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16話『幸福の和音』

 七月七日の事である。

 五節句の一つ七夕しちせきであるその日は江戸の人にとって特別な日であった。

 笹を飾り付ける風習はこの頃には広まっていて、昼間から夜までは祝いの祭りが行われる。江戸の町人らは祭りや騒ぎが大好きなのである。

 先月、六月十五日には山王祭で江戸中、盛大な騒ぎをしたばかりだというのに次の祭りにかける情熱も消えやぬようであった。節約質素を呼びかける将軍吉宗も祭りの熱気には水を差さずに行わせ、山王祭では江戸城内にまで出店された出店を回ってみたようである。

 その祭りの時は九郎も知友に引き連れられて一日中遊びまわったのだったが、百万都市の江戸に於いて二大祭りの一つでもあるそれの意気に飲まれたこともあり、相当に疲れた様子であった。

 それを過ぎて、今日この日は祭り以上に江戸に住む町人侍達には重要な仕事が日中行われていた。


「よし、では降ろしてくれ」

「ああ──やれ」


 胴に縄を結んだ九郎は、長屋の井戸にゆっくりと降ろされていった。

 七月七日は井戸掃除の日である。

 これは江戸の神田・玉川上水を使っている井戸に繋がる全ての場所での共通行事だった。

 江戸の町には無数に井戸があるが、これは普通の地下水を取り入れている井戸ではない。海に近い江戸は掘っても塩水しか出てこないためだ。

 ならば生活水をどう取り入れているかというと、大きな水道を使っていたのである。

 大雑把に言えば地下に流しっぱなしの大きな水道を作り、細い溝を通して各井戸に分配していたのだ。さらに、上流の井戸で一定量溜まった水は更に下流へ流れる仕組みになっていたので無駄がない。

 多くの井戸に分配されるために井戸水が溜まりにくい江戸の長屋などでは、落とした桶に水が貯まるのさえ時間が掛かっていたので井戸端で世間話が盛んに行われていたという話もある。俗にいう井戸端会議だ。

 

 ともあれ、その性質上井戸掃除をする日は一斉にしなければいけない為に七月七日と決まっていたのであった。

 その日は長屋の住人総出で手伝いをして午後からは騒いで遊ぶという祝日なのである。 

 今年は井戸に吊り下げられて中でコケや堆積物を取り除く作業をする役目は九郎に決定された。体も小さく軽いのでうってつけなのだ。

 毎年使うために用意している簡単な木製の滑車と木組みを合わせた降下装置で、縄を結ばれた九郎は井戸に降りていく。縄の端を数人の男が持ってするすると下ろし、それ以外の者や女は溝を浚ったりしている。

 吊り下げられる経験は初めてだったかどうだったか。

 九郎は昏くなってくる視界の中そのような事を考えていた。

 大人でも入れるように作られた井戸なので子供体型の九郎が入るとそれなりに穴周りに余裕がある。水道を利用しているという性質上、そう深くない井戸は底に入ってもうっすらとものが見えた。降り立った九郎の膝ほど水が溜まっている。


