037話 援軍
「ヤギが盗られたですって?」
モルテールン領の執務室にはペイスの素っ頓狂な声が響いた。幼さの残る、声変わり前の甲高い声だけにその場の皆の耳に残る。
「盗られたというのは語弊があります。御家にお持ちする前に、他の貴族様にお買い上げいただいたというのが正しいかと」
申し訳なさそうな顔をしたのは、行商人デココ。脇には弟子も控える。
彼はモルテールン領の領主とは最も縁の深い商人であり、先だって家畜の買い付けを依頼されていた。
その商人が申し訳なさそうにしている理由はただ一つ。注文の品を期日までに届けられなかったからだ。
普段は契約にうるさい従士長のシイツなども、その姿勢は同情的だ。
「強権をもって無理矢理買い上げるのなら、盗られたのと変わりませんぜ」
「力及ばず申し訳ありません。既に売り先は決まっているとお断りはしたのですが、やむを得ない事情があるからと言われまして、売らねば接収すると脅されましたので。何でも、急に大量の食料が必要になったとか。噂では戦争が始まったとかという話ですが」
「あぁ……」
行商人には未だ詳細な話は伝わっていないはずだが、それでも商人同士のネットワークでは既に戦争の話は広がっている。とりわけ、大店と呼ばれるような支店を持つ商会などは、情報伝達の速度と質も段違いであり、その恩恵を受ける商会の馴染みの行商人も多い。デココもその一人だ。故にのっぴきならない事情でヤギを買い上げたいと言われた時点で、逆らっても無駄だと判断することが出来たのは救いだった。
「徴発も強奪も根は同じですね。それで、無理矢理買い上げたのは何処の誰でしたか?」
「ルンスバッジ男爵様です。応対したのは代理の従士の方でしたが」
「あのルンスバッジ家か。やられたな。相変わらず機に聡い。全くもって陰険なことだ」
ルンスバッジ男爵家は、神王国南部地域の中でも比較的北寄りに領地を持つ領地貴族。南部貴族の常として小麦を始めとする農産物が主力輸出品目となっている領地を持ち、有事には補給の一助を担うことが多い。伝統貴族と呼ばれる歴史ある旧家の一つであり、王都決戦前は子爵家であった。大戦時には現王に対して敵対的中立の姿勢を見せたために降爵と領地の一部没収の処分を受け、男爵となった。
その為、新興貴族、特にモルテールン家を何かにつけて蔑む傾向のある家でもある。
何かあれば南部の新興貴族に嫌がらせをするので有名であり、今回のように戦争準備という大義名分があれば、嬉々としてそれを利用するであろうことはカセロールたちも理解するところである。
「男爵家に出張られては、しがない騎士爵家のうちでは文句も言い辛いか」
「こういう時に、姻族縁戚に有力貴族が居れば強いですがね」
「正式に姻族となったわけではないから、フバーレク辺境伯には言い辛い。そもそも、騒動の中心がフバーレク辺境伯のところだけに、事を荒立てて良い顔はされまい。戦争で忙しい時に、自国内で争っている場合かと言われるに違いない」
「良くて両成敗。悪くすれば、うちだけ事を荒立てた責任を取らされかねませんか。身分差というのは理不尽ってことですかい」
従士長シイツの言葉は、ある意味皆に共通する思いであった。若い頃から身分差に泣かされてきたカセロールはもとより、平民で、行商人故に市民権も持てないデココなどは心から同感するものである。
防衛の為の物資を集める最中に、物資を返せと要求する。男爵としては、嬉々として利敵行為とカセロール達を糾弾するだろう。防衛準備を邪魔した、という理屈で。
「ヤギが届かなかった事情はよく分かった。デココも、空荷になるにも関わらずうちまで出向いて説明に来たこと、ご苦労だった。それをもって、契約違反の罪も問わぬこととし、男爵との売買代金はそのまま経費補填に当てることを認めよう。ただ、うちも損をしているから、それ以上の損失補填は出来ん。それで納得してくれ」
「分かりました。ありがとうございます」
領主たるカセロールの言葉に、デココは安堵した。
