千五百六十六年 十月上旬
静子が使っている井戸掘り掘削機は、ハンドオーガーと呼ばれる簡易な地質調査道具だ。
本来は地中にオーガーと呼ばれるドリル状の穿孔機械を設置し、人力で回転圧入させて土を切削し、地中に孔を開けて試料の採取や観察を行うために使われる。
地表面下数メートルの柔らかい土層から、中位ほどの硬さを持つ粘性土や砂質土の採取や観察に適している。
人力なため採掘深度が三メートルを超えると作業効率が著しく低下するが、現代でも個人で行う井戸調査にはよく使われている道具だ。
「きっとここに地下水脈があるんだよ」
狼は耳と鼻が人間とは比べ物にならないほど良い。
ある研究では、狼は森の中では半径六マイル(約9キロ半)、開けた場所なら半径十マイル(約16キロ)もの範囲の音を知覚できると言われている。
周波数でいえば25KHz以上も聞こえるとされ、研究者によっては80KHzまで聞こえるという主張もある。
だが何といっても狼といえば優れた嗅覚だろう。
様々な匂いをかぎ分ける事が出来、仲間の身体についた匂いから行動の情報を知ったり、遠く離れた獲物の匂いを嗅ぎつける事が出来る。
(もしかしたら水の匂いに気付いて、ここを掘れといってるのかもしれない)
カイザーが水の匂いに気付いた可能性がある、と静子は考えた。
推測であり本当かどうかは実際掘ってみないと分からないし、単なる見当違いな事をしている可能性もある。
次の場所を探す時間的猶予もないため、カイザーの示す場所を掘る事は一種の賭けでもあった。
「よいしょっと……お?」
三メートルほど掘った所で、急にハンドオーガーの感触が変わった。
硬い土を掘っているというより川の砂底を掘っている感じだ。
はやる気持ちを抑えつつオーガーの中身を取り出すと、静子の予想通り水が染み込んだ砂の塊が出てきた。
「これはいけるかも……?」
穴の位置から村までの距離を目測する。
多少距離はあるものの、そこまで離れている訳ではない。
充分に開けているとは言えないが、周囲に崖などの危険な場所もない。
井戸小屋を作れる程度の広さはあるので、雨水を防ぐ事も可能だ。
(雨水がろ過されて地下に染みこみ、それが下へ流れている所を掘ったかな……?)
四から五メートルぐらいを覚悟していたが、三メートルほどで急に水が染み込んだ土に変わった所を見るに、地下水脈は山の斜面に沿って流れている可能性が高かった。
川の水が地下に染みこんでいるものか、雨水がろ過されて地下を流れているかは分からなかったが、ともかくこれで第一段階はクリアした。
「よいっしょっと……水がそろそろ取れそうなんだけど……」
「もうちょっとだと思います……お、取れましたぜ村長!」
更に一メートルと少し掘り進めると、遂に目的の地下水がオーガーの中に入った。
次にクリアすべきは、その地下水脈が『飲用に適しているか』だ。
折角地下水脈を掘り当てても、何かに汚染されていては飲み水として利用することは出来ない。
金造がオーガーに入った水を小さな木桶に流し込む。
見た目は綺麗で、臭いも汚れもない真水だった。
だが鉱物で汚染されていた場合、見た目では判断がつかない事がある。
「カイザー、この水飲める?」
機械や薬品でチェック出来ないので、静子は狼であるカイザーの嗅覚に賭けた。
もしもカイザーが拒否をするようなら、その水は何かに汚染されている可能性が高い。
カイザーが木桶に顔を突っ込んで匂いを嗅ぐ。その様子をドキドキしながら静子は眺めていた。
やがて匂いを嗅ぎ終えたカイザーは、普段通りの表情で木桶に入った水を飲み始めた。
カイザーが水を飲んだ事で、その場所にある地下水脈は飲用に適していると静子は判断した。
遂に本格的な井戸掘りの作業に取り掛かれる段階まで漕ぎ着けた。
