[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/

香櫨園

兵庫県西宮市の地域名

香櫨園(こうろえん)は、兵庫県西宮市の地名である。香枦園(読みは同一)とも書く。

香櫨園こうろえん
夙川公園と甲山。阪急夙川駅付近から浜夙川橋にかけて『夙川鯉のぼり』が行われる。
夙川公園甲山阪急夙川駅付近から浜夙川橋にかけて『夙川鯉のぼり』が行われる。
日本の旗 日本
都道府県 兵庫県
市町村 西宮市
隣接自治体

西宮市

  • 松ヶ丘町
  • 久出ヶ谷町
  • 松生町
  • 高塚町
  • 大谷町
  • 深谷町
  • 木津山町
  • 結善町
  • 大井手町
  • 寿町
  • 千歳町
  • 安井町
  • 神楽町
  • 産所町
  • 社家町
  • 荒戎町
  • 建石町
  • 前浜町
  • 泉町
  • 西波止町

芦屋市

  • 楠町
  • 春日町
  • 打出町
  • 大東町
旧自治体 武庫郡大社村
開発期間 1907年

西宮七園の一つに数えられる高級住宅街である。

概要

編集
 
かつて存在した『香櫨園遊園地ウォーターシュート』

名称は1907年明治40年)に大阪船場の砂糖商・香野蔵治と櫨山喜一[注釈 1]が夙川西岸の羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町周辺地域(現在[いつ?]阪急神戸本線夙川駅北西部)に両者の名前を1文字ずつ取り名付けて開設した香櫨園遊園地に由来する[2]。当時関西最大だったこの遊園地は、開園後2年で外国人経営の土地会社サミエル商会の手に渡り、1913年大正2年)に廃園。一部の施設は河口へ移った。

1920年(大正9年)の阪神急行電鉄開通前後に「浜香櫨園住宅地(37,000坪)」「夙川香櫨園住宅地(1918年、150,000坪)[注釈 2]」が建設され高級住宅地となった[4]阪神電気鉄道が遊園地経営に関与していたために、阪神香枦園駅(現・香櫨園駅)は移転後の遊園地の付近にある。そのため、阪急は住宅分譲に「香櫨園」の名を使うことはできなかったため、阪急沿線では住宅名に「夙川」と付けている。

1937年(昭和12年)5月、西宮都市計画区域(西宮市芦屋市区域)の六甲山系、武庫川夙川芦屋川、香櫨園浜、芦屋浜で風致地区が指定され、香櫨園を含む夙川沿いの地域では、緑豊かな都市環境が維持され、六甲山系、夙川、芦屋川、海浜を結ぶ公園緑地系統(パークシステム)、緑のネットワークが都市計画として位置付けられた[5]

夙川河川敷緑地(夙川公園)、片鉾池などの公園緑地をはじめ、海岸はかつて香櫨園海水浴場として親しまれた御前浜公園(香櫨園浜)。東には西宮砲台(国の史跡)、西宮マリーナが立地する。他には、夙川公⺠館(松下記念ホール)[注釈 3]西宮市教育文化センター西宮市立中央図書館[注釈 4]西宮市大谷記念美術館辰馬考古資料館菊池貝類館などの公共施設博物館美術館が立地している。

阪神間モダニズム期に建てられた主な施設

編集
(参照:[7][8][9]

地域

編集
 
夙川香櫨園経営地案内図

(※以下の地域区分は推定)

参照:[10][11][12][13]

旧夙川香櫨園経営地

編集

(夙川地区[注釈 6]

備考:[注釈 7]

殿山町
町名は高貴な身分やその屋敷を「殿」と呼び、その殿が多い小高い地()であることから名付けられた。
雲井町
町名は羽衣を着た天女が舞いながら上る雲井から名付けられた。
相生町
町名はこの地はが自生した荒地だったので、相生(ホテル「パインクレスト」も「松峯」の意)の名が選ばれ名付けられた。町内に阪急夙川駅がある。夙川沿いに「こほろぎ橋」が架かる。
松園町
町名は相生町と同様の理由から松園の名が選ばれ名付けられた。
霞町
町名は雲井の縁語である霞から名付けられた。町内にカトリック夙川教会がある。
羽衣町
町名は松の枝に掛けられる天女の羽衣から名付けられた。町内に阪急夙川駅、夙川公民館、片鉾池がある。夙川沿いに「羽衣橋」および「羽衣橋北歩道橋」「片鉾橋」「守具川橋梁」が架かる。