幾ら事情があったとはいえ、注文の品を期日までに届けられなかったのは事実だ。今回のようなこともある為に、契約は半金か後払いと言うのが普通なのだが、今回は前金での契約。もしこれが余所の貴族であれば、契約違反である事実を盾に罰金や刑罰もあり得た。デココの立場からすれば、場合によっては逃げることだって選択肢とするべきところ。狼などに襲われるのは珍しいことではないので、襲われて死んだことにする場合もある。
しかし、デココはあえて手ぶらの空荷でモルテールン領へ説明に出向いた。誠実に話せば理解してくれるという信頼があってこその手ぶらの訪問であったし、カセロールとしても事情を斟酌するぐらいの度量は持っていた。
「それにしても、遠い東部の戦争の余波が、もうこっちまで届きはじめたか」
カセロールの嘆きにも似た呟きに、誰もが同意を意識する。一際大きく頷いたデココが、カセロールに向けて口を開く。
「物の流れは繋がっていますからね。一カ所で消費量が跳ね上がりゃあ、波及するのも当然だ。まだ三日も過ぎていないのに、すでに影響が出てきているとなると、相当にでかい戦なんでしょうよ。今までの小競り合いとは違って」
「そうとも限らないでしょうシイツさん。私ら商人の常識からいえば、便乗して一儲けを企む輩が居るのは珍しいことではないです。案外、男爵もそのくちでは?」
「だとしたら、うちに丸損させて自分はガッポリ儲けたことになる。あの業突く張りめ」
シイツやデココが不満をぶつけあう。
既に愚痴の披露会といった様相を呈してきた執務室の中、カセロールがふと目を横に向ける。そこには、じっと大人しいペイスの姿があった。
その視線に、シイツやデココも気づく。
執務室に居る主要な面々は、ペイスのお菓子にかける情熱を知っている。遊び場であったはずの裏庭を、幼い手で勝手に畑にするほどの、はた迷惑な熱意。
その想いを知る者には、大人しくしているペイスの様子は不自然であった。今回の事件は、彼の少年にとって看過できるはずもないのは自明の事。情熱を傾ける趣味を邪魔されたことに、怒って当然。それなのに大人しいのは実に不気味である。
じっと考え込む少年の様子は、嵐で荒れる前の静かな凪の海を想起させた。
「坊? どうしたんです」
「……」
恐る恐る、といった感じでシイツが声を掛けた。
二度ほど声を掛けなおしたところで、ようやく呼びかけに応える少年。
「これは、試練でしょうか」
「はい?」
ギラリとペイスの目が光る。
「僕の趣味を邪魔する人間は、徹底的に排除するべきです。舐めた真似を許していては、沽券に係わります!!」
勢いよく立ち上がるペイス。
鳶色の瞳には烈火の如き感情の迸りがあった。今にも大暴れしそうな暴走っぷりに、驚いたのは皆同じだった。
「落ち着け。とにかくまず落ち着け!!」
慌てたのがカセロール達大人組。落ち着くようにと、無理やりに椅子に座らせる。
そうでもしなければ、一人で男爵領に突っ込んでいきかねないと誰しもが考えたからだ。
「離してください。僕が男爵に話をつけてきます」
「落ち着けペイス。お前が怒る理由は理解する。が、男爵領に苦情を言いに行くのは許可できん」
「何故です。立場をかさに着て弱い立場の者から不当に奪うのを、黙っていろと言うのですか」
「そうだ」
何故自分たちが黙って奪われねばならないのかと、激高する気持ちはカセロールとて同感である。
しかし、立場がそれを許さない。
「男爵の側に想定される言い分にも、一定の道理が通る以上、下手に騒いではこちらが悪者にされるのだ」
「しかし父様」
「しかしではない。まずは落ち着け」
今は戦時だ。という理屈は、相当程度の無茶を通してしまえる正統性がある。
戦場に近い程、食料を始めとする物資が必要なのは当たり前だ。その意味では、モルテールン騎士爵よりもルンスバッジ男爵領の方が戦地に近い。物資の必要度合いが違うのは理解するべきであるし、今回の徴発の建前もそれである。
しかも今回は、徴発と雖も極僅かながら対価が支払われている。デココの経費補填に使われるにしても、奪ったのではなく買ったのだという建前は男爵側の配慮と言える。配慮を見せている以上、非道であると非難をすることもし辛くなる。
ヤギの購入代金を丸々損したペイス以外には、損をした人間が居ないのも悩ましい。ペイスが損失補填を訴えたところで、戦時の貢納は貴族の義務と言われておしまいである。
