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男声合唱(だんせいがっしょう)とは、変声期を過ぎた男性のみによる合唱の一形態。インドネシアのケチャや、日本の木遣仏教声明などにも見られる形態であるが、本項においては、特にクラシック音楽における男声合唱について記述する。

ストックホルム・アカデミー男声合唱団 (Stockholm Academic Male Chorus)

概要

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声域・声質によってパート分けされ、高音域から順に、第1テノール(ファーストテノール、トップテノールとも)・第2テノール(セカンドテノール、リードテノールとも)・バリトンバスの4パート(男声4部合唱)で演奏されることが多い。時おり、テノール・バリトン・バスの3部合唱や、テノールとバリトン・バスをさらに3パートずつに分けた6部合唱という編成も見られる。また、カウンターテナーのパートが加えられる場合もある。主旋律は通常第1テノールが歌う。バーバーショップスタイル(後述)のアンサンブルでは第2テノールをリードと呼び、ここが主旋律を担当する。

標準的な男声合唱曲の音域は約2オクターブ半であり、混声合唱に比べると当然狭いが、ファルセットを用いればより高い声域を演奏できるうえ、バスの低音域がアルトよりも広いことから、実際には混声合唱と同等の3オクターブ以上をカバーすることもできる。ヤナーチェクの「さまよえる狂人」やシェーンベルクの「6つの男声合唱曲 作品35」はこのような極限的な音域を駆使した例である。また、この豊かな音域を生かして混声合唱曲を演奏する者たちもいる(たとえばシャンティクリア)。

男声合唱は低音域が充実しているため倍音が数多く発生する、それが生かせるようア・カペラ(無伴奏)での演奏が多い。また、ピアノオルガン管弦楽など、他の楽器と共演することもしばしばである。

なお、日本の男声合唱団によく見られる名称の1つ「グリークラブ (glee club) 」は、18世紀後半にイギリスで生まれた同名のクラブに由来する。グリーと呼ばれる形式の音楽を歌う団体であったが、19世紀にはアメリカに伝わり、さまざまな合唱団がグリークラブを名乗るようになる[注釈 1]。また、しばしば見られる「メンネルコール (Männerchor) 」はドイツ語で男声合唱(団)を意味する。

歴史

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世界の男声合唱史

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男声合唱の歴史はクラシック音楽に限定しても長い。新約聖書にある「コリントの信徒への手紙一」には、「婦人は教会では黙っていなければならない」 (14-34) と書かれており、そのため、教会音楽は近代に至るまで、もっぱら男性のみによって担われてきた。今日、グレゴリオ聖歌の録音が男声合唱によって行われることが多いのは、その影響と言えるだろう。高声部は、少年やカウンターテナーカストラートによって代用された(こうした合唱曲は、現在では女性を加えた混声合唱団によって演奏されることも多い)。19世紀には、教会音楽への女性の参加が一般的になりつつあったが、男声合唱はこの世紀に、世俗音楽の分野を中心として黄金期を迎えることとなる。

19世紀はじめになってドイツリーダーターフェル、南ドイツやスイスリーダークランツフランスオルフェオンが相次いで生まれ、それらによる男声合唱運動が、北欧東欧アメリカへと波及していく。この頃に活躍した作曲家の多くが、男声合唱団のために指揮や作曲を行った。

ブルックナーを例にとると、彼は1843年にハンス・シュレーガーという人物の男声合唱曲に感動し、自ら男声四重唱団を組織して以来、男声合唱団で歌い、時には指揮し、時には団のために作曲し、実に半世紀もの間をこのジャンルに捧げた。彼の最初の出版作品も最後の完成作品も、いずれも男声合唱曲である。

シベリウスもまた、男声合唱団のために数十曲の作品を残し、その多くを初演したヘルシンキ大学合唱団とともに、フィンランドの合唱界のみならず音楽界全体に大きな足跡を残している(ヘルシンキ大学合唱団は今日、世界的に著名な合唱団の1つと位置づけられ、日本も含め諸外国で公演を頻繁に行っている)。この他、グノーはパリのオルフェオンの音楽監督を1852年から1860年まで勤め上げているし、ワーグナーは、短期間ながらもドレスデンのリーダーターフェルの指揮者に就任している。

