032 未来の傷跡
渡せなかった紙コップを握ったまま、俺はキッチンへと戻っていく。
お茶の水面は、小刻みに波を立てている。
「店長、大丈夫ですか?」
「え……?」
「なんか……顔色が悪いですよ?」
キッチンに戻ると、ラディルが小声で俺の様子を伺ってきた。
凍った背筋に血を流そうと、俺は強がりな言葉を必死にひねり出す。
「ちょっと昔の事を思い出して……でも、大丈夫。心配かけて、ごめんな」
「いえ。あまり無理しないでくださいね」
強張った顔を両手でほぐし、俺は作りかけのメイン料理を仕上げていく。
フライパンの上で程よいキツネ色になった、小麦をまぶして焼いた肉。
そこへレモンとケッパー、白ワインを加えてソースを作る。
仕上げにバターを加えて溶かし、スカロッピーネの完成。
「お待たせしました。メイン料理、レモン風味のスカロッピーネでございます」
一人前ずつ小皿に盛り付け、テーブルへ運ぶ。
俺の不安な気持ちが嘘のように、彼女たちは料理に目を輝かせた。
「すごい! お肉のお料理なのに、とても可愛らしいわ。ね、お姉様」
「ああ。食べてしまうのが、もったいないぐらいだ」
ミスティア様もマリカ様も、とても穏やかに談笑している。
記憶の中のミスティア様からは、とても想像できないくらいに。
彼女はイサ国の作中で、王位と聖女の二つの重荷に心を苛まれていた。
今のミスティア様からは、その悲壮感は感じられない。
「これは……レモンの風味が爽やかで、とても美味しいです」
「本当に美味しい! 美味しすぎて、何枚でも食べられちゃう!」
ユリンさんと料理の話をしながら、もっと食べたそうにこちらを見てくるセシェル。
そうだ、初めてセシェルに会った時の違和感――とても陽気で明るすぎる性格。
セシェルが所属していた騎士団は、堅牢な彼女以外全滅してしまう。
ゲーム作中のセシェルは自責の念から、とても頑なな性格をしていたのだ。
「どの料理も、とても美味しかった。今日の会食、この店にして良かった」
そしてマリカ様は、ゲーム開始時には魔物の襲撃により既に死亡している。
会話や文章の中で『騎士団長』や『姉』としてわずかに登場するだけで、顔グラフィックも存在しない。
だから俺はマリカ様を見ても、キャラクターとして全く思い出せなかったのか。
どうして今まで気づかなかった――いや、考えなかったのだろう。
このイサナ王国が、ゲーム作中のどのタイミングであるかを。
ここは、ゲーム本編が始まる前のイサナ王国――
「――さん。ちょっと、店長さんってば!」
「はっ……え、何? パテルテ」
キッチンで立ち尽くしていた俺は、パテルテの掛け声で意識を引き戻された。
パテルテはというと、不服そうな顔でこちらを見ている。
「もう! しっかりしてよね。デザート、デザート忘れてるでしょ」
「あ……ああ、そうだったな」
「もちろん、私の分も作ってよね!」
「ああ……わかった……」
言われるがままに、俺はデザートの盛り合わせを作り始めた。
客席に出す食後のお茶を用意しながら、トルトが俺の様子を伺う。
「店長さん、本当に大丈夫?」
「ああ……たくさん作ったし、トルトたちも食べるか? 遅くなって、疲れただろう?」
「そういう意味じゃないんだけど……まぁ、出してくれるなら食べようか。ね、ラディル」
「あ……はい。いただきます」
二人にも、余計な心配をかけてしまって申し訳ない。
まだ俺がプレイしたゲームと同じ展開になるか、決まったわけではないのだ。
気を取り直しデザートを完成させ、マリカ様たちのテーブル席へ運ぶ。
「ドルチェミストをお持ちしました。こちらから、ティラミス、プリン、パンナコッタ、チョコレートムースでございます」
「まぁ……まるで宝石を散りばめたよう……」
「ピコピコのお菓子の話は、聞いたことがありません! きっと特別メニューですよ、ミア様!」
「そうなのか……」
うっとりとドルチェに見とれるミスティア様に、興奮気味にセシェルが説明する。
その様子を見たマリカ様が、俺に声をかけた。
「店長殿、お気遣い感謝する」
とても改まって、マリカ様が食事のお礼を言う。
突然のことに緊張して、俺は謙遜したような返事をしてしまった。
「とんでもない! 皆さんのおかげで生活にも慣れて、色んな料理を作る余裕が出来てきたのですから」
「――ふふ、ありがとう」
そこに返ってきたのは、あまりに素の女性の感謝の言葉で――
先ほどまでの杞憂など忘れてしまったように、俺はキッチンへと戻る。
そしてカウンターに座る三人のデザートを、盛り付けて出した。
「んーっ! 美味しい!!」
「店長さん、こういうのも作れるんだね」
和やかな甘い香りが、店の中に満ちていく。
食事をするみんなの笑顔が、とても誇らしかった。
「遠征の前に、ミアとこうして食事ができて良かった」
デザートを食べ終え、お茶を飲むマリカ様から出た遠征という単語。
途端に、心の中に暗い感情が押し返してくる。
「今度の遠征、オシハカ山脈ですよね……私、とても心配です」
オシハカ山脈――物語終盤で、四天王的な強敵と戦うところじゃないか!
ボスはストーリー分岐で変わるけど、いずれにせよ強敵だった。
そんな場所に、近々向かうというのか……?
「遠征といっても、現地調査に行くだけだ。それに何かあったら、すぐに撤退する」
「大丈夫ですよ、ミア様! セシェルもついてますから!」
自信に満ち溢れるセシェルが、ミスティアを安心させようとおどけて見せる。
「そうね、セシェルも一緒なら大丈夫ね。それに、お姉様はとっても強いもの。私ったら、つい心細くなってしまって……」
これ以上迷惑をかけまいと、気丈に振る舞おうとするミスティア様。
「また一緒に、ここで――ピコピコで食事をしましょうね」
このまま、終わってしまっていいのだろうか?
セシェルの、ミスティア様の、マリカ様の――今日の笑顔が、もう二度と戻ってこないのではないか?
そんなこと、俺は――
「あのっ――」
気が付くと俺は、自分でも意外だと思うようなことを口走っていた。
「その遠征、俺――当店も、同行させていただけませんか?」