旧森具区

編集
郷免町
1938年(昭和13年)字郷免・東郷免のほか、下ノ池・山ノ下・宮ノ上・蓮(レン)堀・屋敷の各一部が合併し設立。芦屋郷の直轄地で租税()を郷の諸経費に充てたため「郷免」の名がついたとされる。阪神国道(現・国道2号)や阪急神戸線の開通により宅地化され国道沿いは商業地化された。町内に森具の宮須佐之男神社、阿弥陀寺がある。
弓場町
町名は神事の場「弓場」から。1938年(昭和13年)に新町名として宇前田を中心に郷免・堀切・屋敷の各一部が合併し新町が出来たことによりこの町名となった。町内に香枦園会館がある。
屋敷町
屋敷は集落を意味し旧森具(守具)村の中心で家屋が集まっていた所が元の字屋敷で1938年(昭和13年)に屋敷町となった。
御茶家所町
1938年(昭和13年)設立。もとは西宮市森具の一部。廣田神社戎神社神輿が遠く神戸和田岬まで渡御する祭礼が平安時代末から始まり戦国時代末まで続いた。両社、西国街道中国街道が合流したこの地で合わさり、供奉の供ぞろえをしたという。ここで行装を整えつつ茶の一服でもしたのか、町名の由来ともなった御茶家所と称する小社があったという。この神輿が和田岬に向かった途路には「茶屋」の地名が点々と残されている。1964年(昭和39年)大手前文化学院が新築され1966年(昭和41年)大手前女子大学が開校。夙川沿いに「夙川橋」が架かる。
松下町
1938年(昭和13年)設立。森具集落の東部は字松ノ下と呼ばれていた。これは夙川堤防が未整備で(夙川堤防が都市公園として本格的に整備されたのは1932年(昭和7年)以降)川堤は松林が広がり、その土手下に位置したための呼び名である。香櫨園遊園地廃園後、住宅地として発展した。町内に阪神香櫨園駅辰馬考古資料館がある。夙川沿いに「夙川橋」が架かる。

旧西宮町

編集
宮西町
戎神社の北西に位置した字宮西・古宿・市庭・川東の各一部が1926年(大正15年)に合併し設立。阪神電車の開通後住宅地化され町内を南北に通る幹線市道の両側は商業地となっている。町内に阪神香櫨園駅がある。夙川沿いに「夙川橋」が架かる。
市庭町
1875年(明治8年)字市庭となるが、字名と旧町名が併用された。1889年(明治22年)西宮町、1925年(大正14年)からは西宮市の町名となる。1926年(大正15年)・1927年(昭和2年)西宮市大字なしの地域の一部を編入。「イチ」の語源は「イツく(神に仕える)」で市とは神聖な所を意味する。他の説では「市」は交通要地を指す「五十路イツジ」や「集路イルチ」を語源とするという。「摂津名所図会」では「イチバ」と読まれている。イチバは市場の文字に統一が進み、一方で近世以降、西宮のイチの中心が本町方面に移ったため市庭は(市の中心だったことも忘れられ)「イチニワ」とよばれるようになった。夙川沿いに「夙川橋」が架かる。

旧浜香櫨園住宅地および旧葭原・川添住宅地

編集

備考:[注釈 8]

