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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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76話『道場の居候』


 六天流道場は市中だが畑に囲まれた長閑な土地にぽつりと建っている。

 そこに住む農家の者も、


「辺鄙な場所に立てたものだなあ」


 と、呆れるように唐突に、茶屋も何も無いところにあった。

 この頃の江戸は雨後の竹の子の如く、町に剣術道場が作られている。日本各地よりやってきた流派の門弟が人口の多い江戸で広めようとしたり、浪人になった武士がせめて剣で稼ごうとしたりと理由は様々だ。浪人も、江戸に入って初期の改易最盛期は終わったもののまだまだ多く、全国で数十万人の元武士がいると言われている。

 今は武士だけでなく農民も行うようになってきている剣術だが、晃之介の道場は相も変わらずの閑古鳥で門下生は子供が二人だけである。月に一両の報酬で柳河藩の出稽古に出たり、害獣の駆除をして地元の農民から野菜を分けてもらったりしながら暮らしていた。

 その日の夕方、九郎は頼み事があって背嚢に詰めた荷物を背負って道場を訪れるのであった。


「晃之介。居るか」


 九郎が道場の入り口をくぐると、すぐに彼の姿が道場内で見つかった。

 録山晃之介は逆さまだった。道場の床で片手で逆立ちをしていて、更に腕を屈伸させる訓練をしている。

 彼は汗を掻いている顔を向けて九郎の方を向きながら、フリーな片手で器用に挨拶をしてきた。


「九郎か。すまんな、見ての通り鍛錬中だった」

「漫画でしか見ないような腕立てだなそれ……」

「うわ、すげえ筋肉だな兄ちゃんよ」

「ん?」


 逆さまの視界で、九郎が小脇に抱えている少女を見て晃之介は両腕を床に付き、腕の力で飛び跳ねるようにして逆立ちを止めて二足で立つ。

 九郎が何故か荷物の一部のように持ち込んできたのは、結った髪の毛が少し尖って見えて形の良い額が特徴的な強気の顔立ちをした少女──晃之介の弟子であるお八に見えた。


「今日は練習日だったか? お八」


 晃之介がそう云うと、彼女を掴んだままの九郎が手を振る。


「ああいや、こやつは違うのだ。他人の空似の無宿人でな、名をお七と云う」

「うぃーっす。第七の刺客ことお七ちゃんでぇっす」

「お七? ふむ……?」


 九郎が小脇に抱えた手を離すと、拗ねた猫のようにぺたりと床に座り込んで晃之介を見上げながら自己紹介をする。

 じろじろと疚しいところの無い確認の目付きで、だらしない服装のお七を晃之介は見て首を傾げた。


「胸は同じぐらいだが」

「なあ九郎の兄ちゃん。なんかすげー失礼何だけどこの人」

「晃之介は貧乳の人権を認めておらぬから」

「……」

「やめろ。そんな目で俺を見るな。ちょっと比較しただけだろ」


 気まずそうに晃之介は苦笑いで肩を竦めた。


「それでどうしたんだ九郎。そのお七とやらを連れて……荷物まで持ってきているな」

「うむ、実はな……ちょっと頼みがあるのだが。このお七……シチ子を居候させてやってくれぬか」

「別にあたしゃどうでもいいんだけどよー」


 三白眼で九郎を睨みながらお七はあまり洗ってないバサバサの髪を掻く。

 ひとまず晃之介も話を聞く為に二人を道場に上げて、中央あたりに座らせて茶を持ってきた。


「そこら辺の川べりに生えていた割と食えなくもない草で作った茶だ。飲んでくれ」

「一つ足りとも美味そうな要素が聞こえぬな……」


 少しばかり黒色が混じった温かな湯を飲む。味はまあ、好意的に表現すれば健康に良さそうではあった。

 お七は露骨に顔をしかめて舌を出して「あああうううう」と呻き悶える。

 九郎が話を始めた。


「このシチ子という娘は家出娘のようなものでな。しかし碌に働き方も知らぬから盗みなんぞをして生活費を稼いだり路上や廃屋で寝泊まりしたりしている。知らん奴ならまだしも、どうも知り合いとなると見過ごすのもなんだろう」

「それで俺の家に居候か。ある程度家の手伝いをしてくれれば別に構わんが……なんで一人暮らしで貧乏道場な俺のところに?」


 晃之介は子供一人位ならば食費が出せる金はあるし、九郎の頼みならば受けても良いとは思うものの疑問を口にした。

 九郎は怠そうな目付きで横にいるお七を見ながら、


「まず手癖が悪いからな、こやつは。六科の店だとそもそも己れが居候な立場だから連れ込むわけにもいくまい。他の店での、売上を持ち逃げでもされたら困る。石燕の家ではその……なんか悪いだろう」

「ああ。情婦おんなの家に別の情婦を囲わせる形になるからか」

「その関係は断じて違う──が、そう云う風に見る輩が居ないとも限らない可能性が低くも無きにしもあらず」

「いやわかってるからそんなに必死に否定しなくても」


 からかったが、悪かったかと晃之介は内心反省しながら茶を啜った。

 