契約をたてに、デココに無理やり責任を負わせてしまうことは出来る。普通の貴族であればそれで金銭的な問題には折り合いをつける。だが、貴族の横暴と言われかねない行為である以上、ペイスやカセロールはこの手の行為を嫌うし、するつもりも無かった。
本来であればこの手の揉め事の解決は、最終的には軍事力で行わねばならない。言って分からない相手に自分たちの言い分を通す為の外交交渉の、行き着く先は力による解決でしかない。言って聞かぬならば殴ってでもいうことを聞かせるしかないのだ。
しかし、今は辺境伯領が侵略されているとき。ここで内紛を起こせば、非難されるのがどちらかなど明らかである。ことの正統性云々ではなく、実害を持ってモルテールン家が非難される。
父親に懇々と我慢の重要性を諭されるうちに、ペイスも落着きを取り戻してくる。怒りが覚めるわけではないが、それを内に収められるほどには頭が冷えてきたのだ。
「では、どうあっても僕のヤギは手に入らないということですか」
「神に奉げた供物とでも思うか、事故にでもあったと思って、諦めるのが普通だ。戦争が片付けば、事後の交渉の余地はあるが……まあ、難しいだろうな」
悲しい現実と政治に、ペイスの嘆きが残る。頭を押さえるようにしてうなだれると、青銀の髪が力なく顔を覆った。その心情は察するに余りある。
そんな中。
ヤギは諦めるしかないか、と皆が考えていたところで、一人違った意見を出す者が居た。モルテールン領の知恵袋とも言うべき頼れる従士長のシイツである。
「一つ、早めに損失を補填してもらえる手が有ることにはありますぜ」
男爵家の戦時徴発を補填してもらえる方法とは何か。
それに考えを巡らせたとき、その発想に辿りついたのは戦場経験を持つカセロールとペイスであった。その場のデココと弟子は、商人であるが故に思いつくことが出来ず、さりとて下手に自分たちに火の粉が飛ばぬようにもしなければならず、やむなく聞き役に回る。
「そうか、援軍として戦場に駆けつけることで、僕たちの物資調達に優先権を主張する……」
「その通り」
軍需物資であるという理由で徴発されたのならば、自分たちも軍需物資を受ける側になればよいとシイツは言っているのだ。戦時であるという理屈で無茶をされるのならば、自分たちもその無茶を言い返せるようになればいい。この場合、戦地に近いからという理由の徴発より、戦場に参戦するからという理由での物資調達の方が強い立場になる。男爵に物資返還を要求できるカードになり得るだろう。
お菓子作りの環境整備にヤギが欲しいというのなら、その権利を主張できる立場になっておけというのは、シイツの外交的センスの光る提言ではあった。
幸いにしてか不幸にしてか、辺境伯家の騒乱にモルテールン家が肩入れするだけの、婚約者という建前も存在する。仲の良さも喧伝できる上に、婚約者の実家に助力するのは色々な意味で名声や影響力が高まる。
ここで立場を確立できれば、打てる手は多くなるだろう。ヤギは預けただけであると主張することも出来るようになるだろうし、補填を男爵家ではなく辺境伯家に求めることも可能になってくるのではないか。という意見の一致に至るまで、それほどの時間は必要なかった。
「そうと決まれば、早速準備を」
「坊の我がままってのは、相変わらず急で忙しないですねぇ」
「僕の我がままではないです。不正義を正す為のやむを得ない出兵です」
「へえへえ、物は言い様で」
次の日、モルテールン家の援軍が辺境伯領に向けて出発した。準備期間が極めて短いのは、常から準備を怠っていないからでもある。
責任者としてカセロール。副官としてのペイス。従士としてグラサージュと、補給担当にニコロ。領民からの募兵が八名の総勢十二名。一騎士爵家としてはそれなりに大所帯と言えるし、数はともかく魔法使いが二人である。使い方次第では十分戦力になる。
そして、ペイスにとっては、義憤に燃える外征でもあった。
◆◆◆◆◆
戦いにおいて、攻撃側と防御側では防御側が有利と言われている。
特に、侵略を受ける側と防ぐ側であれば、その有利不利の差はより顕著になるというのがこの世界のみならず一般的な常識である。
その理由は幾つかあるが、一つの理由として攻め手側がどうしても地理に不案内になるから、というのが挙げられる。
