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この世界の魔法の訓練とは、時に演劇と書道に似ている。
声で《ことば》を使うには、声量、発音ともに正確な発声が必要なので、ボイストレーニングは必修だ。
同様に文字、つまり《しるし》を使うには正確な記述が必要なので、運筆の訓練も必修となる。
結果として、魔法使いの筆使いは綺麗なものになる。
有力者に仕える魔法使いなどは、書記官を兼ねて務める場合も多いらしい。
僕もその例には漏れず、ガスにさんざん仕込まれた結果、けっこう綺麗に字が書ける。
「……ん」
執務室。
魔獣の羽を使った羽ペンで、あらかじめ考えておいた簡潔で格調ある文章を左から右へ、丁寧に記してゆく。
紙は手に入る限りで一番よいものだし、インクも上質のものだ。
書き終えると、吸い取り砂を使って余分なインクを取って、紙を丁寧に畳む。
まず上下を三つ折に折り込んで文章を隠して、それから横方向に三つ折に折り込むと、封を当てる準備をする。
朱色の蝋を少し火で炙り、垂らして閉じて、去年作ったばかりの印章指輪で印を押した。
盾のなかに、輪廻の円環を照らす灯火のシンボル。僕、というか『マリーブラッド家』の紋章、家紋だ。
これをどうするか色々と考えはしたけれど、結局、グレイスフィールの『円環と火』のシンボルに、騎士を示す『盾』のシンボルに落ち着いた。
最後に、きちんと裏面に、差出人である自分のサインと、宛名が入っていることを確認する。
宛先は《学院》の賢者、《惑わしの司》ハイラム師だ。
「……よし」
手紙の中身は、学院の文献調査の依頼だ。
あの森の王の座所で、《ヒイラギの王》が語った言葉。
――鉄錆の山脈に、黒き災いの火が起こる。
――火は燃え広がり、あるいは、この地の全てを焼きつくすであろう
――あの地は今、山の民の黄金を寝床とし、巨大なる邪炎と瘴気の王が眠りを貪る地。
ドワーフさんたちの昔話。
――竜が来るぞ。
――竜が来る! 竜が来る! ヴァラキアカ! 災いの鎌が下る!
「邪炎と、瘴気の王」
正直に言おう。
鉄錆山脈にいる災いの火、邪炎と瘴気の王とやらが、もし《王級》のデーモンだったなら、勝利をもぎ取る自信はあった。
たとえ取り巻きが居ようと、それでも何とかできる可能性は十分ある。その程度の経験を、この三年で積み上げてきた。
最悪の最悪、どうしようもなくなっても、《喰らい尽くすもの》という切り札も存在する。
何かちょっとしたミスで頓死しないかぎり――その可能性はあらゆる戦闘において、常にあるのだけれど――僕は、戦いに勝てる。
けれど、
「《神々の鎌》」
確かエルフ語で、六つの星からなる星座、《北の鎌》を指す言葉だ。
把手のように連なる二つ星と、刃のように湾曲した四つ星からなる星座で……
それぞれの星には雷神、地母神、炎神、精霊神、風神、知識神の六大神の名を当てられている。
「災いの鎌。神々の鎌」
それだけの名で、誇り高きエルフたちから呼ばれ、恐れられるほどの。
多分、間違いなく、真性かつ太古から生きる――
「ドラゴン」
◆
竜、ドラゴンと戦ったことはない。
ブラッドの武勇伝にすら、登場はしなかった。
始祖神の創世の時に生まれた竜たちは、善神と悪神たちの戦いにおいて、神々に次ぐとされた、その比類ない力を奮った。
強靭な鱗に覆われた、しなやかで巨大な体躯、生得的に《ことば》を操る知性。
風を捉える力強い翼。樹木のように太い牙、名剣のように鋭い鉤爪。
彼らの多くは、今ではこの世界から姿を消している。
神々の戦いで数を減らしすぎたためであるという説もあるし、窮屈なこの物質界を脱して神々の次元へと昇華を果たしたのだという説もある。
諸々の説の真相がどうであれ、この世界に竜は、もう殆どいない。
多くのきらびやかな伝説と、かつて竜の眷属であったとされる種々の亜竜たちが、彼らが実在したことを証すのみだ。
「……竜」
繰り返そう。彼らの力は、神々に次ぐ。
ガスに半身を殺され、力を削がれていたであろう不死神スタグネイトの《木霊》ですら、あれほど危険で、絶望的で。
……僕は一度、あの時、死に瀕した。
灯火の女神さまの救いの手がなければ、そのまま死んでいただろう。
不死神のもたらした恐怖を、思い出す。
ぞくりと背筋が震えた。
「……《木霊》と、竜」
どちらが強いか。それは、わからない。
けれどスタグネイトよりも大幅に弱い、なんてことだけは絶対にない。
状況的に、おそらく戦わざるをえないにしろ、慎重を期したい。
そう思って、時間に余裕があるうちに、何か手がかりがないかとハイラム師に調査を依頼することにしたのだ。
ガスもかつて所属していた《賢者の学院》には様々な書籍と、多くの才知が集う。
森を飛び出し、知識を求めたエルフが所属している場合もあるようだし、古い伝承などが引っかかるかもしれない。
「ああ……」
嘆息する。……憂鬱だ。戦いたくない。
そりゃあ僕だって男の子だし、ブラッドに鍛えられた戦士だ。
強さには、それは少しは拘りがある。
けれどそれと同時に、もう何度も実戦をして分かったことがある。
戦士同士の腕比べ、試し合いならばともかく……本当の命のやりとりに浪漫なんて無い。
無いのだ。
そこにあるのは、ただただ過酷で残酷で油断のならない食い合いだけだ。
「嫌だな……」
久々に、手が震えている。
同格以上の相手。負ける公算の高い相手。
自分の命を無残に、残酷に奪い去っていくであろう相手。
「嫌だ、なぁ……」
自然、マリーのことを思い出した。
抱きしめられた時の、焚いた香のいい匂い。
ウィル。ウィリアム。僕をそう呼ぶ、おかあさんの声。
「……怖いよ」
小さく、そう零した時だ。
「ビビってんじゃねぇぞ!」
思わずびくりと肩を震わせた。
誰かに聞かれたのかと思ったからだ。
けれど、
「おら、もう一本!」
それは、窓の外からの声だった。
覗いてみると、メネルとルゥが模擬戦をしていた。
◆
「そら!」
「ぐ……っ」
以前に鍛錬用に作った模擬剣を手に、防具をつけたメネルが、ルゥをあっさり蹴倒した。
「防具の上から打つの躊躇っててどーすんだよ!