「それで、信用はあるし盗むようなものも置いておらず、いざとなればシチ子を取り押さえれる晃之介に頼もうかとな」

「置いてないって言っても刀とか弓とかあるんだが……まあ、六天流収納術で仕舞っているから素人には取り出せないからいいか」


 二人してお七の方を向くと、九郎の隣に座っていた彼女の姿は忽然と消えていた。

 続けて視線を反対側へ向ける。道場の隅にある押入れ棚に彼女は手を掛けている。

 顔だけ男二人に振り向いて堂々と宣言した。


「このお七ちゃんの手癖に悪さを甘く見ちゃ駄目だぜ! まずはちょっと確認──」


 そう言って、上がり込んだばかりの晃之介の道場を物色しようと押し入れを開けたのだが。

 押し入れを勢い良くあけると同時に、お七は雪崩のように膝蹴りを全身に浴びた。


「ぐえーぜー!」

 

 押し入れから大量の膝が降り注いだのである。

 晃之介が柳河藩の出稽古に行った際にグロス単位で貰った立花宗茂の膝を模した木工製品[膝茂君]であった。高級品は陶器製で量産品は木工にマイナーチェンジしている。

 膝の山に押しつぶされたお七を見ながら九郎は云う。


「……前に道場が潰れた時に一斉処分したかと思ったらまた貰ってきたのか」

「仕方ないだろ。ただなんだから」


 晃之介が立ち上がって膝の山から手を出しているお七に近づく。

 適当に手を突っ込んで猫のように襟首の服を掴んで引っ張り出した。


「お七。探すのは勝手だが荒らされるのも面倒だから教えておくぞ」

「ううう、なんだぜ……」


 晃之介は道場の上座に置かれた大きな箱の前に彼女を持って行く。

 それは鍵も掛かっていなければ継ぎ目も見えない、長方形の木箱であった。


「これは仕掛け木箱でな。この中に高値の武器やいざというときの小判を入れている。ただ、開け方を知らなければ開かん。やってみろ」

「ん? んん~……ぬっ、の!」


 お七が突っついたり回り込んで見たり、上蓋を持ち上げようとしたり手触りで継ぎ目を探したりしているが箱は開かない。

 笑いながら晃之介は四苦八苦しているお七の後ろで腕を組んで見下ろしている。


「開けられたら中身は好きに持って行って質屋に売るといい。小刀でもひとつ四十両ぐらいはするだろう」

「やる気出てきたぜ……! ふんぬっ、このっ!」


 ついには胸元から匕首を取り出して突き立てようとさえするが、硬い木箱には刃先が一寸も突き刺さらない。

 蹴っ飛ばしたり、箱ごと持ち上げようとしてもびくともしなかった。

 晃之介は、踏ん張ったもののちっとも持てないお七に軽く笑った。お七も同年代の少女から比べれば大層に力はあるのだが。


「んだよ、こんなん持てるか!」

「これでも一応持ち運べるように作ってある。ほら、背負子が付いているだろう」


 晃之介は台座のようなところを指さして云う。ぶすっとした顔でお七が見ているので、


「よっ」


 と、声を掛けて神輿めいた重さの木箱を背負ってみせた。お七は目を丸くする。


「ほら、九郎」

「おお。中々重たいのう」


 次にそれを九郎に手渡すと、九郎は背負わずに両手でひょいと持ち上げている。お七の半開きだった顎が更に落ちた。

 九郎が一人で慎重に木箱を上座に戻すのをお七は見ながら、


「そういえばこの兄ちゃん、俵を何個も担いでやがったな……」

「いや、まあ己れはともかく晃之介がヤバイ腕力だと思うがな、この木箱の重さ」


 術符で補助している九郎は若干バツの悪さを覚えながらそう云う。

 晃之介はお七をまた襟首を掴んで持って木箱の上に座らせ、視線の高さを合わせて言った。


「六天流の武術を学べばこの箱の開け方もそのうち教えてやろう。力も付いて生きていくには便利だぞ。うちで暮らすなら、家事ぐらいはしてもらうが稽古も受けてみたらどうだ?」

「あー、うーん……どうすっかな」


 悩むお七に、九郎は煽るように云う。


「ハチ子は平気な顔で稽古をこなしてるが、シチ子には無理か」


 すると彼女はなんだかんだでやはり意識しているのだろう。すぐに否定の言葉を出した。

 以前にお八が歩いているのを興味本位で尾行して、ここで鍛錬をしているのは見たことはあるがそれが自分にできないとは思えない。


「いや、そんなことは無いと思うぜ。あのお嬢ちゃんができることをあたし様が不可能なわけがねえ。よし、上等だ。サクッと旦那を追い越して免許皆伝で高い武器貰うから覚悟するんだぜ!」

「ふっ。免許皆伝とは大きく出たな」


 晃之介は陽気に微笑んだ。

 一安心とばかりに九郎は胸をなでおろし、


「と、言うことでこれから……まあ、そうだな。シチ子が旅に出るとか嫁に行くか……暫くは任せるぞ、晃之介」

「わかった。まあ、悪事は働かない程度に大人になるまでは面倒を見よう」

「シチ子。お主も、金を使って木賃宿を転々としたり野宿したりするよりここで寝起きしたほうが楽だからな。お主ときたら放っておいたら体を売るフリをして強盗しかねん」


 九郎の心配に、お七は舌を出して猫を被った笑みを浮かべた。


「……てへっ」

「既に実行済みかよ……」

「いやだって、相手もあたしのことを色子(男娼)だと思う失礼な奴だったんだぜ。あ、利悟のオッサンじゃないからな一応」


 確かにお七の格好は着流しを短く切って足を出しているので少女の着る服ではないが。

 晃之介が九郎の荷物を指さして、


「それでその荷物はなんだ?」

「うむ。丸投げするのも気が引けてな。一応、シチ子を預けるので二、三日己れも監督で泊まり込もうと思って。食材やら酒やら持ってきた」

   