どこに水場があるのか。兵や馬を休ませるのに相応しい場所は何処か。進軍可能な進路はどうなっているか。有利な戦場は何処か。軍事行動上必要な地理情報というのは、多岐にわたる。
守り手は自分たちの庭である以上、非常に詳しい。敵が来るとしたらどこの方角か。戦力からの経路の予想。途中で調達できる水や飼葉の量等も想定の範疇になる。
攻め手には、その手の情報が不足しがちである。従って、どうしても不利になる、というのは軍家の人間ならば必ず教えられていることである。
「敵は向こうから来るのだな」
「はい」
自らの部下へ言葉少なげに訊ねたのはスクヮーレ=ミル=カドレチェク。カドレチェク公爵家の嫡孫である。地位も高いために軍馬にまたがり、周囲に目線を乗せているが、その様子は何処か不安げにも見える。敵が来ると目される北の方角や、或いは周りの兵士たちの方を落ち着きも無く、さまよう様に目線を往復させている。
それも仕方がない。彼は急遽戦場に駆り出される羽目になったのだし、そもそも予想外の事態があった為だ。
今回の戦乱において、敵方の急襲はある意味で想定内であった。カドレチェク公爵が後ろ盾となったフバーレク辺境伯家を、隣国のルトルート辺境伯が脅威に感じるであろうことは明らかであり、その脅威に対する先制攻撃はかなり確度の高い予想として挙げられていた。時期としても、早ければすぐにでも行動を起こす可能性があると予見されていた。
では、何が予想外であったか、といえば、敵方の戦力である。
予想外に敵戦力が多かったわけではなく、むしろその逆。当初予想されていた敵戦力よりも、かなり少ない戦力でもって侵略してきたのだ。
攻め手三倍の法則と呼ばれるものがこの世界でも経験的に周知されているように、フバーレク辺境伯家の常備戦力や予想援軍総数から考えて、ルトルート辺境伯側は三~四万人程の軍勢を用意すると見られていたのだ。
それ故、フバーレク辺境伯家としても、まずは前線の防衛陣地を固めて守りに徹し、“偶々居た公爵嫡孫の救出”を理由にした、カドレチェク公爵家や他の貴族家からの援軍を待ち、呼吸を合わせて挟撃・殲滅を図る。というのが当初の防衛戦略であった。
しかし、明らかに少ない敵方戦力が知らされた時、陣地に籠った消極的防衛で無く、フバーレク辺境伯軍単独で打撃を与えての、積極的防衛が論じられた。援軍無しに対処できるのであれば、それに越したことは無いからだ。出た結論は積極的防衛への方針転換。辺境伯家重臣一同の、ほぼ満場一致の結論であった。
そうなってくると、“婚約者の実家に挨拶の為”駐留していたスクヮーレとその護衛戦力に立場が無くなってくる。
公爵家の助力という切り札を温存して、功績を独占したがるフバーレク辺境伯家の面々と、戦後の利権分配を見越して参戦を要求する公爵家の面々と。喧々囂々の議論の末、スクヮーレは敵方が略奪しに来るであろう、前線付近にある開拓村の防衛に当ることになった。
村一つから略取できる物資などたかが知れているし、それを集める敵部隊の数もそう多くは無いはず。という予想のもとで、一小隊五十名の公爵軍精鋭をもって守りを固めていたのだ。
開拓村防衛部隊の指揮官を任じられた公爵嫡孫。この役回りに求められるのは、程よい手柄と確実な勝利。勝ちすぎない程度の小さい戦果を公爵嫡孫の誉れとし、面目を立てつつも大きな手柄は他に譲るのが目的。公爵家精鋭五十名に、屈強な開拓村村民の徴兵数十名。一つの村を守るには、過剰とも言える戦力である。
絶対に負けられない初陣という緊張感に、手が汗ばむスクヮーレ。
これから命の盗り合いになるかと思えば、嫌でも体が強張る。
そんな青年指揮官の元に、しばらくして急報がもたらされる。息せき切って駆けこんできた年若い兵士が、慌ただしく報告する。
「敵が現れました。数はおよそ二十とのことです」
いよいよきたか、と馬上の手綱をきつく握る青年。それでも、自分のするべきことを為さねばならぬと使命感を奮い立たせる。
「すぐに戦闘準備だ!!」
途端に慌ただしくなる開拓村。
戦える村民の男手五~六十人が手に手に武器を持つ。最前線の開拓村には、家々に武器は必須なのだ。