「釣瓶をあげていいぞ」


 と九郎が井戸水を掬う桶に水をためて指示し、釣瓶が引き上げられる。

 まずは井戸の水を抜かなければいけない。

 外に出された桶が再び井戸の中に落ちてきた。


「うおっ!? これ! 桶を落とすな! 危ないであろう!」

「はっはっは、九郎の若旦那。こりゃ毎年定番の悪戯だ」


 外から長屋の若衆が笑い声を上げていた。


「……まあ、六科の旦那にこれやったら桶投げ返されて奥歯へし折れたんだけどよ」

「反省しろよ!」


 怒鳴った九郎の声が反響する。

 とにかく、何度も井戸の底の水を浚う作業工程を繰り返して水を桶一杯分残して抜き取った。

 そして荒い麻の雑巾で水垢や苔を拭い落とす。 

 普段自分が使う飲料水だから何処の長屋でも井戸掃除は丁寧に行なっていた。

 井戸の底に鼠の死体や虫などが無いかも九郎は手探りで探った。基本的に雨ざらしなので沈んでいる可能性があるのだ。

 ふと、指先に当たる固い感触を得た。金属質だ。


「なんぞこれ」


 妙な突起の付いた箸みたいなものが二本拾い上げられたが、薄暗い中では見えなかったのでとりあえず腰帯に差して作業を続行した。

 やがて、


「おーい。終わったぞ、上げてくれ」


 九郎が声を張ると外から六科の指示が繰り返されて、長屋の男どもが九郎の体をクレーンのように引き上げ出す。

 多分、六科一人でも滑車無しに余裕で九郎は引き上げることができるのだろうが、一体感というか縁起物というか形式とか、そういう意味があるのだろうと九郎は腰に結ばれた縄を握りながら思った。

 外に出ると井戸の前には小さな神棚と、笹と米、酒が七夕のお供えとして置かれている。

 九郎は井戸の外に下りて、紐を解くと腰帯に入れていたやや色あせた棒状のものを取り出してしげしげと日に翳した。


「井戸の底に落ちてたが……なんだこれ」

「……そりゃかんざしじゃねえの? メッキが剥がれてら」


 と、長屋に住む男の一人、亀助が云う。

 彼は[入れ墨もの]と呼ばれる、犯罪を起こして逮捕された経歴を持つ男であったが今では金物の打ち直しや錆取りの仕事をしている。

 しかし前科者となると世間の目も厳しいのは何時の時代も同じ事で、長屋に入居するのを断られる事もあったという。宿がないために再犯を犯したり病死したりするものも居たという。

 そんな中で六科は物事に頓着しないので、前科者もよそ者も二人で一部屋借りているものも、長屋の持ち主であり呉服の大店[藍屋]の主人に仲介して入居を受け入れていて、今のところ長屋で大きな問題は起こっていない。

 亀助は九郎から二本受け取って見分し、


「井戸に落としたのか? おい、誰か知らねえか?」


 と、女達に呼びかけるが、皆記憶に無いように首を傾げた。 

 女房の一人が盲のお雪が落としたのではないかと問いかけるが、


「私もしりませんよう。簪は見えないから挿しませんし」


 首を横に振って否定した。

 ならば拾った九郎のものという事になるが、このままでは何の価値もない水汚れのついた棒だ。


「それならおれが磨き上げてやりましょうかい」

「む? うーむ、でもな、簪なぞいらんし」

「いやそこはお房ちゃんにあげるとか。玉菊にあげるとか」

「玉菊は無いであろう玉菊は……まあよい。この際れあどろっぷと思っておこう。綺麗にしてくれ」

「へいさ。ええと、材料費込みで……一つぐらいでいいでげす」


 と、亀助が指を一本立てて言うので九郎は頷いた。


「なんで急に、げす言葉になるか知らんが一分だな」

「いえ、一両」

「一両!? 高いなおい! 己れをぼったくる積りじゃなかろうな!」


 驚いて問いかけるが亀助は目を伏せながら、


「おれの職人魂がこれを最高の状態に磨き上げろっていうんでさあ……」

「一両あったら綺麗な簪買って釣りでいい酒が買えそうだが」

「よしわかった! 出来上がりを見てから、一両の価値の無い簪だと九郎の若旦那が判断したらおれも職人の端くれ、小判は返すぜ」

「そこまで云うなら……」


 九郎は亀助にその仕事の約束を取り付けるのであった。

 それも、別に支払う代金は九郎が汗水垂らして稼いだ金ではない為に無駄遣いをしても痛む懐でもないからでもあった。この男、もはや石燕から金を借りる事に罪悪感を何も感じていない。

 九郎が部屋に戻って支度金を取ってきて渡したその日、亀助は長屋の家賃を払ったという。




 ****




 後日、本当に良い出来のものが出来上がった。

 一両も手間賃がかかるというのは多分に大言を吐いていると考えていたが、出来上がった簪は二本とも、意匠が異なるが輝いているような秀麗さへと変貌している。

 銀箔を全体に貼り付けて絹糸を巻きつけ、玉飾りに瑪瑙を使っている。歪みもなく銀の光沢の下から艶やかな質感すら感じた。一つは白でもう一つは赤みがった飾り色をしている。