なお、今日多くの男声合唱団に愛されているシューベルトについては、合唱運動が本格的に勃興する前に亡くなっているため、彼が直接運動に携わったというわけではない。しかしながら、運動の高まりとともに、ドイツ圏においてはシューベルトが高く評価され、重唱曲として初演された数多くの作品が合唱団にとりあげられた[注釈 2]

一方、イギリスは、ドイツやフランスとは別の道をたどった。17世紀に生まれたキャッチや、18世紀後半以降に活発化したグリー英語版と呼ばれるジャンルがもてはやされていたからである。サミュエル・ピープスの日記の中にも、彼がキャッチを歌ったという記述が見られる[注釈 3]。また、ハイドンはこれらのジャンルのために「12のキャッチとグリー」を編んでいる。

イギリスの男声合唱を語る場合に指摘されるべきもう一つの点は、この国で生まれた世界的な団体であるフリーメイソンとの関わりであろう。この団体は原則的に男性のみによって運営されており、各種の儀式やイベントで歌が必要な場合、当然男声合唱や独唱曲が作られたのである。フリーメイソンに所属していた作曲家に、トマス・アーンベンジャミン・クックサミュエル・ウェッブなどがいる。ここで列挙した3人はみなグリーの作曲家でもある。この団体に関する男声合唱曲のほとんどは今日忘れられているが、モーツァルトが入会後に作曲した男声合唱曲は、現在でもCDや楽譜で参照することが可能である[注釈 4]。キャッチはグリーの普及とともに衰え、グリーもまた19世紀後半には衰退し、現在ではあまり顧みられていないが、「グリークラブ」という名称は、日本やアメリカの男声合唱団に好んで用いられている。

また、19世紀後半のアメリカでは、男が床屋に集まって無伴奏のカルテットを楽しむのが流行し「バーバーショップ・ハーモニー」と呼ばれる独自のスタイルを築いた。バーバーショップスタイルのアンサンブルは近年、日本でも盛んになっている(女声や混声によるバーバーショップアンサンブルも少数ながら存在するが、男声が中心)。

中央ヨーロッパで黄金時代を迎えた男声合唱は、合唱運動の衰退や、混声・女声合唱の勃興などにより20世紀になると衰えていく。リヒャルト・シュトラウスがドイツの男声合唱団について、「ほとんど考慮するに値しない」「その芸術的な収穫はごくわずか」と書き[1]皆川達夫がオルフェオンの衰退の原因について、彼らの演奏する曲が「〈お素人向きのお手軽な音楽〉」に堕したことをほのめかしているように[2]、男声合唱団や男声合唱曲の質の低さも指摘されていた。

この世紀は北欧、東欧やアメリカ、日本にとっての黄金期といってよいだろう。ハンガリーにはこの地の合唱の基礎を築いたバルトークコダーイなど、北欧には前述のシベリウスやマデトヤアルヴェーンらがいたし、アメリカではロバート・ショウなどが編曲の分野で活躍した(日本については後述)。

男声合唱運動の中心から遠く離れたロシアにおいて、正教会聖歌は19世紀に到るまで依然男性によって担われていた(ロシアの教会音楽に混声合唱が取り入れられるようになったのはアルハンゲルスキーの功績である)。現代でもギリシャ正教会(ギリシャ共和国内の正教会)では男声が正教会聖歌の基本である。こうした正教会の聖歌伝統もソビエト連邦が誕生すると正教会聖歌をはじめとして宗教音楽は弾圧される中で大幅に制限され、かわりに民謡の編曲や愛国的な讃歌、世俗的な内容の合唱曲が求められるようになった。ソ連の軍人で構成された赤軍合唱団はこうした作品を演奏し、世界的な知名度を得ることに成功している。なお、ソビエト連邦の崩壊後には聖歌ジャンルも復興を遂げ、現代のロシア正教会の各地の男子修道院は多くの聖歌CDを録音するに至っている。

現在では、クラシックの他の分野と同様、男声合唱もまた世界のいたるところに普及し、各地の作曲家によって毎年たくさんの作品が生まれている。音楽史から見れば、19世紀の合唱運動ほどの力を今日の男声合唱界は持っていないが、他のジャンルもそうであるように、この分野もクラシック界の流行と無縁ではない。近年ブームとなったグレゴリオ聖歌から、民謡ゴスペルポピュラー音楽まで幅広く手がけるアメリカの男声アンサンブルシャンティクリアは、癒しブームにも支えられ、高い支持を受けている。

