第29話 水月の迷宮の後の、和解
なんだか、体が重いな。
妙な感じがする……。
いや、というか、俺はどうしたんだ。
いつ眠って……。
そこまで考えたところで、意識が徐々に覚醒してきた。
瞼の裏に光を感じ、そして俺は目を開いた。
◇◆◇◆◇
「……起きたか。レント」
目の覚めた目に入ってきたのは、勝手知ったるロレーヌの家の天井だ。
続いて、彼女の声が耳に入ってきて……あぁ、そうだったな、とフラッシュバックのように色々な出来事が脳裏を通り過ぎた。
俺は現状をある程度把握して、口を開く。
「あぁ……わるかった、な……あたまが、だいぶ、こんらんしていて……」
「いや? 気にするほどの事でもない。が、謝罪は受け取っておこう。それよりも今のお前の状態の方が大事だ。今は……何かおかしなものに支配されてはいないか? なにか妙な衝動はないか?」
ロレーヌがそう尋ねてきたので、俺は首を振る。
特になにも感じない。
いや、多少、部屋の中に香る血の匂いに食欲のようなものをそそられる感じはあるが、あの時のような、目の前が真っ赤になったかのような強烈な渇望は、今はもうなかった。
ロレーヌはそんな俺に頷いて、肩に手を置き、語る。
「そうか……ならば、いい。それと、繰り返すようだが、気に病むことは無いぞ。あれは不幸な事故だった。そういうことで、処理しようと思っているからな……それと、どこまで覚えている?」
再度謝ろうとする俺に、ロレーヌは制止するように手のひらを差し出してそう言った。
そう言わなければ、俺がいつまでも謝り続ける、ということを分かっているからだろう。
昔からの仲というのは、心の中まで手に取る様に理解されているようで、少しくすぐったいような気持ちもするが、こういうときはありがたかった。
俺と、ロレーヌの間に、遠慮は必要ないだろう。
だから、彼女の言葉は額面通り、素直に受け取り、あまり気にしすぎることは無いようにしよう、と思った。
もちろん、今すぐ完全に忘れ去ると言うことは出来そうもないが……時間が解決してくれるはずだ。
とりあえず、今はロレーヌの質問に答えよう。
どこまで覚えている、だったか。
どういう意味の質問だろうか。
たしか、俺はロレーヌを見た途端、目の前が真っ赤になって……それから、襲い掛かったはずだ。
あとは……ええと、なんだったか……。
ダメだ。
色々と記憶が怪しい。
夢中だったというか、興奮しすぎて、色々とタガが外れていたような感覚がある。
理性的な判断は何一つできなかった。
そんなようなことをロレーヌに言えば、彼女は納得するように頷き、
「概ね、そんなことだろうとは思っていた……あれは普段のお前とは違ったからな。そもそも、ある程度予想していたことでもある。驚きもそれほどではなかったから、私も対応できた」
こうして俺がソファに寝転がらせられてる時点で、何がどうなったかは大体わかってはいたが、改めてロレーヌに説明を求めると、彼女は、
「そんなに長い話でもない。帰宅したお前が突然、襲い掛かって来たから、魔術で吹っ飛ばしたというだけだ。いい的だったぞ? 普段のお前ならまず、当たらなかっただろうが……」
そうだろうか?