 九郎は瞠目して簪を受け取り、眺めた。


「あれがどうなったらこれになるのだ……?」

「いやあ、元の芯がいい鼈甲を使ってて良かったんで。あと隣に住む細工職人の辰彦も一枚噛ませろって口出ししてきて色々盛り上がってるうちに装飾も盛っちまって」


 と、簡単な仕事で終わらせるはずだったのだがつい金が多くあるものだから飾りに粋を凝らしてしまったようである。

 九郎は意匠の違う二本の簪を受け取って、さてと考える。


「フサ子にでもあげるかの」

「二つあるんだから、一本は別の人にあげたらどうですかい」

「別の人というと」


 亀助はやや考えて、


「若旦那と仲がいいオンナとなると……石燕姐さんとか」

「ううむ石燕の金で買ったものを石燕に贈呈するとか、ますますヒモのようでなあ……」


 亀助は、女から貰った金で買った簪を他の女にやるほうがよほどの駄目男な気がしたが、とりあえず其の問題は黙っておいた。

 他の候補をあげる。


「お八嬢ちゃんとか」

「あやつは男勝りの性格だから簪みたいな女々しい道具を喜ぶかどうか」


 女々しいも何も女の子が簪を貰って喜ばないわけはないと思うのであったが、亀助も恋愛が成就したことは無い為に女心については深く理解していないので敢えて言わなかった。


「玉菊とか」

「あれは男であろう……股に心張り棒が付いているたぐいの」 

「見た目は女の子だからいいじゃない。むしろおまけが付いていると思えばお得感じゃない」


 むしろ投げやりな亀助のフォローに九郎は苦々し気な顔になった。

 だがあまりに九郎が選ばなすぎるので亀助もうんざりとして、


「誰かにあげないなら質にでも流せばいいんじゃねえの? もう」

「そう捻くれてくれるな。ええとそのお主の腕があまりに良かったから手放しがたかっただけよ」

「はあ……ちゃんと良い人に渡してくれよ。頑張ったんだから、おれ」

「わかった、わかった」


 頷くのであった。

 とは言ったものの、九郎は自ら誰かに簪を渡しに行くかも決めかねているので、


(まあ誰かと会った時に渡せばいいであろう)


 と、適当に考えているのであった。自分で持っていても仕方ないのは確かだ。誰に渡すか決めないというのは、結局誰に渡しても同じな気もしてきた。

 ともあれ、二本あるうちの一本はお房に渡す事にする。長屋の井戸に落ちていたものだから大家の娘のお房に渡しておくことが相応しいような気もする。

 表店に回り店の準備をしているお房に声を掛けた。


「おおい、この前見つけた簪が仕上がったぞ」

「ん? あ、綺麗なの」


 九郎が持ってきた簪を見てお房は素直な感想を述べた。嬉しそうである。

 小さな子とはいえやはり女とあれば光物を好む性質を持っているのだろうか。それならば、


(何故寄生虫の卵は潰されたのか……見た目キレイだったのに)


 などと九郎は一瞬思ってしまったがキモかった為だという結論も既に持っているので、微妙に非難がましいその考えは滅却した。

 しかし、九歳のお房が髪にその高級そうな簪を挿すと、


「……大人になったら似合うようになると思うぞ」

「こんちくしょう」


 ちょっとばかり背伸びしたように見えるので九郎は笑いを忍ばせた。

 悔しそうにとりあえずは目立たぬように深く挿しておくお房であった。

 



 ****



 

