千五百六十七年 四月中旬
「咳病をどうやって治したのか? ですか」
痛む部分を撫でつつ静子は信長の質問を口にする。
相変わらず信長の拳骨は痛かったが、かなり手加減をしていたようですぐに痛みは引いた。
普通に呼びかけて欲しかった、と愚痴を零したが、奇妙丸と教育係の何か言いたそうなジト目を受けて視線を逸らした彼女である。
「どうやっても何も、単に病気を治すのに効果的な環境を作っただけですよ? そもそも咳病の原因は何百種類とあるので、特効薬を作る事は不可能です」
咳病、風邪に特効薬はない。故に、人間が持っている免疫システムに頼る他ないのだ。
静子はその免疫システムが効率的に働く環境を作っただけである。
「それだけか? 何か南蛮の秘術とかを使ったわけではないのか?」
ひと通りの説明を受けた信長は思わず問いを重ねた。
「先程も申しました通り、咳病に対しての特効薬は私の知る限りでは見つかっていません。人間が生来備えている治癒能力を頼る他ありません」
(免疫機能って言えば楽だけど、戦国時代の人はその辺りの基礎知識がないからなぁ。うぅ……医学は専門外だから噛み砕いて説明するのが難しい)
「ふむ……原因が何百種類とある為、特効薬を作る事は叶わぬ、か」
「咳病は体が持っている様々な機能で治せます。どんな薬を飲んでもすぐに治る事はありません。場合によっては余計悪化する事もありえます」
風邪の治し方は自分の体に任せる他ない、が現代では通説となっている。
無論、急激な発熱で生命の危機に瀕している際の解熱・消炎・鎮痛などの対症療法を取ることはある。
抗生物質等についてはある意味特効薬ともいえるが、本筋から逸れるため割愛する。
つまり、それ以外はまさに「成るように成る」である。
「具体例を上げよ」
今一つ得心がいかなかった信長は、静子にどういう意味か説明するように促す。
「咳病は微熱や発熱、鼻汁の過分泌、咳、くしゃみ、食欲不振、嘔吐などの症状が出ます。えっと、前提としまして私の知る限りでは、咳病は目に見えないほど小さい生物……病原菌という物が体内に入る事で発病します」
「……」
「(体温を上げて免疫力をアップ。つまり白血球の働きを平熱より活発にする……って言ってもわからないよね。病原菌は熱に弱いって事にしよう)総じてこの病原菌という物は熱に弱いのです。このため発熱は人体が異物である病原菌を殺すため、自分の体の温度……体温を上げて退治しようとする反応です。ですが体温を上げると、体に不調を来すため病原菌と自分の我慢比べとなります。くしゃみは体温の調節を行おうとする行為です。鼻水や咳、嘔吐は体の中にある悪いものを外に出そうとする行為です」
「……」
「それから……食欲不振は少しややこしいのです。まず人の体についての話になりますが……私たちが食べ物を食べて体力を付ける際、まず食べ物を歯で小さく噛み砕き、喉を通って胃の腑まで運び、そこで食べ物をドロドロに溶かして体に取り込める形に変えています。この一連の流れを消化と呼びます」
「……」
「(む、無言が辛い……! うぅ、ちゃんと説明出来てないのかな)あの、実はこれは意外と体力を使う行為なのです。固い物や大きい食べ物、または沢山食べる等をすればそれだけ消化に大きい労力を必要とします。長い目で見るなら体力を多く使っても、それだけ多くの食べ物を体に取り込めるため差引では得になります。ですが病という緊急時は、さながら戦場のようなもので……分かりやすく言うと、病原菌という敵を排除するのに全力を挙げており悠長に田畑を耕している暇はない、という体からの通告です。それらを間違えて読み解けば、咳病を悪化させるだけです」
思う所があったのか奇妙丸は若干顔を背けた。
おそらくだが無理に食事を取ったのだろう、と静子は予想した。
「なるほど、若干分からぬ部分はあるものの、わしらの体には最初から病に対する抵抗力があるというのだな?」
「その通りでございます。体が持つ外敵を排除し健康を保とうとする働き、これを自然治癒力と呼んでいます。それが咳病を治す最大の武器でございます」
「武器は常に手入れをせねばならぬ。手入れを怠れば、いざという時役に立たぬ」
「はい、仰る通りでございます。手入れの方法についてですが、明には医食同源という思想があります。これは病を治す薬と、日々食べるものは同源である事、という考えです。日々の食べる物を考えて病の予防や治療をはかる事、これを食養生といいます。これを実践する方法が薬膳です。まぁ……身も蓋もない言い方をすれば、日々体の調子にあった食事を取りましょう、ですが」
「その辺りは後に聞かせて貰おう。では最後の質問だ。咳病を患った場合、どうするのが一番良いか」
「余計な体力を消耗しないようにし、水分を取り、食事は柔らかい粥のような物を少量、速やかに部屋の四隅に湯の桶を置いて部屋を暖め(湿度を高める)、暖かい格好をして十分に休む事が大切です。それと咳病を恐れてはいけません。咳病は自然の健康法なのです。咳病を患った後は、あたかも蛇が脱皮をするかの如く、体が綺麗になります」
「ほぅ、中々面白い考えだな。気に入ったぞ」
何が、と言いかけた静子だがその言葉は飲み込むことにした。
下手なことを言って更に質問攻めに会うのは勘弁願いたかったから。
(それにしても、本当に貪欲な知識欲だなー)
静子がする咳病の説明で、気になる所があれば即質問してきた信長。
そこで更に疑問が生まれれば質問、納得出来なければ持論を口にして討論まがいの事をする。
お陰で説明するだけでかなり時間を浪費してしまった。
「その赤い本? のようなものは使えるな。内容を複製し、わしに届けるように。紙はいつもの様に届けさせる」
「うぇ!?」
赤い本へ視線を向ける。最低でも三〇〇ページ以上はある赤い本を、完全に模写しろと信長は言った。
(い、いらない論文とか法律の部分をカットすれば……い、いけるかな?)