 酒と野菜と米に酒。あと酒の肴と酒を取り出し並べて見せた。酒の比率が多いのは、晃之介の家に無さそうなものを優先した為だ。

 嬉しそうにしながら晃之介は、


「助かる。そうだ、味噌漬けの肉も出そう」 

「そろそろ夕餉の時間じゃね? 宴会しよーぜ宴会! あれだ! 居候すんだから歓迎会?」

「居候する側が開かせるものでもない気はするが……まあ、久しぶりに酒でも酌み交わすかのう」


 そう言ってそれぞれ準備にかかるのであった。

 晃之介が納屋に保管してある保存肉を切り分けに出たので、九郎とお七が竈で持ってきた材料を使い酒の肴を用意する。

 竈に炎熱符を放り込んで火力を調節しているとお七は茄子の皮を匕首で丁寧に剥いていた。


「その茄子どうするのだ?」

「焼き茄子が旨いだろ。で、焼くと皮が無駄になるから予め取っておくんだぜ。きんぴらにすれば食えるからよ」

「うーむこの不良娘はどういうところでそれを学ぶのだろうか」

「江戸に来る前は謎の隠れ里で暮らしてたんだ。飯炊きの一つぐらいできるっつーの」

 

 するすると剥いた茄子を三つ、網に乗せて火にかける。じゅうじゅうと水分が沸騰する音がして茄子が軽くぱちぱちと焦げ、その匂いもまた良い。

 鍋に薄く醤油と酒を張って茄子の皮と、更に大根の皮も入れて火を掛け絡める。

 九郎は店から持ってきた六科に作らせた蕎麦がきを沸騰させた湯に入れて火を通した。これを箸でちぎって生醤油を掛け回して食うのも、また酒に合うのである。

 道場に持っていくと晃之介が土鍋に火鉢を準備していた。


「肉の塩抜きをするのも面倒だから鍋にしてしまおう」

「してしまおう」

「してしまおう」


 異口同音に九郎とお七は同意する。

 角切りにした猪肉の味噌漬けを湯を張った鍋に大根、白葱、山菜と一緒に煮込む。出汁を張らなくても牡丹肉と味噌の旨味が十分に出て良い匂いが立ち込めてきた。 

 見た目はたっぷりとメインで入れた大根の千切りで驚くほど白いが、それらも煮こむとしんなりとして味噌の色に染まりだす。

 三人それぞれの前に焼き茄子ときんぴら、湯に入れたままの蕎麦がきも置いて茶碗に入れた酒を掲げた。


「それじゃ乾杯だ」

「おう。ぷはー! 酒飲むの久しぶりだぜ!」

「飲み過ぎるでないぞ」


 一応注意はするが、九郎の眼は優しげだ。酒飲みには結構寛容になる男である。

 お七が早速味噌鍋に箸を突っ込んで取り皿に肉と野菜を入れる。

 噛みしめるとじゅわりと猪の歯ごたえがある脂に、染み込んだ味噌の風味が感じられる。表面はさくりと、齧るとこきこきとした食感がして臭みも抜けていた。また、大根も瑞々しさと浮いた脂を吸った旨味が合わさっている。合間合間の苦味のある山菜が嬉しい。

 口の中に残る不思議とぬるりとしない猪の脂を、酒でぐいと流し込めば何倍も美味に感じられてお七は素直に笑顔になるのであった。


「うまー」

「こっちのきんぴらも中々だぞ」


 しょっぱ目に味付けされた、つるつるとしてぷちりと切れる噛み心地が良いきんぴらを食って、九郎も酒を飲む。さっとお七が作った一品だが十分に肴になる。

 晃之介は箸を、皮を剥いた形で丸焼きにした茄子に突き入れて割く。表面の一部がわずかに焦げているが、中はたっぷりの水気がある。それに生醤油を掛け回してびたびたにし、食うと熱々の火傷しそうな中身に醤油が温められて、口の中に押しつぶされた果肉の甘みと醤油の塩辛さが合わさり渾然となる。