 七夕過ぎれば暑さも過ぎるとは言うものの、いまだ真夏の太陽が憎らしいほどである。

 うだる日和に夏休みと決め込んで仕事をたたむ者も多く、大川には涼もうと舟遊びをしている者や、金の無い町人は橋に居座って過ごしている。

 熱を持った地面の上にはとても入れぬと湯屋の風通しの良い二階を集会場のようにして、将棋を打ったり読本したりとなるべく動かずに過ごすのが当時の江戸の暮らしであった。

 九郎も少しは紛れるだろうと店の前で打ち水をしている。

 涼しくなる異世界の道具もあるにはあるのだが、一人だけ部屋でそれを使っていると暑さの中労働しているお房から、外に放り出されそうになった事があるので使わないようにしているのだ。

 ぬるい水を沸騰するような地面に撒いていると声がかかった。


「御早うでござんす! 今日も暑うござんすね!」

「……?」


 九郎は話しかけてきた、長髪をうなじのあたりで結んで纏めている少年に熱で半分閉じられた目を向けた。

 顔色の良い十代半ば程の少年である。顔立ちは男らしさがまだ見えずに幼さすら見える。裾まくりをした縦縞で男用の浴衣を着ていなければ髷も無いので少女にも見えるかもしれない。 

 

「誰?」

「御無体なこと言わないでくりゃれ! 玉菊、ぬし様のお色の玉菊でありんす!」

「ああ、玉菊か。男装してるからわからなんだ。あとお色云うな」

 

 自分で言ってて何か妙なところを感じないでもなかったが、男の町人の格好をしたそれは間違いなく陰間の玉菊であった。

 普段は鮮やかな着物に化粧をして髪も結っているしいい匂いもするので、其のような簡素な男の格好をしているのを見るのは初めてだ。

 九郎はのっそりと入り口から退きながら、


「飯でも食っていくのか? 今日は酢飯が上手いぞ、酢飯が」

「いや、今日はお店じゃなくてぬし様をお出かけに誘いに来たでござんす」

「ええ……暑いから嫌だぞ……」


 九郎は全身から倦怠感の波動を放出しながら云う。

 玉菊はひんやりとした手で九郎を引っ張るように笑顔のまま、


「大丈夫大丈夫、暑さを忘れる事ができる場所がありんす」

「何処へ行くつもりだ?」

「相撲見物でござんす! 裸と裸の力士がガップリと組み合い、男のみで構成されている観客たちは熱狂の渦になるというあの場所なら!」

「死ぬほど暑そうであるな!?」


 想像するだけで体感温度が上がった気がした。

 しかし、玉菊の熱気と九郎自身もプロの興行として行われる相撲を生で見たことが無い好奇心から、陽炎が立つ晴天の中相撲見物へ歩いて行くのであった。

 


 相撲の会場は深川八幡で行われていた。

 当時は晴天の時を見計らい、一場所八日間だけとか、六日間だけとか短い期間を決めて相撲をとっていた。その日は三日目で毎日暑いのに満員で汗を流し、地面から塩が吹くほどである。

 現在の相撲場のように屋内で冷暖房の効いた場所でやるわけではなく野ざらしだから熱は相当なものだ。

 見物客も密集して、丸太で簡単に組んだ二階、三階の見物席で相撲場は取り囲まれてそこにも寿司詰めに人が座っている。仮設客席以外にも、立派に組まれた屋根付きの特等席に座るのは寺社奉行や参勤交代に来た大名等も見物に来ている。また、高いやぐらが四方を囲んで太鼓を叩き盛り上げる。

 力士も、待合室が無いので土俵の周りに観客と同じ場所でぬらぬらと熱気を持ったまま佇んでいた。

 相撲の人気は江戸でも凄まじかったらしく、町人同士の喧嘩相撲、辻相撲などは度々禁令を出されていたようだ。寺社などで興行をする相撲も長らく行われていなかったのだが、江戸の初期の頃には修繕費を集める為にという名目で開始され、徐々に相撲の興行が盛んになっていった。

 会場を濃密に包むのは男の汗と熱気である。

 呼吸をしただけで何割かの空気には汗が含まれてそうな空間に、九郎は顔を流れるのが汗か涙かわからなかった。


「しぬ」

「いやしかし人が多くて全然見えないでありんすねえ」


 と、男と男に挟まれ藻掻いている玉菊も言う。

 会場に入るためにいつもの女郎風の格好ではいけなかったから今日は男物の服を着ているのだったが、これでは見物にならない。

 人の頭と頭の間に、土俵を囲む四本の柱が見える。柱には刀や弓が括りつけてあるのだが九郎には、


(何か、寺や神社で行うに当たって神聖な意味があるのだろう)