悲しいかな、拒否するという考えが浮かばないほど、信長に従順な静子だった。
それは信長が美濃を手中に収めてから一週間ほど経った頃の事だった。
「いひょうのひゅへん?」
「静子様、口に物を入れたまま喋るのははしたないですよ。それから慰労の酒会です」
指摘された静子は申し訳ない顔をして口の中のものを飲み込む。
「ごめんね。それで、お館様がする慰労の酒会があるって話だけど。それが私に何か関係があるの?」
信長は美濃攻略に特に貢献した者へ特別報酬を与える予定との事だ。
と言っても温泉へ入れる権利と、旨い酒と料理の酒会、それから数日の休暇だ。
何だか地味な報酬であり特別というほどでもないと感じた静子は、彩にその辺りを詳しく尋ねた。
すると金銀や装飾品などの御下賜品が与えられた上での追加報酬だという話だ。
ただ美濃攻略直後であり、褒美をいつ与えるか時期が決まっていないとの事だが。
「あ、数日の間、お隣が物々しい感じになるから注意しろって事?」
温泉を使うなら確実にお隣にある信長の別荘が使われる事は間違いない。
そこへ信長と主要な武将が揃うのだから、当然護衛や身の回りの世話でついてくる人たちも多い。
村が物々しい雰囲気に包まれるのは確実だ。
だから事前に通達して村人たちに余計な不安を与えぬようにしろ、という腹づもりなのかなと静子は思った。
だがそんな彼女の予想は簡単に裏切られた。
「いえ、そうではなく……お館様から参加するように、とのご命令です」
四月下旬、静子が管轄する各村では育苗が始まった。
しかし静子自身は育苗作業を行っていない。
いつまでも自分が作業の音頭を取り続けていては、農業技術の継承が完全に終わらないからだ。
では彼女は何をしているかというと、農作業のマニュアル化だ。
今は全員が一次情報を入手しているが、今後も各村の百姓がそうなるとは限らない。
場合によっては伝言ゲーム式に伝わる可能性もあり、それらを回避するためにも農作業のマニュアル化は必須だ。
だがマニュアル化するという事は、農作業の技術が安易に他国へ知れ渡るデメリットがある。
故に書き上げたマニュアルを使用するタイミングは、信長に任せようと静子は考えた。
そんなマニュアルを三分の一程度書き上げた頃、静子の元に一通の手紙が届けられた。
「これ……どうしたらいいの……」
手紙を読み終えた静子は、頭を抱えて机に突っ伏した。
「ご判断はお任せしますが、返答には気をつけていただく必要があるかと」
傍に控えている彩が表面上は我関せず、だが微妙に小言を混ぜてそう言った。
彼女がそんな返答をするのも無理はない。
「まさか……こういう手紙が送られてくるとはね」
手紙の送り主は本多平八郎忠勝だ。しかも三河国の立場である旗本先手役として送ってくる始末。
内容は簡単に纏めると以下のようになる。
『拝啓、お元気ですか。先日は大変なご迷惑をかけて申し訳ない。また、いぶり漬けなるものを沢山分けていただき感謝に耐えぬ。つきましては謝罪とお礼を兼ねて、貴女に三河の味を堪能して頂きたい。きっと気にいると思います。よいお返事を待っています。追伸、あの握り飯に入っていた黄色いものは何ですか?』
端的にいうと食事の誘いである。つまり現代で言うと手紙はラブレター、内容はデートの誘いだ。
手紙に書かれた文を読めば、彼には下心なし、純粋な好意で誘っている事がわかる。
だからこそ断るという選択肢が選びにくかった。
そもそも断れば彼の面子を潰す事になる。これは非常によろしくない事だ。
しかし手紙に誘われてホイホイ行くのも問題だ。
まず街道整備がされていないため、移動はリスクが高過ぎる。しかも尾張ではなく三河なので、治安がどうなっているか不明だ。
「……あー、どうしよう……」
誘いを受けるは地獄、誘いを断るも地獄。まさに進退窮まる、である。
結局、一刻ほど悩んだが良い答えが浮かばなかった静子は、最終手段に出た。
「彩ちゃーん、お館様はこの手紙について何て?」
それは信長に判断を丸投げする事だ。そうすれば忠勝の面子を保ちつつ返答する事が出来る。
そんなことを考えていた彼女の思惑は脆くも崩れる。
「まだ話が通っていないと思われます」
「そう……じゃあお館様の判断を仰ぎたいなぁ。多分、断れって言うだろうけど……」
「そうですね。静子様ですと、三河に行ったきり帰ってこれない気もしますしね」
