高岡藩
高岡藩(たかおかはん)は、下総国香取郡高岡村(現在の千葉県成田市高岡)の高岡陣屋に藩庁を置いた藩[1]。1640年に大目付の井上政重が大名に列した。初期には定府であり、高岡を居所と定めたのは3代藩主の時である。以後廃藩置県まで譜代大名井上家が治めた。存続期間の大部分において石高は1万石。
歴史
編集高岡周辺は、中世には大須賀荘の一部で[2]、高岡にある天台宗の寺院・眞城院は寺伝によれば応永3年(1396年)に創建されている。高岡村は江戸時代初期には佐倉藩領となっていた[2]。なお、近世に近隣の
藩祖である井上政重(井上正就の弟)は徳川秀忠・家光の2代に仕えて大坂の陣などで功績を挙げ、御書院番士・大目付(当時は惣目付という名称)などを歴任して次第に加増を受け、島原の乱でも戦後処理などで功を挙げた。こうした功績によって寛永17年(1640年)6月12日、政重は6000石を加増されて1万石を領する大名となった[6]。ただし、当時は高岡に陣屋は築かれず、江戸に定府していた。政重はその後もキリシタンの取締りのために宗門改役を設置し、長崎出島における交易制限を行なうなど、鎖国体制の確立に尽力した。この功により寛永20年(1643年)5月23日、3000石を加増された。政重は万治3年(1660年)7月9日に、加齢を理由として家督を井上政清に譲って隠居する。
第2代藩主・政清のとき、弟の井上政則に1000石、井上政明に500石を分与したため、高岡藩領は1万1500石となる[6]。第3代藩主・井上政蔽のとき、高岡に陣屋が築かれた(高岡陣屋)[7]。また、弟の井上政式に1500石を分与したため、高岡藩領は1万石となった[7]。高岡藩の領地は上総・下総に分散しており、早い時期から財政難に陥っていたという[8]。元禄年間、政蔽は財政家として知られる松波勘十郎(良利)を招聘して財政再建を委ね、成功したとされる[9]。
高岡藩は尾張藩とつながりが深く、第6代藩主・井上正国は徳川宗勝の十男、第7代藩主・井上正紀は尾張藩の付家老家である竹腰勝起の次男である。第10代藩主・井上正和は文久2年(1862年)に江戸藩邸内に藩校・学習館を創設した[8]。儒学者朝川善庵門人の随朝欽哉などが教授し、藩士だけではなく庶民の入学を許可した開放的な藩校であった。
譜代井上家は他に常陸下妻藩主家もあり、みな明治維新を迎えている。
最後の藩主・井上正順は明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となる。2年後の廃藩置県で高岡藩は廃藩となり、高岡県となる。のちに高岡県は新治県を経て千葉県に編入された。
歴代藩主
編集- 井上家
幕末の領地
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『房総における近世陣屋』, p. 22, PDF版 40/313.
- ^ a b “高岡村(近世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年3月7日閲覧。
- ^ 山村順次. “滑川”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2022年3月7日閲覧。
- ^ a b c “滑川村(近世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年3月7日閲覧。
- ^ a b “猿山村(近世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年3月7日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.253。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.254。
- ^ a b 大谷貞夫. “高岡藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2022年3月7日閲覧。
- ^ 林基. “松波勘十郎”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2022年3月7日閲覧。
- ^ 『歴史人 八月号 江戸三百藩』KKベストセラーズ、2018年7月6日。
参考文献
編集- 『千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋』千葉県教育振興財団、2013年 。
関連項目
編集外部リンク
編集先代 (下総国) |
行政区の変遷 1640年 - 1871年 (高岡藩→高岡県) |
次代 新治県 |