「やっぱり旬のものは旨いな」

「そうだろう。しかしこう秋の味覚で猪を食っていると丹波篠山にでも来た気分だな」

「ああ、俺も行ったことがある。猪狩りまくり祭りで親父が絶滅寸前まで仕留めたのを捌くのが俺の役目でな。取り過ぎて二度と来るなと言われた」

「やり過ぎだぜ……んー酒うめえ。お代わりお代わり」

「シチ子や、己れも注いでくれ」

「おう。兄ちゃんも旦那もじゃんじゃん飲みな」


 と、酒盃を重ねていくのであった。

 九郎と晃之介は前から気が置けない仲であったのだが、それに不良娘のお七を挟んでもまったく問題なく彼女も馴染んで会話に参加した。

 素行こそ悪いが九郎がどうも放置できずに気を揉むあたり、お七も愚かではなく気はよい娘なのだ。

 酒もそれほど上等ではなかったが味は強いものだった。一杯ごとに時間がゆるりと流れるようないい酒だ。

 退屈も無く互いに馬鹿話などもして、お七は酒の影響で涙を浮かべるほど笑っていた。

 そんな会話の中で遣り取りがあった。


「九郎もあと十年修行すれば六天流を継げるかもしれんぞ。どうだ?」

「十年もしたら己れは百を超えておるだろ。そう云うのは八十年前ぐらいに誘ってくれ」

「それは俺の親父も生きていないな……」

「どんだけだよ九郎の兄ちゃんよ」

「二、三日泊まるなら明日ぐらいは鍛錬を受けてみたらどうだ? 一回ぐらいやってみろ」

「仕方ないのう……」

「よし、じゃあ朝練からだな。朝になったら起こすから、お七はその間朝飯でも作っておいてくれ。最初だからまだ参加しなくていいぞ」

「ういー。そうだ、味噌粥にしようぜ味噌粥。鍋あるんだし」


 などと言って飲み会は進み。

 夜は冷えるようになったが、九郎が術符暖房を使ったので凍えることもなく道場に敷布団と掛け布団を並べて三人ごろ寝するのであった。

 



 *****




 翌朝。

 明け六ツの少し前に薄く目を開き、まどろみを振りきってそのまま起きたのは晃之介である。

 すっと立ち上がり背中と肩の筋を伸ばして、隣に並び眠っている二人に声を掛けた。


「起きろ。朝だぞ」

「……」

「がー」


 呼びかけても目覚めてこない二人の襟首を掴んで持ち上げ、井戸に連れて行く。

 釣瓶を放り投げて水を掬い、桶に入れて顔を洗う。持って来られて朝の冷たい風に晒された二人はようやく怠そうに目を覚まし始めていた。


「ほら、顔を洗え。二度寝するなら朝飯を食った後にしろ」

「うむ……」

「おーだぜ……」


 水音を立てて二人も顔を洗い、口を濯いだ。


「それじゃあ九郎は俺と走りこみ。お七は朝飯の準備を頼む」

「意識ははっきりしておるぞ。意識は」

「誰に言い訳してるんだ。行くぞ」


 晃之介は九郎を引っ張って裏手の、直線の道が手頃に続く場所へと連れてきた。

 彼が整備をしているためにこの土の道には小石一つ落ちていない為、裸足でも走れる。弟子二人も走らせて時々後ろから弓矢を打ち込んだりする鍛錬に使っている。

 

「寝込みを襲われた時に対応や脱出するためにも寝起きにはすぐ動けるようにしておかないとな」

「うーむ」

「あそこの木まで往復十回。流さずに全力でだ」

「……」


 九郎は重い後悔をしていた。割と朝は意識がはっきりする方なので、少しばかり朝練に付き合うぐらい良いかと昨晩軽く返事をしたのだが。

 早起きできるのと体を動かせるのは別の問題であることが判明したのである。九郎のは加齢からくる頻尿や脳の老化や無呼吸症候群からくる浅い眠りととかそんな理由で早起きできるだけで、若者のように元気に運動ができるわけではなかった。

 爽やかな二十代の若者は既に寝起きからコンディションを完全に整えたらしく、前方を向いて云う。


「行くぞ!」

「おう……」


 駈け出した晃之介についていく。目標の木までは三十間(55メートル)程だろうか。ひとまずもつれそうな足を踏みしめて木まではついていった。

 辿り着くとすぐに振り向いて再び走る晃之介。短距離なものだから飛脚より早いだろう。九郎はうめき声を上げた。

 六天流は様々な間合いの武器を使う為に足の早さでそれを調節することを重視している。また、多数の武器を持つということで複数人数相手との戦闘も想定しているのでその際にも相手を各個撃破する移動技術が必要だ。その基本的な訓練は走るしか無いのである。

 一往復目をクリアした九郎は全身に感じる倦怠感に閉口した。

 彼は体の小ささに対して強い力と若返ったのにプラスしての術符による体力回復速度で、そうそう疲れることも無いのだが寝起きに走らされてはたまらない気分になったのだ。

 故にどうしたかと云うと、


「……九郎! さっきからやけに一定の疾さでついてくると思ったら───飛ぶな! どうやって飛んでるか知らんが飛ぶな!」

「許せ……」


 疫病風装で飛行して晃之介の隣をスライド移動しながら、残り九往復をサボりこなす九郎であった。

 晃之介ばかり汗を掻いて道場に二人で戻った後、今だに気怠さから目覚めない九郎と対峙して、


「次は乱取りだな。いつもは俺一人だから素振りなんだが、親父と居る時はよくやったものだ」

「そうかえ」

「……真面目にやれよ?」


 言って、晃之介が自然体な二刀流で短い木剣を構えたような構えてないような九郎へ向かっていった。

 攻撃と防御に振り分けるのではなく、左右から二刀の攻撃が隙のない剣閃で挑まれる。

 九郎はだらりとしたまま、


「すまぬ……むにゃむにゃ」

「またこれか!」


 疫病風装の自動回避で風に揺れる柳のように晃之介の攻撃をするすると避け、抜けていく。

 風圧を伴う一撃は衣が感知して体を動かし回避する。その避ける早さはむしろ相手の攻撃の強さに比例して精度を上げる。百万倍に強化された狂戦士などは一挙一動が暴風のようになっているので掠りもしなかった。