「さて、ここを掘るよ。と言っても数人だけで十分だから、他の人たちは道具を運んできてー」
静子がこれから作る井戸は丸井戸と言われる掘井戸ではなく、ボーリング工法で作る掘抜井戸だ。
丸井戸は人が下まで掘り進める必要があり、生き埋めやガスなどの危険に注意する必要がある。
排出土砂も多く出る為、井戸を掘る作業者と土砂を処分する作業者が必要になる。
作業人数が多く必要になるので、足場を確保しにくい山間部では危険過ぎる。
対して掘抜井戸は不透水層(水を通さない地層)を専用の道具で掘りぬき、その下にある帯水層(地下水層)へ竹管を通し、水を汲み上げる井戸の事だ。
場所を取らず、更に一人でも作業が可能な上に、排出される土砂が少量で済む。
但し場所によっては水の量が少ない場合もあるので、一長一短あり一概に優れた工法という訳ではない。
田吾作たちは二〇分ほどで道具を担いで戻ってきた。
村からほど近く、井戸との往復にもそこまで苦労する事はない立地だ。
道具が揃った後は男手は金造と田吾作だけを残し、二作と代一は先に二作の村へ帰って貰う事にした。
二作は完全に無理をしているのが傍目にも見て取れた。しかし責任者として矜持もあり直接休むように言っても意固地になるだけだろう。
よって「代一と共に村にあるろ過している桶を確認してほしい」という仕事をお願いした。
表面上は渋面を作っていたが、小さく息を吐いたのを金造と田吾作、静子は見逃さなかった。
二人が帰路に就くのを見届けた後、静子は井戸を設置するための作業に取り掛かる。
しかし井戸掘りの作業は金造一人で、田吾作は静子に言われた道具を彼に手渡す役割、そして静子は金造に井戸を設置するための指示を出すだけだ。
狭い場所で何人も作業すれば逆に作業効率が落ちる。また作業手順を静子一人だけが知ってるより、金造や田吾作など村人も知ってる方が良いと考えたからだ。
「村長、言われた通りの設置が終わりました」
暫く金造が水を汲み上げる竹管の調整をしていたが、一時間ほど経った頃にようやく設置が完了した。
後は予め用意した部品を繋げていくだけだが、過去に金造は何度か組み立てていたので静子の指示がなくとも危なげなく作業を完遂した。
それから二〇分後、ようやく掘抜井戸が完成した。
静子は手押しポンプに呼び水を入れてハンドルを上下させる。
安全に水を吸い上げる事が出来るか否かによって、この井戸の価値が決まる。
もしもコツがいるような井戸だと、使う人を限定してしまうからだ。
「おぉ!」
だが静子の心配は杞憂に終わり、ハンドルを上下するだけで水口から水が勢い良く噴き出した。
金造が歓喜の声を上げながらも木桶に水を貯めこむ。
ある程度溜まった所で、静子はハンドルの操作をやめて金造や田吾作と一緒に木桶を覗きこんだ。
「綺麗っすなぁー」
「特に汚れも見当たらないっすね」
「ちょっと水が出てくるのに時間がかかるけど、これだけ綺麗だと大丈夫だねー」
濁りのない綺麗な水を見て、三人はのん気な感想を口にする。
残り作業は井戸への道を作ることだが、それは静子たちが先頭に立って作業する必要はない。
二作たちの村好みに作れば良い。
細かい所まで指図する必要もないし、し過ぎれば恩着せがましい態度になってしまうから。
「さって、道具を持って二作さんの所に戻りますかー」
「そうですねー。そろそろ日も暮れそうだし、さっさと戻りましょう」
「だねー……ってカイザーたちは?」
周囲を見回すとカイザーやケーニッヒ、ヴィットマンがいない事に静子は気付く。
どこへ行ったのだろうと思い、静子はちょっと奥の方を覗いて見る。
すると三匹は地面に垂れている樹の枝で遊んでいた。
「おーい、帰るよー」
静子がそう声をかけると、カイザーたちは一吠えした後、彼女に向かって走り出した。
