穂積町
穂積町(ほづみちょう)は、岐阜県本巣郡にあった町である。2003年5月1日に巣南町と合併して瑞穂市になった。
ほづみちょう 穂積町 | |||||
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穂積駅 | |||||
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廃止日 | 2003年5月1日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 巣南町、穂積町 → 瑞穂市 | ||||
現在の自治体 | 瑞穂市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方、東海地方 | ||||
都道府県 | 岐阜県 | ||||
郡 | 本巣郡 | ||||
市町村コード | 21423-0 | ||||
面積 | 16.41 km2. | ||||
総人口 |
35,996人 (推計人口、2003年4月1日) | ||||
隣接自治体 | 岐阜市、本巣郡北方町、巣南町、真正町、安八郡墨俣町、安八町 | ||||
町の木 | ハナミズキ | ||||
町の花 | アジサイ | ||||
穂積町役場 | |||||
所在地 |
〒501-0293 岐阜県本巣郡穂積町別府1288 | ||||
外部リンク | 穂積町(Internet Archive) | ||||
座標 | 北緯35度23分31秒 東経136度41分27秒 / 北緯35.39183度 東経136.69078度座標: 北緯35度23分31秒 東経136度41分27秒 / 北緯35.39183度 東経136.69078度 | ||||
ウィキプロジェクト |
地理
編集岐阜県西部、本巣郡の南端に位置する。濃尾平野の一部で山はない。
東の境に長良川が北から南に流れる。その他11の河川が町を南北に貫流する。古くから洪水に悩まされ五六輪中・河渡輪中などが形成されたが、20世紀末には治水により水害はおさまった。
年平均気温は15.5度、1月平均が4.3度、8月平均が27.5度、年間降水量は1915mm(いずれも1971年から2000年の平均)
地名
編集2003年時点
- 馬場
- 馬場前畑町
- 馬場上光町
- 馬場春雨町
- 馬場小城町
- 馬場北町
- 生津
- 生津滝坪町
- 生津内宮町
- 生津外宮東町
- 生津外宮前町
- 生津天王町
- 生津天王東町
- 大字本田
- 大字只越
- 大字別府
- 大字穂積
- 大字稲里
- 十九条
- 牛牧
- 宝江
- 野田新田
- 野白新田
- 祖父江
- 東結
隣接していた自治体
編集歴史
編集- 1897年(明治30年)4月1日 - 穂積村、別府村、稲里村が合併し、穂積村が発足。
- 1948年(昭和23年)10月1日 - 穂積村が町制施行、穂積町となる。
- 1954年(昭和29年)11月3日 - 穂積町、本田村、牛牧村、生津村の一部(馬場、生津)の新設合併により、改めて穂積町が発足する[1]。
- 1957年(昭和32年)7月1日 - 巣南村の一部(宝江)を編入[2]。
- 1965年(昭和40年)10月25日 - 昭和天皇、香淳皇后が第20回国民体育大会に合わせて県内を行幸啓。穂積町営バレーボールコートなどを訪問[3]。
- 2001年(平成13年)6月1日 - 穂積町宝江と安八町東結との間で境界を変更[4]。
- 2003年(平成15年)5月1日 - 巣南町と合併し瑞穂市が発足。同日穂積町廃止[4]。
行政・議会
編集町長
編集1954年11月3日に合併により穂積町が発足すると、旧穂積町長の松野友が町長職務執行者に就いた[5]。12月11日に町長選挙が執行されたが、松野友の無投票当選となった[6]。旧本田村長と旧牛牧村長は参与となっている[6]。
1958年の町長選挙では松野友と小田俊与が立候補したが、松野友が圧勝した[6]。その後の1962年、1966年、1970年の町長選挙では松野友の無投票当選となっている[7]。1966年には「六選反対」だったが、町内会や町議会の声を受けて立候補したと語っている[8]。
1974年の町長選挙でも長期にわたる多選を理由に松野友が一度立候補を辞退した[9]。しかし、衆議院議員の大野明、野田卯一や岐阜県知事の平野三郎、岐阜県議会議員らが反松野を掲げて穂積町助役を擁立すると、夫で衆議院議員の幸泰の意向により松野友も立候補した[10][9]。選挙戦の末、松野友が当選した[10]。この後松野友はしばらく助役を任命しなかった[11]。
1978年の町長選挙では建設会社社長に対し、松野友が圧勝した[12]。
1982年の町長選挙では保守系無所属の松野友に対し日本社会党が西岡一成を擁立し、穂積町長選挙で初の保革一騎打ちとなった[13]。1982年、1986年と大差をつけて松野友が当選した[13][10]。