「いくぞ──!」

「ぬうっ!? さすがにちょっと怖いぞ」


 二刀を振り下ろし間髪をいれず回し蹴りを放つ。

 避けられると想定して持っていた二刀を逆手に持ち替え裏拳で殴り飛ばす軌道で更に九郎へ向けて振るい、手応えが無いと確認をする前に再び順手に持ち直し唐竹と袈裟の縦横から切り裂く攻撃だ。

 振りぬかぬ前に静止させて左剣を突き、右剣を振り上げの攻撃に変更。

 同時に左剣を六天流[捨快すてきゃん]で手放し一瞬で相対する九郎の横へ踏み込んで背後を取る。 

 突きを放ったまま武器から手放した剣を自ら受け止めて九郎の背後から更に連続攻撃を仕掛け左右の剣がシームレスに打ち込まれる。

 九郎は自分でもそれらの攻撃を把握できていなかったがぬるぬると動いて勝手に避けた。まさに雲を掴むが如しだ。


「こうなれば六天流裏奥義──! 『六道輪廻』──!」


「おーい二人共。朝飯できたぜー。いつまでどったんばったんしてんだ」

「落ち着け晃之介! 道場をまた壊す気か!」

「……はっ」


 お七の声と強烈なパワーの高まりを感じた九郎に止められて、晃之介は乱取りの稽古を止めるのであった。

 朝飯は昨日の鍋を使った味噌粥だ。くつくつに味噌色の米が煮込まれていて、また大根が菜っ葉ごと刻んで歯ごたえを出している。 

 それに三人分卵が落とされていて半熟に熱されていた。

 お玉でそれぞれ湯気がむっと出ている鍋から椀に移して、九郎とお七は卵を破いて混ぜて食い、晃之介は形のままつるりと飲み込んだ。粥は舌を火傷せんばかりに熱いが、中に米のぶぎぶぎした食感が残っていてそれが味わいになっている。茶色の粥に大根の白と緑が映えて良い。

 晃之介が熱い粥を飲み込んで云う。


「なんというか……九郎は鍛錬に身が入らない気質だな」

「だから言っただろう……遊ぶにはいいが、鍛えるとなると非常に面倒な気分になってしまうのだ」

「ふう。まあ、今更だからな。お前にはお前の戦い方が既にあるから付け焼き刃になるかもしれん。もう無理は言わないさ」


 少しだけ残念そうに晃之介はそう言って、お七が作った大根湯が入った湯のみを啜った。擦った大根と生姜を湯で解いた簡単なものだが、胃に良く落ち着く味をしている。

 自分はまだ若いとはいえ、六天流の技を免許皆伝まで受け継げる者が現れるかわからぬのは彼にとっても将来の悩みになりそうだと云う意識はあった。江戸に来て独り立ちし、様々な武芸者と関わりを持ったが中々に六つの武芸を収めようと云う気概のある者は少ない。多くを学ぶより一つを極めるという考えも間違ってはいないのだが。

 弟子にしてもまだまだあの二人では心許ない。どちらも切り紙ぐらいはそのうち与えられるだろうが、自分並みに強くなれるかと想像すると未知数ではあった。


「どうにでもなれと思うしか無いか。飯が終わったらお七に例の度胸付けの初期訓練をやろう」

「おお。別にいーぜー」

「米粒が付いておるぞ」

「非常食だぜ」


 いいながらも九郎が手を伸ばして口元の米粒を取るのには抵抗しないお七である。

 晃之介は腕を組みながら、


「何というか……九郎が他の少女に対する感じは子供相手のようなのに、お七は駄目な妹みたいな扱いだな」

「……方向性は違うがこんな感じの手のかかる身内がおったからかのう」

「お七ちゃんみたいな可愛い子が多けりゃ世間はゴキゲンになるっつーの」


 彼女はそう言って粥を一気に啜り込んだ。「あちっ」と声を出したので、冷えた水を九郎は溜め息混じりに差し出した。




 *****




 六天流武術。

 この時代錯誤とも言える総合武芸の基本は、『有利に立ち回ること』にある。

 相手より有利な間合いで戦い、或いは相手が不利な間合いに踏み込む。

 息をつかせぬ連続攻撃や、武器を破壊してからの追撃などもあるがそれらも要は有利になるための技である。

 有利さを保つには、足捌きともう一つ。眼力が必要だ。

 見て判断する力である。

 人体が生きているからこそ弱点があるように、相手も武器を構えているからこそ必然的に弱点は存在する。それを見極めるには常に目を見開いておくことが肝要だ。

 恐れて目を閉じてはいけない。矢が顔に飛来しようが着弾点さえ見ておけば一寸動くだけで避けられる。晃之介は恐れぬ観察の力を試すために父親から冬眠から目覚めた羆の前に立たされたこともある。 

 六天流では故に、最初に眼前へ寸止めかつ全力の攻撃を目視して恐れへの予防を行う鍛錬がある。できるようになるまで何度でも、柱に縛り付けられて時には薄皮一枚切られる攻撃を延々と受け続ける。