 と想像するのであった。土俵で発生した喧嘩の時に使うとは夢にも思わなかった。

 九郎も玉菊も背が低いものだから一階席では土俵の様子もよくわからない。

 こうなれば、と九郎は玉菊の手を引いて人の隙間を縫い移動した。


「上に行くぞ。このままだと自害しようとする己れの決意が発生しそうだ」

「あいさ」

「しかし生ぬるい動きにくい……おい、玉菊。ちょっと背中に捕まっておれ」


 と、少しだけ開けた処で指示を出すと玉菊はがっちりと首に手を、腰に足を回して九郎の背中に張り付いた。

 むしろ指示を出した九郎が手慣れた玉菊の抱きつき方に微かに背筋が粟立つ。

 とにかく、会場の端……組まれた丸太の客席に足をかけてひょいと九郎は飛び上がり、二階の柱を引っ掴んで軽々とよじ登った。普通は登り降りの為の梯子を使うのだが、そこまで行くのすら面倒である。

 続けて二階から三階へ同じくあっという間に飛び上がってよじ登る。見ている客が唖然としている間に軽々と、一番上の幕を張ってある高所へ辿り着いた。

 さすがにそこまで上がれば涼し気な風が通っており、異常な熱気から脱出した九郎は汗がすっと引いて気分が良かった。

 丸太に腰掛けて上から相撲を見下ろせることを確認して声をかける。


「おい、もう背中から離れても良いぞ」

「……ぬし様は時々とんでもない事をします」


 恐る恐る九郎の背中から離れるが、このような高いところには来たことがないので九郎の腕を掴んで離そうとしなかった。

 目の前には江戸の屋根が並ぶ風景が広がり海まで見渡せて、空が近い。飛んでいる鳶が近くに見える。江戸の狭い町並みでは感じられない開放感を玉菊は感じて「うわ」と感動の声が漏れた。

 九郎は苦笑しながら、


「お主、この前二階から叩き落されても平気だったではないか」

「さすがにこの高さは死にますよゥ! 絶対落とさないでくりゃれ!? っていうか二階からも普通落とさないです!」

「はっはっは。大は小を兼ねまくる」

「意味深な事を言って誤魔化してる……」


 細かいことなどこの高所を吹き抜ける爽やかな風に比べればちっぽけな問題だと思えた。

 眼下の土俵では、一方の力士が土俵下の観客数人を巻き込んでぶん投げられている。


「ヘボ野郎!」

「なんだと!」


 と、がなりたてる叫びと共に、喧嘩が発生して余計に周囲は熱暴走をしたように囃し立てていた。

 当時の相撲見物ではむしろ、このような喧嘩で怪我をして帰ったほうが話の種になるし粋という風潮があったようだ。もちろん一般町人と力士の喧嘩だと力士が圧倒的に強い訳で、時代はこれよりやや下るが、有名な大関の雷電為右衛門などは土俵で相手を投げ殺すわ喧嘩で町人を殴り殺すわという大活躍だった人気力士である。

 喧嘩はつきものなので何事もないかのように土俵では次の取り組みが行われる。土俵の内と外では異なる世界なのだ。九郎はその伝統芸能の独自な世界に「ううむ」と唸りを漏らす。 


