戦国最後の大合戦だった大坂の夏の陣では真田信繁(通称幸村)率いる赤備えが徳川家康の本陣に迫り、さすがの家康も軍旗を捨てて逃げたとされる。結果的には敗北したが、豊臣方にとって最後の意地を見せた戦いだった。この時代、鎧兜(よろいかぶと)に加えて、旗指し物、やり、太刀などあらゆる武具を朱塗りにした部隊は「赤備え」と呼ばれ、特に武勇に優れた名将が率いた。鋭い錐(きり)のように赤備えが襲いかかると、敵は戦線を維持できずに崩壊したという。部隊全てを赤に統一する赤備えを最初に考案したのは甲斐の武田信玄らしい。信玄股肱(ここう)の勇将、飯富虎昌(おぶ・とらまさ)がこれを率い、没後は弟の山県昌景がこれを継承、長篠の合戦で戦死するまで武田の先鋒(せんぽう)を務めた。武田氏の滅亡後にその旧臣を召し抱えた徳川氏譜代の井伊直政は、武田にあやかった井伊の赤備えを編成し、小牧・長久手から関ケ原まで徳川の先鋒を務め、「井伊の赤鬼」と恐れられた。そして赤備えで最も名高いのが、真田信繁である。
上田合戦、大坂の陣で活躍
真田信繁は永禄10(1567)年または元亀元(1570)年、武田信玄に仕える信濃国小県郡の国衆真田(当時は武藤)昌幸の次男として生まれた。幼名源二郎。真田本家の伯父信綱、昌輝が長篠の合戦で討ち死にしたため父昌幸が真田氏を継いだ。
天正10(1582)年3月には織田・徳川連合軍が侵攻(甲州征伐)。昌幸は当初、自身が支配する岩櫃城に武田勝頼を招いて、徹底抗戦しようとまでしたが、武田が滅亡した後は信長に恭順して領土を安堵(あんど)された。この際、信繁は人質として信長の部将、滝川一益のもとに送られ、さらに本能寺の変の後は上杉景勝のもとに送られた。
天正13(1585)年には第一次上田合戦において昌幸、兄信幸とともに寡兵にもかかわらず徳川軍を撃退、豊臣と徳川が和睦した後は豊臣秀吉に馬廻(うままわり)衆として仕え、大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えた。秀吉死後の慶長5(1600)年、関ケ原の合戦では父と共に西軍に加勢し、東軍についた信幸とはたもとを分かつ。
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