまくって、反論になってない反論を喚き散らすオタク。
剣呑な雰囲気を察したのか、近隣の家からチラホラとコチラを窺う気配がある。
相手への脅しには使ったが、この時代の警察はストーカー事案では役立たずだ。
通報されると事態がややこしくなる危険もあるので、ここは早めに片付けるか。
「週刊誌やワイドショーも、逮捕されたアンタの変態っぷりを実名で報じてくれるぞ。つきまとい、イタズラ電話、ゴミ泥棒、落書き、盗撮、盗聴――」
「盗撮? 盗聴!? んなこと、やってねっっての!」
「じゃあ、他は全部やってるんだな?」
「そそっ、そういう話してねぇだよっ!」
「いきなり訛ってんじゃねえですだよ。もういいから、とりあえず免許よこせ。なけりゃパスポートでもいいが」
一歩、二歩と、ゆっくり距離を詰めながら相手に通告する。
オタクは目が泳いでいて、前に出るか後に退くかを迷っているようだ。
どちらにしても対処は余裕なので、もう詰んでいるワケだが。
ポケットの中身が手榴弾だったりすると拙いが、そこまで覚悟がガン決まっているとも思えない。
「フィッ――」
もう一歩前に出ると、口笛の出来損ないみたいな音が鳴った。
落ち着きなくフラついていたオタクが、ピタッと動きを止めて俺を見据える。
「すらぁああああああああああっ!」
半端な長さの髪を振り乱し、奇声を発しながらドタドタ突っ込んできた。
ポケットから出した右手に握られているのは、黒っぽくて角ばった何か。
気合の声に混ざって「パタタタタタッ」と強めの雨音みたいなものが聴こえる。
なるほど、コイツの隠してた最終兵器はスタンガンだったか。
「どうせなら、もっと面白ウェポン持ってこい」
小声で呟きながら、手に提げたままのゴミ袋をブン投げる。
狙い違わず、相手の足元で「ゴドッ」と鈍い音が。
「のっ、ちゃ――ぁんっ!」
重たい袋は対象の右脛を払った後、左足に見事に絡まった。
崩れた体勢を元に戻せず、つんのめったオタクはそのまま地面に衝突。
潰したと同時にオタクに取り付いた俺は、右手首を掴んで背中に回して固める。
そして一息に、関節の可動域を盛大にオーバーする形で捻り上げた。
「ふぉごっ!? へぁあああああああああっ――おん、おんっ、おぉおんっ!」
オホ声っぽいものを無視しながら、右腕の関節や腱が「ブキョッ」とか「ゴムリッ」とかの音を立てて破壊されていく感触を確かめる。
そして、捻った右手から零れたスタンガンを回収。
軽いのはいいが、随分とチャチいな――ちゃんと使えるのか。
オタクの背中を剥き出しにして、抉るように当ててスイッチを入れた。
「はぁあああぁいっ! あいっ、あいっ、あいっ、あぁいっ!」
「さっきからシャウトが独特すぎるっての」
うるさくてムカついてきたので、通電は数秒で終わらせた。
見た目のショボさに反して、それなりの威力は有しているようだ。
威力なら『御護屋』で買ったヤツの方が上だろうが、これも地味に役立つかもしれない。
そんなことを考えつつ、相手の尻ポケットから財布を抜き出す。
スタンガンと財布を没収した後、俯せでプルプルしているオタクを仰向けに引っくり返し、気付けのビンタを入れていく。
「おい、グッスリ寝てんじゃねえ。お前には訊きたいことが――」
三発入れても起きないんで、威力五割増しくらいのをブチ込むべく振り被ると、キュルルルッと甲高い音が響く。
反射的にそちらを見れば、急加速したハイゼットがコチラに突っ込んでくる様子が視界に入った。
このまま動かなければ、五秒後には轢き逃げアタックの餌食だ。
「――そぉい!」
牽制のため、動かないオタクの両脇に腕を差し込んで一緒に立ち上がり、フロントスープレックスの要領でブン投げた。
「んぎぃんんっ!」
受け身を取らず、腰からダイナミックに落ちたオタクが、くぐもった悲鳴を吐く。
道の真ん中に転がり出た小太りボディを躱そうと、バンは急ブレーキをかけながらハンドルを右に切る。
判断は悪くないが、残念ながら僅かに手遅れだ。
左の後輪は無慈悲に、太い両足を順番に踏み潰した。
「むぁいっ! あひょぉう!?」
バッと身を起こして二度の短い悲鳴を発すると、またすぐ引っくり返った。
まぁまぁ重大なインシデントが進行する中、停車したバンのスライドドアが開いて、背広姿の男が姿を現す。
そいつは慌ただしく気絶したオタクを回収しようとするが、当然ながら見守りサービスは実施していない。
「待てってんだコルァ!」
怒鳴って威嚇しながら、八十キロ近くありそうな小デブの運搬に苦戦している背広男に迫る。
その途中、「ギギッ」と何かが軋んでいる気配が。
知覚と同時に脳内に警報が鳴り、半ば無意識に身を屈める。
半瞬後に毛先を何かが掠め、数瞬後に背後から乾いた音が弾けた。
何が飛んできたのかは気になるが、優先順位的に後回しだ。
「クッ――ソァアッ!」
飛来物を回避したタイムロスで、オタクを車内に引き込まれてしまった。
逃げられるよりマシ、と判断して前蹴りを放ちながら突入しようとするが、猛然と閉まるドアに阻まれる。
「ふがっ――」
体重を乗せて鉄を蹴った反動でよろけ、膝によからぬ痛みが走る。
そのせいで次の行動に出るのが遅れた俺を嘲笑うように、またもキュルキュルとスキール音を響かせ、スモークで内部の見えないバンは猛然と走り去った。