川西町
町名は「夙川の西の町」を意味し、1926年(大正15年)に大社村森具の一部(字御茶家所・松ノ下・当田・前田)と西宮町(当時、西宮は町制を敷いていた)の一部(字風前・黒敷・中浜・堀切川・溝尻)が合併し設立。町内に香櫨園市民センターがある。夙川沿いに「夙川橋」「川添橋」「新翠橋」「翠橋」が架かる。
川東町
夙川の東にあり旧字名の川東を継いで1930年(昭和5年)に川東町となった。香櫨園駅開設と共に閑静な住宅地になったが、1963年(昭和38年)の国道43号線、続いて1970年(昭和45年)の阪神高速道路の開通により、町域北部の住宅環境は大きく変化した。建石筋に面する町域東部もまた商業地域となっている。夙川沿いに「夙川橋」「川添橋」が架かる。
川添町
西浜新家の一部だったが夙川に沿うところから1930年(昭和5年)に「川添町」と改称。香櫨園駅開設により住宅地化が進んだ。1985年(昭和60年)に西宮市教育文化センター(中央図書館・郷土資料館・市民ギャラリー)が開設され、町域は夙川流域に散在する美術館博物館をつなぐ夙川文化ゾーンの一角を担っている。夙川沿いに「新翠橋」「翠橋」「葭原橋」「浜夙川橋」が架かる。
中浜町
字宿前・黒敷・中浜・堀切川・溝尻が合併し1926年(大正15年)に設立。町名に採られた字中浜は付近が海浜だったことに因むという。町内に西宮市大谷記念美術館西宮市立香櫨園小学校がある。
堀切町
1926年(大正15年)に旧森具から西宮に編入された字堀切川・古新田を中心に、西宮に属した夙前の一部が合併し成立した町名である。堀切川は文字通り地を掘って切り通した川、つまり人工的な用水路を意味する普通名詞である。
上葭原町
中葭原町
下葭原町
上葭原町・中葭原町・下葭原町はいずれも1926年(大正15年)に設立した。町名は付近の大部分が葭原ヨシハラと呼ばれていたことに因む。その葭原の名の由来は、隣の芦屋市平安時代の葦屋の名に因むように、このあたり一面が葦原であったからという。「アシ」が「し」と同じ発音であるのを嫌い、逆に「よし」と呼んだ。江戸葦原に造った遊里を「吉原」と呼んだのと同じ発想である。この葦が繁った湿地も夙川などの運ぶ土砂で近世には田になっていたらしく、1883年(明治16年)刊行の「西宮町誌」にも(当時葭原以南は西宮所属だった)「田圃タンボタリ」とある。その後、1920年(大正9年)から耕地整理の名で行われた都市計画で住宅地化が次第に進んだのは川西町・中浜町・堀切町と同様である。1940年(昭和15年)、13代辰馬吉左衛門甲陽高等商業学校を設立し、1941年(昭和16年)辰馬家が中葭原町一帯に所有する4万余坪のうちから8千余坪を割いて敷地とし校舎を建てた。同校は1944年(昭和19年)に甲陽工業専門学校となり、1948年(昭和23年)廃校となった。旧校舎はその後、甲陽学院中学校の校舎としてある。夙川沿いに「葭原橋」「浜夙川橋」が架かる。
大浜町
1926年(大正15年)設立。1955年(昭和30年)代頃までは文字通り白砂青松の海岸に回生病院とスカル(一人漕ぎ軽漕艇)やボートを貸す家があったのみである。大浜の「大」は「大きい」と共に「立派な」の意味をもつ美称である。町内に回生病院がある。夙川沿いに「浜夙川橋」が架かる。

