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アンナさんの告白に、私は胸が苦しくなった。
もちろん戸惑いもある。
前世の記憶と伝えられた話は、到底私には想像も出来ない世界のことであった。
この国のことを前世の頃から知っていたと言う事も。そして何より、私たちが乙女ゲームというものに出てくる登場人物にそっくりだということ。
そして、私の知ってたアンナ・キャロルは彼女であって、彼女ではないという事。
それでも、彼女が身を滅ぼしても叶えたいと願った想い。
それに辿りつく事は、話を聞いた限りで難しいだろう。
そしてそれを、アンナさん自身はとっくに気がついていた。
その上で、現実逃避をしなければ自分を守る事が出来なかったのではないか。
私は席を立つと「ごめんなさいね」と前置きをすると、彼女を力一杯にギュッと抱き締めた。
「⋯⋯よく頑張ったわね」
アンナさんは、一瞬ポカンとした表情で私をジッと見つめた。
でもその直後、徐々に顔を歪め子供のように嗚咽を堪える。
だが、それも耐え切れずに大きな声で泣き始めた。
その間にも、アンナさんは「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も言葉を詰まらせながら、必死に私に伝えた。
私は彼女の事を何一つ知らなかった。
彼女はたった一人、孤独の中でこの場にいたのだ。
アンナ・キャロルの記憶を失い、前世の記憶を思い出した。
そして今、また前世の記憶を失おうとしている。
私は時間を遡ったとは言え、自分の両親、そしてサラを含め、知っている人達の所に戻った。
でもアンナさんは、誰一人知る人のいない場所に、ある日来たのだ。
何の説明もなく。
⋯⋯どんなに不安だっただろうか。
どんなに孤独だったのだろう。
私が彼女を抱き締めて何になる訳でもない。
自己満足なのかもしれない。
でも暗闇の中で一人きり殻に籠もっていた彼女は、今初めて足を踏み出そうとしている。
初めて鎧を着ていない自分をさらけ出そうとしている。
そんな彼女の孤独を想うと、個人的な感情よりも何よりも、今まで一人でよく耐えたと⋯⋯彼女の想いに寄り添いたい。
自然とそう感じたのだ。
暫くすると、アンナさんは少しずつ落ち着きを取り戻したようだ。
私は抱き締めていた腕を離し、また向かいの席へと戻る。
すると、アンナさんはウサギのように真っ赤になった目元を隠す事なく、私へと真っ直ぐ視線を向けた。
「ラシェルさん、話を聞いてくださってありがとうございます」
アンナさんのその言葉にハッと顔を上げる。
アンナさんは先程までの陰鬱とした印象から、少し吹っ切れたかのように穏やかな顔になっている。
「誰かに聞いてほしかったのかもしれないです。
杏という人物がいたということを。私が生きていたということを⋯⋯」
「えぇ」
「それに、忘れていました。
人の温もり、人の優しさ⋯⋯そんな温かい感情を」
そう言葉にするアンナさんはここではない、どこか遠くを見た後、また私へと視線を向けた。
それが、今まさに彼女が遠い世界から、この世界に目を向けた瞬間のような感じがした。
「許してほしいとは言いません。
それだけの事をしたと思っているので⋯⋯。
ラシェルさんにも殿下にも、他の皆さんにも酷いことをしました」
「アンナさん⋯⋯」
そう言うアンナさんの表情は、過去を本当に悔いている表情をしている。
きっと彼女には、その生き方しか出来なかったのだろう。
でも、今からは違う。
もうここをゲームの世界と思う事は出来なくなった今。
彼女が本当に苦しむのはこれからなのかもしれない。
過去と今の記憶に苦しみ、もう二度と会えない人を想って泣き、自分が消える恐怖に怯える。
⋯⋯自分がそうだとしたら、どうだろう。
考えただけでもゾッとする。
そんな苦しみが確実に彼女を襲う⋯⋯そう考えるだけで、私もまた胸の奥で悲しみが込み上げそうになる。
「これからどうするの?」
「これから⋯⋯。
そうですね、これからの事⋯⋯考えなきゃですね。あっ、でもちゃんと陛下とは話しますから。婚約はしないし、隣国にも行かないって」
⋯⋯それを陛下が聞き入れるだろうか。
彼女がそれを陛下に伝えたとして、陛下は首を縦に振るとは正直思えない。
彼女に目的があって殿下との婚約の話を持ち出したのだろうが、陛下にだって目的がある。