ロレーヌはこれで結構な実力者だ。
昔ならいざ知らず、今では単独で迷宮探索も余裕でこなせる。
そんな彼女の魔術を俺が易々と避けられるとは思えない。
そう言うと、
「私も万全だったらそうだったかもしれんがな。それなりに慌ててはいたのだ。私は普段、魔物と相対するときはそれほど近い距離にはいかず、遠距離から確実に潰していくことを考えて動くタイプだからな。あれほど近いと……魔術の選択も難しかった。咄嗟に放てたのは魔力を大量に込めて圧縮することで一撃の威力を上げる苦肉の策で……まぁ、一応うまくはいったみたいだが」
彼女なりに、動揺はしていたようだ。
顔立ちが常から冷静そうに見えるため、そこまでの動揺をするようには見えないが、知り合いが唐突に暴れ出したのでは流石の彼女も普段通りとはいかなかったということだろう。
彼女はそれから、俺に、気づかわしげに言う。
「……今更だが、体の方に問題はないか? 威力は調節したつもりだが、手加減など滅多にしないからな……何か致命的な傷などは……?」
言われて、改めて体の動きを確認してみるも、問題はなさそうだった。
むしろ、調子はいいような気がするくらいだ。
そう言うと、ロレーヌはほっとしたように、
「それなら、よかった。しかしそうはいっても病み上がりには違いないだろうからな。今日のところは休んでいろ。私はとりあえず部屋を片付けねば……つッ!」
周囲の、いつも以上に家具やら本やらが散らかっている部屋の惨状を見回し、そう言って立ち上がろうとしたロレーヌ。
しかし、肩を抑えて、顔をしかめてよろめく。
俺は、それが何か分からないほど察しは悪くはない。
俺がつけた傷なのだろう。
俺は体を起こし、彼女の体を支える。
「……おっと、悪いな、レント」
言いながら、すぐに体を離して一人で立とうとするロレーヌに、俺は、
「ちょっと、みせてみろ……」
そう言って、抑えている肩を覆うローブをずらした。
すると、そこには乱暴に包帯がぐるぐると巻かれていて、血が染みだしている。
明らかに適当な処置しかしていない。
治療院には行っていないようで、なぜかと聞けば、
「こんな傷を見せたら理由を聞かれるだろう。なに、あとで回復水薬でも作るさ。昨日、在庫は魔法薬屋に卸してしまってあいにく切れているが……このくらいの傷、すぐに直せるだけのものは、すぐに作れるだろう……」
そう言って、片付けの方を優先しようとするので、俺はそれを止めて言う。
「おれに、やらせてくれ」
もちろん、治療を、ということだ。
俺には聖気がある。
これくらいの傷なら、回復水薬などなくても何とかなるはずだ。
ロレーヌもそれは分かっているようで、けれど逡巡するように言う。
「だが、お前、体は……」
どうやら俺が本調子ではないだろうと心配して言ってくれているようだった。
しかし、そんなものは問題ではない。
それよりも、ロレーヌの傷を治す方が大事だ。
そもそも、回復水薬で治すと言うが、あれは傷の程度やつき方によっては傷跡になりやすいと言われている。
怪我自体が治ることは間違いないのだが、安物だと肌の色合いが微妙に変わって目立つことも少なくなく、女性冒険者は高くても質のいいものを使おうとする傾向にある。
ロレーヌはそう言ったところ頓着しないから、このまま自分で回復水薬を作って治すつもりなら、それこそ治ればいいという気持ちで適当な調合をするだろう。
結果、傷が残ることになるかもしれない。
俺のせいで。
それは申し訳なかった。
そう思って、俺がロレーヌの肩に手を当てると、彼女は仕方がないな、という顔で俺の治療を受け入れる。
「……聖気の治療など、初めて受けたが……心地いいものだな。温かいよ……」
自分自身の傷を治したことがないから、どういう感じなのかは分からないが、痛くないのであればよかった。
ロレーヌの肩には俺の歯型と、おそらくは食いちぎられたであろう乱暴な傷が残っていて、やはり回復水薬では傷が残っただろう。
かなり気合を入れて聖気を発していることもあり、少しずつ、治っていく彼女の肩の傷は、周囲と同じく真っ白で、滑らかな状態へと蘇っていく。
そして、傷が完全に消えたことを確認し、そこを撫でるように触れ、痛みがないか聞くと、ロレーヌは、
「……全くないな。聖気の治癒術というのは、よほど高性能なようだ……」
と言い、それからぼそりと、
「傷物になった、とは言えんな……」
と微妙にがっかりした様子で呟いた
俺が首を傾げると、ロレーヌは、首を振って、
「いや、何でもない……ん?」
と、何かに気づいたように俺の顔を見る。
それから、ロレーヌは、
「おい、レント……仮面が、ずれていないか?」
そう言った。