彼女の足元までくると、全員甘えるように身体を静子の足へこすりつけた。
「はーい、いい子にしようねー」
カイザーたちの頭を何度かなでた後、静子は二作の村へ向かった。
十分後、二作の村へ到着した静子は道具は田吾作に預け、彼には先に村へ戻って貰うようにお願いした。
「他の人たちも気にしているだろうし、ひとまず一報をお願いします」
「了解です。ひとまず大丈夫って事でいいんですよね?」
「そうだねー。効果が出てくるのは、もうちょっと後だろうけど。とりあえず井戸は出来たし、水不足は解消するかな?」
「ですね。それじゃあ村長、また後で。あっしは代一さんと一緒に戻りますわ」
田吾作も代一は二作同様無理をしていると思っていたのか、苦笑しながらそう言った。
答えにくい内容なので、静子は苦笑いをして誤魔化した。
ろ過装置の効果を確認し、それらの作り方を教えた後、静子は金造と一緒に山を下りた。
帰る前にも村人から感謝の言葉を貰ったが、何となくむず痒い感じがした。
自分はアドバイスをした程度という意識が彼女にはあったからだ。
二作の村の問題が片付いて数日後、静子の元に森可成が訪ねてきた。
しかし今回は彼だけではなく、ある人物を伴っての訪問だった。
「……小間使……ですか」
「さよう。それと私への連絡係と思って頂きたい」
姿勢を正している静子は、森可成の後ろに控えている人物に視線を向ける。
九歳程度の少女だった。外見から物静かな少女、という印象を静子は抱いた。
「彩と申します。何なりとご用を申し付け下さい」
静子の視線に気付いた少女、彩が床に頭を擦り付けるほど平伏しながら言った。
何だか自分が偉そうな態度をしていると思った静子は、彩と同じように姿勢を正して頭を下げた。
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
きちんと挨拶したつもりの静子だが、森可成、そして彩はすごく微妙な顔をした。
自分が間違いをしたのか、と思った静子は視線を彷徨わせながらフォローの言葉を考える。
しかし静子が慌てれば慌てるほど、二人の顔がますます気難しい感じに変わっていった。
「……小間使に対して頭を下げた人は初めてです」
「私も初めてだ」
その言葉を聞いて静子は小間使がどのような役割だったかを思い出す。
身分の高い人の傍に仕えて雑用をする女性が小間使だ。
基本的に女だけの職業で、男がなる事はまずない。
逆に男性のみが就く役割としては小姓が挙げられる。
小姓とは扈従という言葉に由来し、原則として武家の若年者が務めた。主な役割としては主君の傍に侍り諸々の雑用を果たす、現在における秘書のような役目を担っていた。
役割の性質上、主君と共に様々な会談をこなす必要があり、広範な知識とどこに出しても恥ずかしくない一流の作法を修めている必要があった。
一方、戦場においては、主君を守る最後の盾となる必要があるため武芸にも秀でておらねばならず、才気溢れる若者が就く花形の職業でもあった。
何よりも主君の覚えが目出度ければ出世は約束されており、後に側近として活躍した者も多かった。
「まぁ良い。それが静子殿の魅力でもあるしな」
「はうあっ! め、滅相もございません」
「それでは今後、何か話がある場合は彩を通してくれ。お館様は忙しい身ゆえ、なるべく無駄な時間は避けたいのでな」
「は、ははっ。承知つかまつりました」
静子の言葉に森可成はにこやかな笑みで頷くと、今度は彩の方を向いた。
「これから誠心誠意静子殿に仕えよ」
「はっ! この生命に替えましても、静子様の小間使を立派に務め上げてみせます」
(カ、カッコイイ!)
主君を守る武将のような雰囲気で断言した彩を、静子はとても格好良いと思った。
「うむ、よろしく頼むぞ」
森可成はにこやかな笑みを浮かべながらそう言った。