「思ってたより荒っぽいなあ、相撲って」

「男の世界でござんすねえ。わっちは喧嘩とかはてんで弱いから、憧れがありんす」

「まあ、確かにお主は喧嘩には向いておらぬだろうな」


 自分の腕にしがみついている細い玉菊の腕を意識しながら頷いた。

 陰間として女装し身を売っているだけあってかなり華奢な体つきである。


「最近仕事はどうだ?」


 何気ない話題を振ると玉菊はやや驚いたように九郎の顔を少し見て、にやけるような笑顔になって応える。

 そんな事を九郎の方から聞いてくれるのは初めてだったからだ。


「色々辛い気分にもなることがありんすが、こうして休みにぬし様といい景色を見られてわっちは幸せじゃ」

「左様か」

「あとはぬし様と今晩しけこめばもっと幸せ!」

「素早い動きでY軸移動」

「離れんでくりゃれ!?」


 玉菊の手を抜けて横に逃げると、高いところから動けない玉菊は手を伸ばすばかりであった。

 ふと、丸太の端の四隅に更に高く築かれているやぐらの所で、腰を抑えてうつ伏せになっている男が居るのを発見した。

 玉菊に、


「ちょっと待っておれ」

「あっ!? ぬし様!?」

 

 と、声をかけて丸太の上に立ち上がり小走りで倒れている男のところまで駆けて行く。

 九郎は高さに関する恐怖は殆ど無い。背が低く重心が整っているので足を滑らすことは無いと自分でもわかっているからだ。落ちなければ危険ではない。或いは危険だから落ちるのか。卵が先か鶏が先か。


(魔王が云うには未来の鶏を過去に持ち込んだのが始まりだとか何とか)


 異世界で聞いた益体もないパラドックスに陥りそうな考えはあっさり放棄して倒れている男に声をかける。


「おい、平気か? お主」

「うう……腰をやった」

「腰?」


 男が指をさす先には、水の入った樽と深めの柄杓が置かれている。


「俺は会場に水を撒く係なんだが……腰が痛くて動けねえ」

「ははあ……」


 下に居た時に上からぬるま湯のような液体が降り注いできて、九郎はその正体を想像すると怖ろしい考えが浮かびそうだったのでやめていたのだが水を撒いていたらしい。

 男たちの間に水をふりかければ体にかかる一瞬のみ涼しいが、すぐに蒸すような湿気に変わるけれども……無いよりはマシなようであった。

 呻きながら水撒きの男は懇願する。


「坊主……俺の代わりに」

「面倒だから嫌だのう」

「頼むううう……! やらなかったら首になるんだあああ……!」

「……仕方ない」


 と、九郎は水の波々と入った、背負い紐付きの樽を担いだ。

 この暑いのに生ぬるい水を撒く仕事とは……と九郎はふといい考えが悪戯気と共に浮かんだ。

 懐に入れている術符フォルダから低温術式を付与された『氷結符』を取り出して樽の内側に貼り付けると、水は忽ちに肌を刺すような冷水へと変わる。

 これを上から撒けばさぞ冷えるだろう。

 その前に、九郎は樽を担いだまま重さを感じさせない軽い足取りで玉菊のところに戻った。


「おい玉菊や。己れはこれから水撒きの仕事をしてくる」

「はあ。物好きでありんすね」

「そう云うな。おっと、その前にこの水で顔でも洗うといいぞ。よく冷える」

「嬉しやす……冷たっ!?」


 手を突っ込んで思わず引っ込めた玉菊だったが、意を決して水を手皿に掬って顔と首筋に浴びせた。


「うああ……ぬし様! ぬし様! うひょーって言ってよござんすか!?」

「いや別に構わんが」

「うひょー」


 気持ち良さそうな玉菊の様子に九郎は笑いがこぼれた。

 そして、幕の上を走り回りながら氷水のような冷水を柄杓で会場に撒いて回る。

 下から、


「うおお!?」

「寒う!?」

「おおいこっちも来てくれ!」

 

 だの声を掛けられて九郎は何か楽しくなりあちこちに水を掛けにいくのであった。

 男というものは年の大小に関わりなく、庭に水を撒くなどの行為を始めると妙に楽しくなる傾向がある。九郎もまさにそんな感じで、背中からは程よい冷気を感じて心地良い気分で水撒きの仕事を励んだ。

 ぶっかけられる方も異常に冷たい水に驚くものの、この蒸かし芋のような状況では非常に気持ちがいい為に声々に九郎を呼んで水を浴びるのであった。


 


 