穂積町開発公社の不正土地取引の責任を取って1990年7月に松野友が辞任し[11]、保守系が擁立した元町総務課長の松野文司と不正を追及してきた前町議会議員の西岡一成が選挙戦を繰り広げた[14]。松野文司は1974年の町長選挙で松野友の対立候補についたとされ、同じ保守派でも松野友やその親族と距離を置いた候補として擁立された[15]。このことと町内での保守派の根強さが相まって松野文司が当選した[14][15]。投票率は63.03%と、無風選挙であった1958年の58.54%に次いで低かった[16]。保守系の一部が棄権したことや町外出身者が帰省していたことが理由とされる[16]。
1994年の町長選挙では松野文司が健康上の理由から立候補しないことを決めた[17]。松野友の長男の松野幸信と、松野文司に後継者として指名された候補が立候補し、接戦の末松野幸信が当選した[18]。投票率は57.28%[18]。
1998年の町長選挙では松野幸信の対立候補は現れず、無投票当選となった[19]。
2002年の町長選挙では、合併を推進する松野幸信と、合併をはじめとする町政について住民への説明や聞き取りが足りないと訴える候補が争った[20][21]。松野幸信が当選したが、投票率は47.59%と穂積町長選挙で最低となり、有権者総数に占める得票数の割合は約27%にとどまった[21]。
その後、松野幸信は2003年の合併により発足した瑞穂市の市長選挙に立候補して当選し、2007年の市長選挙で敗れるまで務めた[22]。
町長一覧
編集町議会
編集2003年時点の議員定数は20人であった。
1954年11月の合併直後は旧町村の議員をそのまま引き継ぎ、任期を1955年5月31日まで、定数を旧町村の議員定数の合計である48人とした[23]。5月12日に執行された初めの町議会議員選挙では、定数を地方自治法に基づいて22人とし、旧町村域を基にした小選挙区制を導入して人口比などによって割り振った[24]。
小選挙区制故に1971年までの町議会議員選挙では保守系無所属の候補者しかいなかった[25]。1974年の町長選挙後、議会の監視機能を高めるため大選挙区制に切り替えられたが、1975年の町議会議員選挙が行われたのみで、1978年に再度小選挙区制に変更された[25][9]。1979年から1990年にかけて住民による小選挙区制撤廃を求める直接請求が5回行われたが、いずれも町議会で否決されている[25][26]。その後、松野文司町長の下で選挙区改正が行われた[27]。巣南町と合併後の瑞穂市議会議員選挙は大選挙区制で行われている[28]。
議員定数は1998年に22人から20人へ削減された[29]。16人への削減を求める直接請求をきっかけに審議が行われ、別に現行維持を求める請願が出される中で決まった[29]。
職員
編集2002年時点の職員数は253人であった。
消防
編集1970年(昭和45年)2月5日未明に名古屋紡績穂積工場から出火し、工場1棟が焼失した[30]。この火事などをきっかけに1972年から消防事務を岐阜市消防本部に委託していた[31]。
2003年の巣南町との合併後も旧穂積町域は岐阜市消防本部への委託、旧巣南町域は本巣消防事務組合の管轄としていたが、2008年に瑞穂市全域を岐阜市消防本部への委託とした[32]。
経済
編集産業
編集元は稲作中心の農村で、2000年には面積の31%が農地であった。岐阜市、大垣市に近く、両市に対する鉄道・道路の交通の便が良いため、1960年代から通勤者の住宅が増え続けた。町の商工業も発達した。
産業別就業人口
編集産業 | 1980年 | 2000年 |
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総計 | 11139 | 17693 |
第一次産業 | 479 | 247 |
農業 | 471 | 245 |
林業 | 7 | 2 |
漁業 | 1 | 0 |
第二次産業 | 5106 | 6576 |
鉱業 | 42 | 19 |
建設業 | 1084 | 1980 |
製造業 | 3980 | 4577 |
第三次産業 | 5551 | 10860 |
電気・ガス・熱供給・水道業 | 56 | 59 |
運輸・通信業 | 707 | 1221 |
卸売・小売・飲食店 | 2276 | 3916 |
金融・保険業 | 305 | 555 |
不動産業 | 53 | 128 |
サービス業 | 1690 | 4445 |
公務(他に分類されないもの) | 464 | 536 |
分類不能の産業 | 3 | 10 |
教育
編集中学校
編集小学校
編集交通
編集鉄道と道路が東西南北に通じ、至便である。東の岐阜市、西の大垣市のちょうど中間にあたる。
鉄道
編集道路
編集江戸時代には中山道が町域の北部を通り、近代以降は国道21号が南部を通った。
- 高速道路
- 町内に高速道路はなし。
- 一般国道
- 主要地方道
- 一般県道
出身有名人
編集脚注
編集- ^ 穂積町史編纂委員会 1979, p. 15.