ウィル以上にお優しいっつーか甘っちょろいなテメーは!」
呻くルゥを睥睨して、メネルが挑発する。
「おら。どーした、もう降参か? 尻尾巻いて逃げ帰るか、お坊ちゃんよ?」
「ま、まだまだ……!」
ルゥが模擬剣で打ち掛かる。
メネルは避けさえしなかった。
防具の額当てで、真っ向から振り下ろされた模擬剣を受ける。
鈍い衝突音が響いても、反射で目を閉じさえしなかった。
「おい、真っ向当てててそんなもんか? そのぶっとい腕は飾りか? オイ?」
模擬剣を受けたまま、メネルがにじり寄り、睨め付ける。
ルゥがびくりと怯んだ。
「おーおー、分かりやすくビビったな? そのままワンワン泣いて逃げるか、ほら」
「に、逃げないっ!」
「じゃあもっと打てっ! 力込めてみろヘタレが!」
「うわぁああああっ!!」
振り回される模擬剣を、メネルが防具でうまく受ける。
ルゥが全力で振り回すそれは、もう防具越しでもかなりの衝撃があるはずなのに、痛がる素振りを見せすらしないのは流石だ。
――メネルは最近、ルゥとの訓練で追い込み役を一手に引き受けてくれている。
ルゥはどうにも優しすぎる。
筋力の鍛錬では物凄い力を発揮するし、重量物を持ちあげるとなれば僕にも匹敵する。
なのに実際に模擬剣で打ち合ってみたり、組み合ってみると、筋力に劣るはずのメネルに打たれ、投げられる。
気が優しいのは美徳ではあるけれど……戦士としては、欠点以外の何ものでもない。
メネルと二人で相談した結果、「これは動きを体に染みこませるしか無い」と結論した。
そういうわけで今、メネルは憎まれ口を叩き、蹴倒し、追い込んでは、ひたすらルゥに打ち込ませている。
僕が鳥獣を相手に殺し慣れを仕込まれたように、「多大なストレスのかかる戦闘という状況」と、「生きてる相手を全力で叩く」ことに慣れる。
……そこが第一歩だ。
「ああああああっ!!」
「が……っ!」
物凄い音がした。
横薙ぎに薙ぎ払われたルゥの模擬剣が、メネルを吹き飛ばしたのだ。胴の防具に当てたうえで、だ。
…………間違いなく痛い。むちゃくちゃ痛い。
「へっ――今のはなかなか、気合入ってたな」
けれど、メネルはそれを表に出さなかった。
若干、眉間に皺を寄せてたくらいで、無理やり平然とした表情を保っている。
「その調子だぜ」
凄くいい先生ぶりだ。
実は面倒見もいいし人生経験もあるし、ひょっとして僕よりも教える面では資質があるのかもしれない。
「あ、ありがとうございますっ!」
そして、ルゥはまっすぐだ。
怯むことはあっても、相手を気遣って手が緩むことはあっても、それでも大声を出し、凄み、迫るメネルを相手に目が死んでいない。
きらきらと輝くハシバミ色の瞳で、叫びをあげて、圧倒的に格上の戦士であるメネルに向かっていく。
――凄いな、と思った。
一戦ごとに、彼が少しずつ強くなっていくのが見える。
今日できなかったことが、次の日にはできるようになっている。
次の日にできなかったことも、その次の日には。
それはどれも、小さな変化だ。
時々は努力の方向を間違えて、少しだけ後退してしまうこともある。
だけれど、その変化を10日続ければどうだろう。
20日続ければ。30日続ければ。50日続ければ。100日続ければ。1000日続ければ。
ずっと続ければ、どうなるだろう。
戦士というのは、そう生まれたから戦士なのではない。
幾度も傷つき試行錯誤し、小さな小さな成長を繰り返して、そして戦士に成るのだ。
「…………」
窓の下でまたメネルに蹴倒され、地べたに転がされるルゥは、どろどろに汚れきっている。
でも僕には、彼の姿が宝石のように輝いて見えた。
まだ人の手が入る前の、不揃いに輝く石。
これから削られ、磨かれ、きっともっと美しく輝いていくのだ。
そう思うと、なぜだか少し不安が和らいで、優しい気持ちになった。
――ブラッド。
もしかしてブラッドも、こんな気持ちになることがあったのかな?