日本の男声合唱史

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戦前

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日本最古の男声合唱団である関西学院グリークラブが誕生したのは1899年のことである。日本最初の合唱曲と目される瀧廉太郎の組曲「四季」が1900年に生まれていることから、日本の男声合唱史は日本の合唱曲創作史とほぼ重なる。だが、組曲「四季」は男声合唱曲ではない(1曲目の「花」が女声二重唱、あるいは女声二部合唱であり、2曲目「納涼」は独唱、3曲目「月」および最後の「雪」は混声四重唱または混声四部合唱曲)。滝は男声合唱の分野と関わらずにこの世を去った。

山田耕筰は、混声合唱や女声合唱に早くから手を染めながら、そして関西学院グリークラブに所属し、その後も同グリーをはじめとして男声合唱団とのつながりがしばしばあったにもかかわらず、男声合唱曲を残さなかった(団体歌は例外)[3]信時潔にせよ、橋本國彦にせよ、諸井三郎にせよ、戦前に活躍した作曲家の多くは、この分野に作品をまったくか、わずかしか提供していない。当時の男声合唱団が日陰の存在だったかといえばそうではなく、大学を中心に、男声合唱団体設立の動きが全国的なレベルで見られたし、一部の団体はレコードの録音も行っていた。また、戦前に行われていた合唱コンクール「合唱競演大音楽祭(競演合唱祭)」の出場団体の内訳を見ると、男声合唱団が混声、女声に比べて多い[注釈 5]小松耕輔木下保明本京静ら当時の音楽界の重要人物が男声合唱に関わっているという事情も考慮すると、創作活動が混声や女声に比べて低調だったのは不思議である[注釈 6]

この時代においては、男声合唱団は学校の歌を歌う他は、海外の歌を主として訳詞で演奏することが常で、委嘱活動をほとんど行っていなかった。外国作品ばかりに目を向けていた背景からか、男声合唱の楽譜は売れないとみなされていたようで(岡本敏明は当時の音楽出版社について、「女声合唱のほかは出版しようとしませんでした」と書いている[4]。コンクールには出場しないものの、女学校での合唱活動は盛んに行われていた)、作曲家をして男声合唱創作に向かわせる環境に乏しかった[注釈 7]。この環境が改善されるには戦後を待たねばならない。

なお、戦前に男声合唱曲を多数残した人物として、藤井清水がいる[注釈 8]。多くは民謡の編曲であるが、竹友藻風の詩による「水夫の歌」は戦後になって、音楽之友社やカワイ楽譜、全日本合唱連盟などから出版されている。

戦後

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高等教育機関においては、戦後しばらくまで男子の数が女子を大幅に上回っていた。高校・大学の合唱団における男声合唱の比率が大きい時代が続いたが、やがて、女子の高校・大学進学率が高まるにつれて、男声合唱団が混声合唱化し、あるいは混声・女声合唱団が設立されるようになり、その比率は小さくなっていく。戦後の日本の合唱界全体を眺めても、混声・女声合唱を支えたさまざまな動き(うたごえ運動ママさんコーラス、日本の「第九」ブームなど)に比べて、男声合唱を支持する基盤が弱かったのは否めない。戦後に始まった全日本合唱コンクールにおいては、昭和20年代こそ男声合唱団が優位であったものの、昭和30年代半ば以降は女声合唱団が多く台頭し成績でも男声合唱団をしのぐようになり、関西学院グリークラブをはじめとする男声合唱団は相次いでコンクールから撤退した。しかしながら、作曲の面では戦前に比して著しいものがある。以下、3つの視点から、戦後日本の男声合唱創作の流れを俯瞰する。