その他近隣地域

編集
結善町
もとは大社村越水・西宮市大字なしの地域の各一部。旧字ケチゼンに由来し町名は住宅地にふさわしい嘉字を充てた。大正9年に阪急神戸線が開通したのに伴い夙川駅周辺の区画整理が行われ、事業完了の1930年(昭和5年)ケチゼンの他、大井出・南郷・満池谷・越水字中山の各一部が結善町となった。また、夙川堤防改修と動力精米の普及で長閉かな水車場風景に代わり、閑静な住宅地が誕生した。1955年(昭和30年)夙北市場を開設。町内に1938年(昭和13年)竣工の旧山本家住宅がある。
大井手町
1930年(昭和5年)設立。1920年(大正9年)阪神急行電鉄神戸線が開通し市街地化が始まる。町名は夙川の伏流水が湧く井手による。夙川沿いに「こほろぎ橋」「大井手橋」が架かる。
寿町
1926年(大正15年)設立。もとは西宮市大字なしの地域の一部。町名は1924年(大正13年)の区画整理[注釈 9]前、路傍に地蔵五輪塔が多くあったため仏教の「無量寿」から「寿」を採って名付けられた。夙川沿いに「羽衣橋」および「羽衣橋北歩道橋」が架かる。
千歳町
1926年(大正15年)設立。町名は町域の西の夙川堤に寿命の長さをめでられる松林があるうえ、北側に寿町が立地するのに合わせて名づけられた。1934年(昭和9年)芸術家学生サロンであった喫茶店ルージュ・ラ・パボーニ』が開店した。夙川沿いに「片鉾橋」が架かる。
安井町
1926年(大正15年)設立。町名は旧字名による。近くに「大井手」の地名もあることから夙川の伏流水の湧く地でもあったので「井」がついたと推定される。1926年(大正15年)西宮第三尋常小学校が設立。
神楽町
1927年(昭和2年)設立。1875年(明治8年)の地租改正の時、制定された字名の一つに神楽田があり町名のもとになった。1933年(昭和8年)の川堤改修整備まで付近一帯は田んぼが広がり、夙川の両側もが茂っていた。神楽田には立木5、6本で囲まれた夙川伏流水の湧く井戸があり、1935年(昭和10年)頃まではその水が西宮神社にひかれていた。1926年(昭和元年)には町内を貫いて国道2号線が開通したが、国道北側に5、6軒、南に10余軒の人家しかなく、広い国道は若い衆が自慢の自転車をのりまわす場で、夙川橋の所には用水呑場が設けられていた。1936年(昭和11年)の西宮市鳥観図によると西宮ダンスホールがあった。町内にさくら夙川駅がある。夙川沿いに「夙川橋」が架かる。
荒戎町
1930年(昭和5年)設立。町名は1872年(明治5年)頃まで置かれていた沖之荒恵美須神社にちなむ。
建石町
1930年(昭和5年)設立。辰馬本家酒造により1874年(明治7年)から大正期にかけて15の新田蔵が建設され、周囲に社宅が建ち、ついで内外綿株式会社紡績工場の社宅も建ち並んだ。こうした浜手の人口増加に対応して、1930年(昭和5年)に西宮第四尋常小学校が開校し直後に建石小学校と改称された。

旧越木岩新田

編集
松ヶ丘町
1938年(昭和13年)に始まり1944年(昭和19年)に完成した久出ヶ谷土地区画整理事業に伴い1943年(昭和18年)に設立した新町の一つで字樋之池から分立。東半の丘に松が自生しており町名の由来となった。
久出ヶ谷町
1938年(昭和13年)設立の久出ヶ谷土地区画整理事業地(事業完成は1944年(昭和19年))の一角に旧字久出ヶ谷の他、菊ヶ谷・福井谷・樋之池南側の各一部が併さって1943年(昭和18年)に設立。久出川沿いにが広がり初夏にはいちご狩りの人々で賑わったという。町内の西宮市立夙川小学校1924年(大正13年)阪急甲陽線が開通し翌年に苦楽園口駅が設けられるに及び周辺が住宅地として発展したのに対応して1936年(昭和11年)に開校した。
松生町
南越木岩町の南、旧西宮市越木岩字久出ヶ谷・樋之池・樋之池南側の森具の一部が1943年(昭和18年)に合併して設立した町で、町名としては付近に多く松が自生していたことに因んだ。松蔭続く夙川公園や屋敷の見越し松にその名残を窺わせる。