「……ねぇ彩ちゃん。彩ちゃんって私に仕えてるんだよね。なんか最近、厳しくない?」
「無礼を承知で主の至らぬ所を指摘するのも配下の務めです」
非難の意味合いを含む言い方をしたが、彩には馬の耳に念仏状態だった。
しかし最初の頃の、どこか壁があるような言動よりはましだろう、と前向きに思うことにした。
「まぁいいや。そうそう、神社の建築はどんな感じ?」
「予定より早く、神殿を含む施設はほぼ建築完了しております。何やら岡部様が張り切っておられました。ですが美濃の城作りに参加するため、こちらの作業は一時止まるとの事です」
「ま、仕方ないね。頼んでいた附属施設は?」
「六割完了との事です。ですが静子様が命じたものの内、幾つかは不明瞭なものがあるので、一度確認してほしいと」
「了解。それじゃあ、農業の確認を……まず草木灰は各村に配布済み?」
「各村にある全ての畑に散布済みです。堆肥も散布済み。耕うん・整地などの作業も終え、土作りは完了しております」
「お、そこまで自分たちで出来たか。土壌酸度計がないから計測は出来ないけど、そこは各自のカンに任せるしかないか……苗作りは?」
「代一様の感想では上々との事です。流石に慣れてきたのか、手際よく作業を進めておられます。ただ、やはり今年に出来た村の百姓たちは、どこかぎこちないとの事」
「まぁね、慣れてないからねー。ま、来年には形になると思うし、あまり気に病む事もないか」
「鶏卵についても目立った問題はありません。農業関係は順調に進んでいます」
彩の報告通り、事前に問題になりそうな箇所を潰していたため、静子の技術継承は問題らしい問題が発生する事なく、順調な滑り出しをしていた。
油断は禁物だが、当分は代一たちに任せっきりでも問題無いだろう。
「味噌町で試験的に作ってる醤は?」
「多少の戸惑いはありますが、製法が似ているので大きな問題はありません」
「醤……多分、醤油って名前になると思うけど、それは重要な調味料だからね。次、麻町は?」
「麻は静子様が設計されたし……しゅしゅふぃてん剥皮機のお陰で、今までよりも数倍は生産量が上がっているそうです」
「シュリヒテン剥皮機ね。そういえば、我が村が担っている絹糸の方は水車を使った自動繰糸機が稼働してたね。あっちはどうかな?」
噛んだ事に若干顔を赤らめている彩は、空気を変えるように咳払いした後にこう言った。
「あちらの方はもっと生産量が上がっています。ただ長時間稼働させると糸むらが出来るそうです。二刻に一回、半刻ほどの休憩を取らなければなりません。しかし質の高い絹糸が大量生産出来る為、お館様も喜んでおられました」
絹糸は繭から糸口を引き出した後、目的の太さになるよう何本か合わせて撚りを行う。
そして一本の生糸に集束されたのち、小枠と呼ばれるものに巻き取られる。
この工程がもっとも時間がかかる上に手間もかかる。そこで静子は水車を使った自動繰糸機を金造に作成させた。
シュリヒテン剥皮機は元々の設計図があるが、水車を使った自動繰糸機は静子オリジナルである。
と言っても戦国時代に来てから設計したのではなく、現代にいた時に設計した代物だ。
しかも設計した理由が、手動の繰糸機を見て『自動化出来ないか』と考えたのが発端という、まるで理系の技術者のような理由だった。
結局、そこそこの自動化装置が出来上がり、そこそこの時間で絹糸が出来るという、ほぼ自己満足の形で終わった。
その時の経験を今に活かしたという訳だ。
「麻、絹、ときたらコットンも欲しいなぁ」
「こっとん?」
「うん。まぁあれは機会があれば、でいいか。お隣の三河国に伝来してるはずだけど、あっちじゃまだ価値を見いだせていないから物々交換で簡単に貰えそう」
「(まだ価値を見いだせていない……? まるでそれが決まった未来のような言い方……)商人を通して入手しては如何でしょうか?」
彩の言葉に静子は首を横にふって答える。
「出来た代物は必要ないの。私は木綿を生産できる環境が必要なの。つまり種を手に入れる必要があるの」
「そういう事ですか。蜜町と茸町については特に大きな問題ありません。順調に進んでおります」
「ふむふむ、順調な滑り出しって事ね。でもま、何か問題があったら逐次報告を上げてね」
「了解しました」
「……じゃあ、私……この文をどうするか考えておくね」
陽気な声でひらひらと手で手紙をふる静子だが、表情はあまり優れなかった。