 ****





「ああ、疲れた疲れた」

「大活躍おつかれでござんした」


 相撲見物の帰路についていた。さすがに水樽を持ったまま飛び回ったので、九郎にも珍しく疲労の色が濃い。

 仕事を終えて道具を返す時に男に明日も水撒きをやらないかと誘われたが、断っておいた。こういうのはちょっとやってみるから面白いのであって、労働として行いたいものではない。

 

(そうだな、部屋全体を冷やさずに冷たい水を張った桶を用意すればフサ子にも怒られまい)


 と、今後の夏の過ごし方に着想を得たので善しとするのであった。

 それにしても、と玉菊が云う。


「ぬし様とせっかく一緒に出かけたのだからもうちょっと側でゆっくりしたかったです」

「相撲見物などでゆっくり出来るものか。今度は夜に花火でも見に行けばよかろう」

「行く行く! 言いましたね言質取りましたー! よっしゃ!」

「……フサ子とかハチ子とか連れてな」

「複数人行為とか……! 高い領域……! さすがぬし様……!」

「妙な勘違いをするな阿呆めが!」


 無駄な想像を働かせて顔を赤らめている玉菊の頭をぺしりと指で弾いた。

 それでも嬉しそうに「うふふ」と笑い声を出しているので気味が悪くてやや距離を置いたが。

 ふと、九郎は懐に入れっぱなしの簪に気づいた。

 最初に出会った使う知り合いにあげようと思っていたものだったが、玉菊にやると異様に喜びそうで躊躇われたが、初志貫徹。

 金はかかったがどうせ拾い物である。


「玉菊よ、これをやろう」

「……?」


 不思議そうに受け取った簪を眺めて、


「……えっ!? ぬ、ぬし様! ……………はっ。まさかわっちを殺すつもりで最後の贈り物を」

「想像が飛躍しすぎだろう!? ホップステップしたらワープしてるレベルで!」

「だって! ぬし様が簪をわっちに!? 普段からして今日はやたら優しすぎでありんす! 死ぬの!?」

「死なねえよ! いらんなら返せ!」

 

 手を伸ばすが、今度は玉菊がさっと身を躱して胸元に簪を持ったまま九郎を見た。

 目が合うと、玉菊は改めて顔を真赤にして、潤んだ目を開いて、


「大事に……絶対大事にします!」


 声がとても嬉しそうで、何故か泣きそうな玉菊の顔を見て九郎は小さくため息を吐くのだったが、一方で顔に上がる熱と胸を浮つかせる感覚にとても九郎を見れなくなった玉菊は、


「こ、今度つけてきますから……ありがとうですー!」

「走り去って行きおった」

 

 残された九郎は呆然と凄い早さで去っていく玉菊を見送るのであった。

 しばし玉菊の態度に不審を覚えながらも、


「ま、よいか。湯屋にでも行こう」


 と、歩き出した。

 風が通りを吹いている。涼しい夜になればよいと九郎はのんびり考えるのであった。

 


 その日から、彼に貰った簪を毎日つけている玉菊の姿が界隈で見られて、高級なそれの出処を同僚の陰間や遊女に聞かれる度に、


「良い御人から貰った宝物でありんす」


 嬉しそうに云う玉菊は、近頃ますます美しくなったと評判であった。









 ****







 後日、九郎のもとに石燕がやってきてこのような会話があったという。


「んーごほんごほん!」

「どうした石燕、風邪か?」

「いやなにね九郎君。うちの塾に来た房が珍しいものを髪につけていてね?」

「ああ。己れがくれた奴な」

「ごほんごほん! あー。あれは無いのかなー。なにとは言わないけれど。九郎君から貰うと嬉しいだろうなー。頭三文字は[かんざ]なやつ」


 伺うような物欲し気な顔に九郎は思いついたように頷いた。


「おお。燗冷ましか。通な酒の飲み方だな。よし、用意してやろう」

「嬉しいけれども! なんか違うよね!?」

 

 カンザスシティのほうだったか? と九郎は首を傾げるのであった。さすがに町の一つはプレゼントには大きすぎるが。

 




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