旧香櫨園鉱泉周辺

編集
高塚町
1943年(昭和18年)設立。町名は百基以上あったという八十塚古墳群の東高塚、中高塚、西高塚に因む。新田開発や宅地開発でその大部分が失われ、稲荷山と通称された丘陵の頂部に東高塚1基が残る。大正期の地図には高塚山の辺りに香櫨園鉱泉の名がみられる。住宅地として発展したのは1955年(昭和30年)代以降で、マンションなども増え、1985年(昭和60年)代に入ると町内総戸数も二百戸を超えた。
大谷町
旧字大谷。昭和初期まで木造の旧国鉄官舎群が建ち並んでいたが、1965年(昭和40年)代には鉄筋コンクリート中層住宅に建て替えられた。また一般住宅も増加し市内有数の人口密度の町となった。
深谷町
旧字深谷。1943年(昭和18年)に深谷町となったが1965年(昭和40年)に町域の一部を芦屋市へ分離し代わりに岩園町の一部を編入した。
木津山町
1943年(昭和18年)設立。町域の北部は1937年(昭和12年)設立。1944年(昭和19年)完成の久出谷土地区画整理事業で住宅地化された。町内の神戸海星女学院マリア幼稚園は、1954年(昭和29年)夙川カトリック教会内に設立された後、1955年(昭和30年)現在地へ移転した。同園の敷地は大神土地株式会社社長旧宅である。

御前浜周辺

編集
前浜町
1930年(昭和5年)設立。旧西宮町の西海岸に位置し、1930年(昭和5年)の町域・町名の大改正まで文字どおり地名も字西浜であった。また、浜の名が示すように、もとは夙川の堆積や海流でできた砂地だったが、長年の農民の努力で田畑になっていた。町名改正に際しこの地域が前浜と改称されたのは、単に「すぐ前が浜」だからではなく西宮の歴史的地名「御前浜」に因んで名付けられた[15]。大正期、泉町の内外綿株式会社工場に隣接する地域が住宅地となっていたほかは畑地であった。1929年(昭和4年)辰馬本家酒造会社により『白鹿館』が建設された。西部は住宅地としてある。夙川沿いに「浜夙川橋」が架かる。
泉町
1930年(昭和5年)設立。1895年(明治28年)日本紡織が設立され大正期に躍進。従業員住宅などで市街地化した。
西波止町
1930年(昭和5年)設立。1908年(明治41年)香櫨園海水浴場開設により御前ノ浜が海水浴場の一部となる。浜辺はイワシ地引き網漁が盛んであったほか、西宮砲台の外郭が残る。

施設・名所・旧跡等

編集

ギャラリー

編集

関連項目

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 櫨山(はぜやま)喜一については、文献によっては『櫨山慶次郎』と記されているものもある。また、この櫨山慶次郎は香野とは兄弟だという説もある[1]
  2. ^ この住宅地は地形が起伏に富み、道路が回遊式に設けられており1区画あたりの坪数が大きく、各住宅は敷地の条件に合わせて多様な構成を見せ、緑の豊かな一点でも良好なイメージを与えていた。また、もう一つの特微として、外国人向けの住宅が多数建てられていた[3]
  3. ^ 寄贈者の松下幸之助は香櫨園の北東に位置する名次町に居を構えていた。1933年(昭和8年)、隣接する南郷町に「西宮南郷山住宅地」が完成し、この住宅地の北側の尾根伝いに名次町の分譲地が造成された。以降、当地域は南郷町と併せ「南郷山」と呼ばれ、阪神間でも高級住宅地の一つとして知られる。この住宅地は夙川の東、南北に長い尾根状の地形の上に載るかたちで形成されており、離れてこの地を見ると緑に覆われた丘陵地に大きな屋根をもつ邸宅が木立のなかに見え隠れする[6]
  4. ^ 2030年度を目途に阪神西宮駅北側に移転予定
  5. ^ 小説家の野坂昭如は戦後、進駐軍により接収されていた当ホテルで下働きをしていた。
  6. ^ 1923年(大正12年)に森具区から香櫨園区が分立。1932年(昭和7年)に阪急電車の駅名と区名を一致させるため香櫨園区は夙川区に改称された[14]。しかし1933年(昭和8年)の西宮市全図では当地域を香櫨園と表記しており、香櫨園の名称は住居表示などでしばらく用いられた。なお夙川地区は旧夙川区一帯をさす。
  7. ^ 大神土地株式会社住宅経営図には町名の代りに、南北の錦筋・東雲シノノメ筋・桜筋・弥生筋、東西の香櫨通・蓬莱通・千種チグサ通などすでに消えた名のほか、羽衣通・雲井通と町名につながる名が見える。1938年(昭和13年)に付けられた羽衣町・相生町・雲井町・霞町・殿山町・松園町の町名は、謡曲に因んで大神中央土地社長が名付けたとの説があり、同社の元重役柳瀬博夫氏によると「町名は重役会でめでたい名を選んだ。謡曲との関連は直接はない。しかし、重役の中に謡曲好きがいたかも知れない。」という。
  8. ^ 守具(森具)村集落の南は夙川と堀切川に挟まれた田畑が広がっていた。この地域のうち南半は西宮町字葭原で、北半は森具に属していた字中浜・溝尻・古新田・外新田を1889年(明治22年)の町村制実施にあたり、御茶家所など西宮町の一部と交換した。1920年(大正9年)から始まり1923年(大正12年)に完成した西宮町耕地整理組合事業で住宅地化が進み閑静な邸宅が立ち並んだ。
  9. ^ 1921年(大正10年)西宮第二耕地整理組合(まだ都市計画に対応する法律がなく、耕地整理の名目で実際は都市計画を目的)が設立され、その後の区画整理事業により、夙川、国鉄東海道線、阪急神戸線、札場筋に囲まれる地域が碁盤目状の整然たる区画となり、田園風景にかわって一帯は文化住宅街となった。1923年(大正12年)こうしてできた各町(平松町・安井町・千歳町・常磐町・分銅町・末広町・寿町)には、めでたい佳名が選ばれた。
  10. ^ 中央奥の尖塔の建物は奏楽堂で、香櫨園廃園後の1924年に移設されたもの。