その村民たちと、統率する三十人程の小部隊が揃って北にある村の出入り口を固めた。そして、二十人の直卒がスクヮーレを守る様にして村の中心にいる。
彼らが見つめる先は北の方角だ。
「敵は何処だ!!」
自ら駆け出したい衝動を堪え、スクヮーレは続報を問う。
敵が来たとの知らせを受けたはずなのに、固めた兵からは何の続報も無い。
補佐する者達の頭にも、疑問符が付きかけていた最中。続報は、最悪の内容と共にやってきた。
「若様、敵は南です」
「何っ!!」
完全に想定外の事態が早くも発生した。スクヮーレに焦りが出てくる。
敵が一直線に来れば北か東から来るはずである。南というのは完全に裏をかかれたことになる。
敵の進撃予想ルートと開拓村の脇には深い森がある。森の中を道が通っていると言って良い。地理に不案内な森の中などは遭難する危険性が極めて高いために、避けて通るはずだという予想が完璧に壊された。
「敵はどうやって裏に回り込んだのだ。地理には不案内なはずだろう!!」
「分かりません。しかし、今はそれを論じても始まりません」
慌てて動き出す者達は、混乱した。指揮官の青年が混乱しているのだから、その下の人間も混乱して当然である。北の方を固めていた数十人は、このまま北を固めるのか、はたまた後背の敵に備えるのかを決めかねて右往左往する。
しかも、更に悪い知らせは続く。
「敵増援。その数……およそ百!!」
「馬鹿な!!」
敵増援。
その数に、スクヮーレは戦慄した。小さな開拓村には過剰とも言える戦力を用意し、その数がおよそ百であった。敵は、その数をまるで知っていたかのような兵力を用意していたのだ。
「謀られたかっ」
あまりに周到な数。混乱した中にあっては、同数以上の相手に立ちうちも出来なかった。スクヮーレも必死に指揮を執った。その指揮ぶりは堅実であり、定石に則った巧みな指揮であったものの、やはり混乱を収拾するまでの被害が如何ともしがたい不利となっていた。
劣勢は覆いがたく、一人、また一人と倒れる兵が増えていくに従って、自らの不利が拡大していく一方であることを青年は悟った。
「撤退するしかないか」
「しかし、既に敵に囲まれております」
副官の言は正確に状況を伝えていた。
当初北に戦力を固めていたのが災いし、自分達直卒と北の塊とで分断された。その上で各個に撃破され、今は直卒が残るのみである。既に周りは敵だらけの有様。
「やむを得ん。血路を切り開いて撤退するぞ。敵の囲みの薄い所を狙って突撃する」
囲まれた敵の只中に斬り込み、活路を見出すしかない。その決意を固めたスクヮーレであった。初陣の若人とは思えない決断力は見事というべきではあったが、如何せん状況が不利に過ぎた。
青年は、勇気を振り絞って囲みの薄い所を探す。生死を掛けて突っ込むために。
だがしかし、その決意も一片の騒乱によって必要がなくなることになった。今まで統率だって自軍を押していた敵に、明らかな動揺と混乱。そして、撤退行動が見えたからだ。
何が起こったのか分からないスクヮーレは、この隙に逃げ出すべきかとも考えたのだが、そう考えるうちに敵がどんどん逃げ出している。
ますますもって訳が分からない。
「何だ? 何が起きているのだ?」
「分かりません」
今日は想定外の事が良く起こる日だ、などと埒も無いことをスクヮーレは考える。一度切羽詰まった状況になると、人というものは案外落ち着くものらしい。
何でも来い、と開き直った彼のもとに、一騎の馬が寄ってきた。見事な体格の馬であり、その馬の体躯には見覚えがあった。そして、馬上の者にも。
馬に乗っていたものは小柄であったが、スクヮーレの傍に寄った所で馬上からひらりと降りてくる。
そのまま軽く跪きながら、綺麗な声で口上を述べる。
「お久しぶりに御座います。スクヮーレ殿の危急に際し、縁故の情と友誼をもって駆けつけました。間に合いましたこと、心より安堵いたしました」
「遠路長駆のご助力心から感謝します。危ういところをお助けいただき、お礼の言葉もございません……ペイストリー殿」
口上の後に立ちあがった援軍の主。
さらりと銀髪を揺らす、ペイストリー=ミル=モルテールンその人であった。
次こそ…お菓子が出るはず(次話6月5日投稿予定)