- ^ 穂積町史編纂委員会 1979, p. 12.
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、128頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ a b 「5 市町村廃置分合改称等の沿革」『岐阜県統計書 平成30年』岐阜県、2018年3月、3–7頁 。2022年11月4日閲覧。
- ^ 穂積町史編纂委員会 1979, p. 129.
- ^ a b c 穂積町史編纂委員会 1979, p. 127.
- ^ 穂積町史編纂委員会 1979, p. 128.
- ^ 「全国初の女性六選町長になった 松野友」『朝日新聞 朝刊 名古屋』1966年12月1日、14面。
- ^ a b c 竹内宏行「薄れゆくファミリー支配」『朝日新聞 朝刊 名古屋』1990年8月13日、22面。
- ^ a b c 六郷孝也、矢田義一「“奥さん”町長 男勝りの11選」『朝日新聞 朝刊』1986年12月1日、3面。
- ^ a b 「後継者選びに焦点移る 松野穂積町長辞職 思惑も絡み難航か 依然根強いファミリー派」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』1990年7月6日、岐阜。
- ^ 「松野さん、九選果たす」『朝日新聞 朝刊 名古屋』1978年11月27日、14面。
- ^ a b 「女性首長で初の10選」『朝日新聞 朝刊 名古屋』1982年11月29日、18面。
- ^ a b 「激震 穂積 再生への船出(上) どう生かす批判票「4304」 新町長 圧勝にも戸惑い」『中日新聞 朝刊』1990年8月13日、21面。
- ^ a b 「保守の土壌なお厚く」『朝日新聞 朝刊 名古屋』1990年8月13日、23面。
- ^ a b 「保守の松野文氏初当選 出直し穂積町長選 革新系前町議に大差」『中日新聞 朝刊』1990年8月13日、1面。
- ^ 「穂積町長選 町議グループ、広瀬氏擁立へ 松野町長は引退の意向」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』1994年6月26日、岐阜。
- ^ a b 「穂積町長選 松野氏が初当選 「経済活性化図りたい」」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』1994年8月1日、岐阜。
- ^ 大野孝志「穂積町長選 松野氏が無投票再選 「町民と共に計画推進」 抱負語る」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』1998年7月8日、岐阜。
- ^ 「学習塾講師の 熊谷氏出馬へ 穂積町長選」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』2002年6月21日、24面。
- ^ a b 「穂積町長に松野さん 接戦しのぎ3選果たす」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』2002年7月16日、18面。
- ^ 「母から通算56年「長期政権」に幕」『朝日新聞 朝刊 名古屋本社』2007年4月23日、18面。
- ^ 穂積町史編纂委員会 1979, pp. 129–130.
- ^ 穂積町史編纂委員会 1979, p. 130.
- ^ a b c 「穂積町の選択 町長選を前に(上) “松野城”支えた小選挙区> 野党の出馬には厚い壁」『中日新聞 朝刊 岐阜版』1990年8月4日、岐阜。
- ^ 「91統一選ぎふ 本番へダッシュ(4) 小選挙区 違法ではないが… 自治省 「有権者の選択狭くする」」『中日新聞 朝刊 岐阜版』1991年1月5日、岐阜。
- ^ 「4年間の協力ありがとう 松野穂積町長離任式」『中日新聞 朝刊 岐阜近郊版岐各羽』1994年8月12日、18面。
- ^ 鈴木学「新人候補全員が当選 新市発足初 瑞穂市議20人決まる」『中日新聞 朝刊 岐阜総合』2004年4月13日、19面。
- ^ a b 「定数22を20に削減 穂積町議会 次回選挙から適用」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』1998年3月21日、岐阜。
- ^ 紡績工場を全焼 岐阜県下で深夜作業中『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月5日夕刊 3版 11面
- ^ 「まち むら 再編 第2部・合併の波紋 (1) 消防の枠組み 難題 岐阜市と本巣郡 広域か個別か」『中日新聞 朝刊 岐阜県版』2002年5月21日、18面。
- ^ 『消防年報』 59巻、岐阜市消防本部、2009年、10–11頁 。2022年11月1日閲覧。
参考文献
編集関連項目
編集- 岐阜県の廃止市町村一覧
- 別府町 (帯広市) - 1898年、本巣郡穂積村大字別府の開拓団が入植し、開拓を始めた。