 晃之介の道場に入門した者はたいていそこで辞めて二度と来なくなるのであった。

 

 この日、お七にそれを行ったのだが。


「──大したものだな」

「へっ! このお七ちゃんを甘く見ちゃあいけないぜ!」


 晃之介は木に縛られたまま顔の左右に矢が突き立って、眉間に刃がわずかに触れている状況でも減らず口を叩き、三白眼で睨み続けているお七を褒めた。

 技をひと通り掠らせて、それでも平気そうだったのでより真剣に殺意を込めた連撃で度胸を試したのだが、意識ははっきりとしたまま攻撃を見続けていたのである。

 そしてやや離れた場所で寝そべりながら茶とたくあんを勝手に食っていた九郎に、


「……水桶と手ぬぐいを持ってきてやれ」

「うむ」


 九郎が途中から用意したそれらを持ってきて、彼女の足元に置き、縄を解いてやった。


「これは魂の汗だからな! こんちくしょう!」


 とりあえず九郎と晃之介は見なかったことにしてやって道場へ戻るのであった。


 それから暫く道場の中で素振りの型を教えていると、やがて稽古にお八が訪れた。

 彼女は入るなり晃之介から教えを受けているお七を指さして、


「あー!! 師匠! そいつ違う! 偽物だぜ! 騙されるな!」

「落ち着け」


 道場の隅で寝そべって板海苔と冷酒を飲んでいた九郎がお八を宥める。

 お八は九郎へ向き直って問う。


「なんでここにあいつが!」

「己れが頼んで晃之介のところの居候にしたのだ。ほれ、お主もあのそっくりシチ子があちこちで悪さをしただので、濡れ衣を被せられたら困るだろう」

「そりゃあそうだけどさあ……」


 不満そうにしながらお八は一瞬叫んだ彼女を気にしたものの、また鍛錬に戻った二人を見る。

 そもそも自分とそっくりなお七のことを嫌っているというか、困惑しているので苦手に思っているのだ。自分と同じ顔で好き勝手に生きて不良しているのだから自分事ではないとはいえ気に障る。おまけに九郎を特に意味もなく刺殺しかけるような危険人物だ。何を考えているかわかったものではない。

 お七の動きは六天流でこそ無いが、生まれ育った隠れ里で学んだ体術を使いこなせており悪くはない。身軽さならばお八よりも上だろう。格闘術で身長の高い晃之介相手に飛び上がって蹴りを入れようとしたり、防御の払う腕を足場に跳躍したりして三次元的に動いている。

 が、それを見てお八は愕然とした表情で持ってきた道着の替えとおやつを入れた風呂敷を落とした。

 顔を真赤にしながら、寝そべって怠そうな顔で見学している九郎と格闘訓練をしている二人へ視線を行き来させて叫んだ。


「せめて下はなにか穿けよおおお!!」


 お七は短く切った着流ししか着ていない為に、動きまわり飛び回れば丸出しであったのだ。前の合わせもだるだるで柔道の国際戦みたいになっている為、胸も半ば見えている。お八以外誰も気にしていなかったが。

 とりあえず彼女は無理やり引っ張って裏に連れて行き、お七に替えで持ってきた道着を着せてやるのであった。

 袴を着てまともな格好をして出てきたお七はあちこち引っ張りながら、眉を寄せて云う。

 

「なんかこれ動きにくくねえ? 切っていい?」

「はしたないんだよ! 九郎に見せんな! つーか人に見せんな! あたしが痴女みたいだろ!」

「農村いきゃあオッパ丸出しで生活してる姉ちゃんとか結構居るんだけど」

「都会ナメんな!」


 意外と江戸でも一部地域はオープンだったりして困ると開国後の外国人が云うのではあるが。

 晃之介は瞑目しながら心の中で、


(無いだろ、お前ら)


 と、呟いたが声に出さない程度には言っちゃならんとは思った。幾ら、貧乳は卑小価値だ、バッドステータスだと考えていても。


「落ち着くタマー! 二人共胸は嘆きの平原だから出してても無問題タマー! おおぱいなりというか、舌打ち気味に、ちっぱいなり───!!」


 突如現れて素直な言葉で仲裁にでたタマを左右から蹴りが突き刺さって吹き飛ばし九郎の前に叩きつけられた。

 冷たい顔で九郎が見下ろす。


「何をしているのだ、お主」

「い、いや兄さんにお酒の追加持ってきたタマ……」


 震える指で入り口を指さすと、新たな酒を入れた柄樽が置かれている。

 とりあえずタマは云うだけ云ってやったとばかりに、お八がぶっとい殺傷用の針を取り出したのを見て急いで逃げていくのであった。

 

「師匠!」

「な、なんだ。それも個性だと思うぞ」


 急にお八に怒鳴られて思わず弁明する晃之介。


「居候させるって言っても師匠は大人なんだからちゃんと子供には常識教えないと駄目だぜ。こいつの為にならないんだから」

「……あ、ああ。すごく真っ当な意見だ」

「うむ。預けといてなんだが己れが云うべき言葉だな」

「常識ってなんだぜ? 食えるのか? にししっ」


 お七が冗談めかして笑っていると、再び道場をくぐる人影があった。

 

「おはようございます。今日もお願いします」

「雨次か。よく来たな」

 

