口裂け女の誤算
都市伝説界のレジェンド「口裂け女」に突如降りかかる困難の連続。そして彼女は思いもよらない相手と対峙することになる…
人けのない夜道に、ひっそりとたたずむ口裂け女。トレンチコートにマスク姿は変わらないが、その背中にはどこか焦りが漂っている。
「どうして誰も外を歩いていないのよ…」
ため息をつきながら、辺りを見回す。いつもなら数人はいるはずの帰宅途中の会社員や、深夜のコンビニ帰りの学生が見当たらない。日々の仕事(脅かし)が立て込んでいるわけではなく、純粋にターゲット不足なのだ。
「ねぇ、わたし…きれい?」
誰かを驚かすための定番セリフを練習してみるが、夜の静けさに空しく響くだけだった。
実は、口裂け女はこの道に入って50年近くになる。「怖がらせ」のスキルには自信があった。おどろおどろしい口裂けのビジュアルを活かし、何人もの人々を恐怖のどん底に突き落としてきた。それが、彼女のこの世に留まるためのエネルギーになっていた。
しかし、それが何の因果か、最近はめっきり仕事が減ってしまった。
「何かがおかしい…」
頭を抱えて歩いていると、ようやく遠くに人影を発見!急いで駆け寄り、「ねぇ、わたし…きれい?」と話しかけた。だが、その人影はすぐに立ち止まり、冷静にこう言い放った。
「密です、密です!ソーシャルディスタンス守ってください!」
そして勢いよく去っていった。目の前でドアが閉まる音が聞こえる。しかも鍵を二重、三重にかける音まで聞こえた。
「密…?ディスタンス…?何の呪文よ、それ!」
しばらくして夜道を歩いていると、ようやく若い男性が前方に現れた。「今度こそ!」と気合を入れて近づこうとすると、その男性は真剣な顔でこう繰り返す。
「跨ぐなよ、跨ぐな。いいか、跨ぐなよ!」
何を「跨ぐな」と言っているのか分からず、さらに近づくと、その男はポケットから石を取り出し、躊躇なく口裂け女に向かって投げつけた。
「こっちくんな!コラ!お前今、県跨いだろ、コラ!なんだコラ!タココラ!」
石を避けるのに必死な口裂け女。走り去る男性を見送りながら、膝をついてうなだれる。
「なんなのよ、これ…」
その夜も失意の中、人気のない通りを歩いていた彼女だったが、ようやくターゲットらしき男が見つかった。派手な服装に金髪、妙に陽気な雰囲気を漂わせた、いわゆるチャラ男だ。個人的にあまりタイプではなかったが、もう背に腹はかえられぬとばかりに、勇気を振り絞り声をかける。
「ねぇ、わたし…きれい?」
チャラ男は一瞬驚いたが、にやりと笑って言った。
「え、めっちゃかわいいじゃん。ちょっとマスク外してみ?」
「え…?」
長年脅かし屋をやってきたが、ここまで積極的な奴は初めてだった。これまでの経験では、マスクを外した瞬間、叫び声とともに逃げられるのがオチだ。しかし、彼の態度は何か違う気がする…。戸惑いながらも、ゆっくりとマスクを外す口裂け女。
「おぉぉぉ、君、可愛いねぇ〜!すごいよ、個性派ってやつ?マジでキュート!この時代、唯一無二ってウケるよね!」
言われた瞬間、口裂け女の胸の奥で何かが弾けた。今まで溜まりに溜まったストレス、孤独感、そして誰にも見てもらえなかった寂しさが、彼の軽い褒め言葉により大爆発した。
「あ、ありがとう…」
その場で膝をつき、ぽろぽろと涙を流し始める。そして突然、体がふわりと宙に浮き上がった。
気がつけば、チャラ男の目の前で彼女は眩い光に包まれていた。
「ちょ、ちょっと待って!どこ行くの?飛ぶとかマジヤバくね?携帯交換とかできる?!写メ撮っていい?」
しかし彼女は答えなかった。ただ一言、地上に向けてつぶやく。
「ありがとう。やっとわたし、救われたわ…」
そしてそのまま夜空に消えていった。その後、口裂け女が出没することはなくなった。あの2020年、ロックダウンの時期に、彼女は静かに成仏したのである。