そしてそれは、アンナさんのようにただ、なりふり構わず全てを投げ打っての覚悟で持ち出した話ではないだろう。
陛下の中でそれは、もはや彼女がいくら《もう止めます》と言った所で、簡単に聞き入れるような話にならない可能性が高い。
⋯⋯きっと、今の彼女にそこまで考えられているか。と言えば、そうは思っていないだろうが。
彼女は、良く言えば真っ直ぐ。
悪く言えば、人の悪意に鈍感なのかもしれない。
きっと貴族社会の記憶が薄いからだろう。
⋯⋯陛下は、正直怖い。
先日の謁見以来、特にそう思うようになった。
でも、陛下を避けているようでは私の望む未来も今後来ないのは確かであるが⋯⋯。
そう考えると、気が重くなる。
そんな私の暗い表情にアンナさんは気付く事なく、「それと」と力強い言葉を発した。
「今後はちゃんと見てみようと思います。この世界にいる人たちを」
「えぇ」
「いつまで杏の記憶を持てるかは分かりません。でもアンナは確かに私で、杏も私だって⋯⋯そう思えるんです」
前世も、今も、同じ。
アンナさんの言う感覚は、私には分からないだろう。
経験していない事だから。
でも今の発言からも、アンナさんが今の自分とも向き合い始めてる事は確かなのだろう。
「今はまだ頭の中が整理がついてないですけど⋯⋯。ラシェルさんにもう一度、今度は本当のアンナ・キャロルと友達になってもらえるように⋯⋯頑張ります」
「そう。大丈夫⋯⋯な訳ではないわね」
私の言葉に、アンナさんは一瞬また真っ赤な瞳に涙が浮かんだ。
だが、無理やりに笑顔を作ると首をゆっくりと縦に振った。
「何度だって後悔すると思います。
きっと、ああすれば良かった、何であんな事をしたのかって。でも望んだものはもうどうしたって二度と手に入らないですからね。
⋯⋯それでも、私は生きていかないといけないんですよね」
「そうね。あなたも私も、今この瞬間生かされているのだから」
そう。
誰がどういう意図で、私の時間を戻したのか分からない。
と同時に、アンナさんの前世を呼び戻したのかも分からない。
だが、確実に私たちはこの時間を生きている。
やり直す為なのか、それとも別の何か違う意味があるのか。
理由は分からない。
彼女にとっては、前世を思い出した事が良いことなのかさえ私には想像がつかない。
もしかしたら、以前のような前世を思い出さないままのアンナ・キャロルでいられた方が苦しまずに済んだのかもしれない。
それでも、何らかの力が私とアンナさんに働きかけた。
それが意味するものは何か。
⋯⋯やはり、私の魔力が失われた事とも関係があるのだろうか。
改めて、その理由を知る必要があると再確認した。
と同時にアンナさんについて。
彼女は許しを求めていない。
それはきっと、彼女が自分で自己を見つめ直し、今後何をしていくか。
その行動で判断してほしいという事なのだろう。
⋯⋯私も過ちを犯したからこそ、そう感じるのだ。
とは言え、彼女がした事。それは私と殿下の婚約関係を白紙に戻そうとした事。
確かにそれは私にとっては、辛く苦しいものだ。アンナさんが殿下との婚約を今はもう望まないとしても、陛下がどんな答えを出すかは分からない。
だが、この件が無ければ私は前回の自分の最期に向き合おうとしただろうか。
魔力が無いままを良しとしたのではないか。
殿下に守られているまま、与えられるままに殿下の婚約者という立場にいたのだろう。
これは私にとっても必要な試練なのだ。
そう思わなくてはいけない。
アンナさんは一つ小さく深呼吸すると、椅子から立ち上がると「そろそろ、失礼しますね」と口にした。
そして私に向かって、深く深く頭を下げた。
数秒頭を下げた後、今度のアンナさんは下を向く事なく、顔を上げて部屋を出ていった。
そして、彼女のいなくなった部屋で、先程のアンナさんの礼を見て思い出した。
彼女は、言動はとても貴族らしくはないと思っていた。
でもマナーは洗練されていて、一朝一夕に身につけたとは思えなかった。
つまり彼女が前世の記憶を思い出してから、私に会うまでの間、もしかしたらそれより短い間。
血の滲む思いをしながら、必死に身につけたものなのだろう。
⋯⋯その礼ひとつで、彼女の今までの強い思いが伝わってきた。
それが間違っていたとしても。
それでも、いつか。
彼女と本当の意味で笑い合える日が来れば良い。
そう思う自分は、間違っているだろうか。