 やや癖毛のあるふわっとした髪型で、眼鏡を掛けた少年──弟子の雨次であった。普段着は薄い木綿の軽い着物を着ているが、鍛錬の時は天爵堂が持っていた小さめの袴を小唄が仕立て直した道着を着ている。

 顔立ちが線の細い方なのだが武家の格好が割と似合い、近頃は村でもあまり虐められることは無くなっている。

 彼は手土産に持ってきた薩摩芋を入れた笊を道場の床に置いた。

 九郎が尋ねる。


「どうしたのだ? それは」

「日本橋の[鹿屋]さんに頼まれまして、読売の広告記事で[薩摩さわやか物語]を書いたら報酬と一緒に貰ったので、おすそ分けです」

「薩摩弁では[さわやか]は[臓物]とか[猟奇事件]を表す単語なのだったか?」

「違いますよ。……ところで、」


 雨次は並んだそっくりさん二人のうち、お八の方を向いて聞いた。


「お八さん。こっちの人は知り合いかな?」

「お、おお。まあな。今日から道場に居候する妹弟子のお七だぜ。仲良くしろよ」

「そうか。どうも初めまして。この道場の門徒、雨次だよ。よろしく」


 雨次が歩み寄って無害そうな笑みを浮かべてお七に頭を下げた。随分と愛想が良くなったものだと九郎も思う。子供の成長は早いものだ、とも。

 少年にお七は軽く笑いながら手を上げて、お八へ向けつつ云う。


「よろしくだぜ……ところでアンタは見間違わないのな、あたしとこっちと」

「同じ服も着てるのになあ。……九郎は間違いやがったよな」


 九郎は聞かなかったふりをして湯のみに酒を注いだ。

 意外そうに雨次は首を傾げて云う。


「色々細かく違うと思うけど……目の感じが特に違うから。いつも見ているお八さんを間違ったりしないよ」

「うっ……」


 雨次微笑にお八が怯む。


「お七さんも綺麗な目をしてるから特徴的だろう。すぐにわかったさ」

「うっ……」


 雨次微笑にお七も呻いた。 

 九郎は晃之介を手招きしてヒソヒソと囁く。


「見ろ。一気に二人を口説き始めたぞ雨次のやつ」

「才能あるなあ」

「聞こえてるんだけど!? っていうか人を誑しみたいに言わんでください!」


 一瞬怯んだ七八コンビは、とりあえずお互いに気まずそうな苦い顔で頷いて、


「とりあえず雨次を殴るか」

「そうだな」

「いらない恨みを買ってないかな僕!?」


 そうしてその日の六天流鍛錬は行われたのである。

 なお、新入りなのだが普通に乱取りでは雨次よりお七の方が強かったので彼はほろりと涙を流した。


「まあ、あやつらの方が年上なのだから……」

「九郎さん……昼間から酒臭いです」


 慰めはするものの、あまり威厳が無い九郎であった。それでも雨次は諦めずに晃之介から教えられた動きを繰り返し、実直に鍛錬を繰り返すのであったが。

 昼飯も食って夕方までやった練習が終わった後は、九郎以外汗だくになっていた。九郎は途中で昼寝を始めていたが。 

 のそのそと起きだした九郎が、晃之介の道場にある一番大きな盥に水を張って炎熱符で湯に変えた。


「汗でも流して行くか、お主ら」

「そうだな。せっかくだ」

「お、お邪魔します……体痛い……」

「おお、湯か。久しぶりだぜ」


 と、一番に服を脱ぎだしたお七を後ろからがっしりと掴むお八であった。


「お前とあたしは駄目なんだよ! 湯屋に連れて行ってやるからこっち来い!」

「えー? 別にいいだろ。かっ怠いぜ」

「よくない! 見られるな恥じらえ! それじゃあこいつ湯に入れて、あたしのお古の着替え持たせてからこっちに帰らせるからな!」

「おーう。じゃあ飯の準備代わりによろしくだぜ」


 お八に引っ張られながら町の方へ向かっていくお七であった。

 そんな二人を見送りながら男衆は、


「ま、まあとにかく入るか。……九郎。年頃の娘の情操教育ってどうやるんだ?」

「……いや、知らん。ハチ子に任せよう」

「あてにならない大人達だ……」


 ひとまず一同服を脱ぎ、道場の裏手で盥を囲んで膝茂君に座りながら手桶で体に湯を浴びる。

 雨次は体にできた打撲の後が染みて、小さく呻くが、放置すれば余計痛くなる。帰った後で家に置いてある薬草で自作した湿布を使おうと決めた。

 

「雨次は晩飯はどうする?」

「爺さんの家に帰ります。茨に心配かけても悪いんで」

「ふむ。まだ日が落ちるには少し時間があるだろう。己れが大学芋でも作ってやるから持って帰るといい。甘いぞ」

「ありがとうございます九郎さん」


 ざばり、と頭から湯を浴びて髪を洗って九郎は立ち上がった。あまり汗も掻いていない労働もしていない九郎は、着ている服の浄化作用もありあまり体は汚れないので早めに上がり、飯の準備でもしようと思ったのだ。