出典

編集
  1. ^ 華やかなりし香櫨園(月刊神戸っ子2017年10月号)”. 神戸っ子出版 (2017年10月1日). 2019年12月9日閲覧。
  2. ^ 橋爪紳也「沿線開発とアミューズメント施設」、「阪神間モダニズム」展実行委員会編著『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化、明治末期―昭和15年の軌跡』所収。淡交社、1997年、222頁
  3. ^ 坂本勝比古. “住宅総合研究財団 研究年報 No.21、1994年『阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究(2)-近代日本の大都市郊外住宅地形成過程-』”. 2022年9月13日閲覧。
  4. ^ 1938年2月刊「日本地理風俗大系 近畿地方」
  5. ^ 斉藤武雄 「六甲山系の風致保存」『公園緑地』1巻10号 pp.8~15 1937年
  6. ^ 坂本勝⽐古『阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究(2)』住宅総合研究財団 研究年報 No.21、1994年、215頁
  7. ^ 坂本勝比古「郊外住宅地の形成」『阪神間モダニズム』淡交社、1997年、37-38頁
  8. ^ 山形政昭「ミッション建築家ヴォーリズの住宅とその遺産 ─ Column・アメリカン・ボード・ミッション住宅とナショナル・シティ銀行の住宅」『阪神間モダニズム』淡交社、1997年、79頁
  9. ^ 山形政昭「阪神間に生きた建築家とその作品 ─ Column・「自由様式」のなかの和の意匠 安井武雄──滴翠美術館とその周辺」『阪神間モダニズム』淡交社、1997年、89頁
  10. ^ 角川日本地名大辞典[1]
  11. ^ 坂本勝比古「阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究(2)」住宅総合研究財団 研究年報 No.21、1994年、212頁
  12. ^ 阪急・阪神沿線文学散歩([2]
  13. ^ 山下忠男『町名の話―西宮の歴史と文化』
  14. ^ 夙川自治会『夙川地区100年のあゆみ』
  15. ^ 『町名改称ニ関スル調査経過大要』1935年(昭和10年)
  16. ^ 『西宮文学風土記』、神戸新聞出版、1982年

参考文献

編集
  • 神戸新聞出版センター(編集・制作) 編『兵庫県大百科事典 上巻』神戸新聞出版センター、1983年。 

[[Category:人名を冠した日本の地名]