 九郎が立ち上がったと同時に、道場の裏手に回ってくる足音が聞こえた。

 声が掛けられながらやってくる。


「やあ九郎君。晃之介君のところに泊まりに行ってると聞いて様子を見に──」

「子興姉ちゃんが夕飯を作るって張り切ってるの──」

「ベ、別に小生は──って」


 最初に裏手に顔を出したのは子興だった。

 やってきたのは石燕とその弟子二人の三人娘……娘である。断定的に。

 だが。

 まず状況を把握したのが子興だった。裏手に居るであろう三人のところに行ったのだが。

 男三人湯浴び中。ギリギリなカットが子興の目に写った。男尻OK前NG基準で。

 叫ぶ。


「おわぁあぁおっ!? 二人共見ちゃ駄目ー!?」

「ぬあっ!? 何をするのかね子興! 離したまえー! 鎮まりたまえー!」

「九郎の尻が見えたの」

「ししししっ失礼しましたごゆっくりいい!!」


 謎の腕力を発揮して子興は二人の顔を押さえたまま引っ張って走り去っていくのであった。

 なんとなくそんな反応をされると恥ずかしい気分になった晃之介と雨次が、微妙な顔をしながら顔を向き合わせる一方で九郎は勿体なさそうな顔で手を伸ばしながら云う。


「ああ……夕餉の飯炊きが帰って行きおった……」

「ブレないなお前!」


 呆れる晃之介であった。


 九郎は一足早く湯から上がって竈に行き、雨次の持ってきた薩摩芋を手早く下処理して鍋に塗った胡麻油で表面を両側からじっくり焼く。

 髪を手ぬぐいで拭きながら雨次が興味深そうに見てくるので九郎はなんとなく思い出話をした。


「揚げ物をしていると思い出すことがあるのだが」

「なんです?」

「官憲に追われて逃げた山中で飢えてな、近くに放棄されていた廃工場にあった工業用グリスで野草の素揚げを……」

「どういう状況かさっぱりわかりませんが悲惨さはなんとなく」


 時折九郎はこのような意味のわからない思い出を語る為に雨次は反応に困るのであった。

 油で火を通した芋を簡単に、砂糖水で煮てそれが飴のようになったら出来上がりである。底の深い皿に入れてやり、手ぬぐいで包んで雨次に持たせた。


「茨達にいい土産ができました」

「家でも簡単に作れるからな。今度はお主が教えて作ってもらえ」

「そうします」


 そう言って雨次は千駄ヶ谷に帰っていく。目の前で作ってもらった大学芋を、とりあえず友人の少女達に渡そうとしているあたり他人優先とも見えるし、中々世渡りの才能があるとも九郎は思えた。

 とりあえずその後も九郎は竈で酒の肴を手早く作り、四品ぐらい作り上げたらお七が帰ってきたようであった。

 お八から貰った着物を肌蹴て着ている彼女は、それもお八から借りた笊を掲げながら云う。


「蜆と納豆が安かったから買ってきたぜー。明日の朝飯にいいだろ」

「そうだな。ほら、使った分小遣いをやろう」


 と、晃之介から駄賃を貰う。

 その夜もまた三人で飲み会をして、大いに飲んで並び眠るのであった。

 



 *****




 まずまず、晃之介とお七は仲も悪くなく。

 泊まり込みの弟子としてお七も別段文句も無く飯作りに掃除程度は言われずともするようであったので、九郎は晃之介に彼女を預けてまた家に戻るのであった。

 道場の外、別れ際に晃之介に、預かり賃として七両ばかり渡しておいた。彼は受け取りつつも、


「いいのか? ……なんでこんなにまでお七の面倒を?」


 聞かれたので九郎は大きく肩をすくめながら、


「誰かに似ているというだけであっても、関わったら見過ごせなくなるものだ。お主も今更ほっぽり出せんだろう」

「まあな。確信犯か、困ったやつだ」

 

 云って、お互いに笑みを見せる。九郎が周りにお七がいないことを見回し確認して、


「そういえば、あの道場に飾ってある仕掛け木箱……」

「ああ。中までみっちり木が詰まった、ただの木材だ。道場を建て直した後何かに使えるかと思って買っておいた」

「それじゃあ開くものも開かぬだろうなあ……」


 道場の中から気合と木塊を殴る音が聞こえて、小さく笑い声を上げるのであった……。







 後日。

 助屋九郎の相談所。

 九郎の前にずーんと机に項垂れている絵描きが居た。

 子興である。彼女は珍しく昼酒を飲みながら情けない声で云う。


「九郎っち~……町中で晃之介さんがお八ちゃん? いや確かお七ちゃんに『旦那』とか言われてたんだけどさ~……うぃっく」

「いや別にまったく疚しい意味は無いのだが」

「もしかして小生が知らないだけで世間の流行が貧しい乳派に傾いてるのかなあ~……ひっく。見ただけで婚期が伸びた気がしたよう」 


 そんな弟子に、隣に座って二倍ぐらい酒臭い石燕が優しく頭を撫でてやる。


「大丈夫だよ子興」

「師匠ぉ~」

「お前の婚期は伸びようが縮もうがもとより見えていないからいいんだ……」

「ひどい諦めの言葉だった!? ヤダー! 妖怪毒女ヤダー!」

 

 とりあえず九郎は仕方がないので、瓦版を書いて配り回っているお花にそこらから好みの胸アンケートを取って読売にするように、と子興を励ます記事を出させる為に頼んでおくのであった。セクハラではない。


 






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