作曲

日本の戦後男声合唱に大きく貢献した作曲家としては、清水脩多田武彦が挙げられる。彼らは数百曲の男声合唱曲を作曲し、男声合唱楽譜を数十冊出版している。

清水は戦後、全日本合唱連盟に参画し、第1回全日本合唱コンクールのために男声合唱曲を書いた。堀口大學の詩による「秋のピエロ」である。この作品は翌年、合唱組曲「月光とピエロ」に組み込まれた。「月光とピエロ」は自身の指揮で、東京男声合唱団によって初演され、全国的な人気を獲得した。彼はその後も「山に祈る」「アイヌのウポポ」など多数の作品をこの分野に残す一方、カワイ楽譜の経営者として自身の他、大中恩小倉朗三木稔、多田武彦らの男声合唱作品を世に送った。

多田は京都大学男声合唱団で指揮者として活躍するとともに、清水に作曲の指導を受け、処女作「柳河風俗詩」を完成させた。以後2017年に死去するまで、男声合唱組曲を95作品発表している。これらのほとんどが無伴奏である。

ここまで、日本の男声合唱について作曲家を中心に記述してきたが、清水や多田にしても、他の作曲家にしても、彼らの仕事の大多数が、合唱団や指揮者の委嘱活動によって支えられてきたことは確かである。これは、教育現場(小中高校)において混声・女声・児童に比して需要が少ない男声合唱において特に顕著である[注釈 9]。「月光とピエロ」を初演した東京男声合唱団は、1948年から邦人への委嘱活動をはじめたが、清水によると、「その頃ではまったく例のないことであった」とのことである[5][注釈 10]。男声に限らず、合唱団の委嘱活動はこの頃になって本格的に始まる。

その結果、戦前とは対照的に、多くの作曲家が男声合唱に関わるようになった。誰が関わり、どのような作品が生み出されたかについては「主な男声合唱曲」に譲る。

編曲

戦前の男声合唱団はもっぱら外国の歌を歌っていたが、それらのなかには編曲作品も少なくなかった。編曲家としても知られる津川主一も、男声合唱団のためにいくつかの海外の歌を編曲している。

戦後、編曲を通して男声合唱団のレパートリー拡大に努めた人物に、福永陽一郎がいる。1952年に「コンサート活動を主目的とした」[6]最初の職業合唱団である東京コラリアーズを設立し、この団体のために数多くの編曲を行っている[注釈 11]。関西学院グリークラブ出身であり、東京コラリアーズに歌い手として所属していた北村協一も後に編曲に携わり、彼らの編曲を、彼ら自身や、東京コラリアーズの協同設立者である畑中良輔が積極的に演奏した。3人に共通するのは声楽(オペラ)界とのつながりも強いという点であり、良いオリジナル男声合唱曲が少ないという福永や畑中の認識[注釈 12]もあって、オペラや歌曲、ミュージカルなどさまざまな分野の作品が男声合唱界に「輸入」された。

以上は他人が編曲したものについてである。日本人作曲家が自作曲を男声合唱に編曲した例は、戦前はほとんどないと思われるが、戦後には飛躍的に増加する。髙田三郎水のいのち」、廣瀬量平海鳥の詩」、荻久保和明「IN TERRA PAX」、木下牧子方舟」、大中恩島よ」など、混声合唱からの編曲が多い。逆に、男声合唱から混声合唱への編曲も数多く、先に書いた清水脩の「月光とピエロ」はその先例である。

現代の「聲明[注釈 13]作品」

最初に記したように、いわゆるクラシック音楽以外においても、聲明のように、男性のみが歌う形態が古くから存在していた。作曲家の幾人かがこれに目をつけ、男声合唱団によって歌われる作品にしたてている。黛敏郎の「涅槃交響曲」や藤原義久「法華懺法」などである。

ここで扱う音楽は、クラシック(現代音楽)の作曲家によって書かれながら、合唱団ではなく、普段から聲明に取り組んでいる僧侶たちによって演奏されるものである。この手の作品が登場したのは「現代邦楽」や「現代雅楽」に比べてずっと遅く、1980年代になってのことである。

このジャンルの誕生経緯は、木戸敏郎編『日本音楽叢書 三 聲明〔一〕』『日本音楽叢書 四 聲明〔二〕』(音楽之友社、1990年)に詳しい。木戸は国立劇場が開場した1966年から聲明の公演を行っているが、それ以前においては、このジャンルの演奏はもっぱら寺院でしか接することができず、それゆえ多くの人々にとっては「未知の音楽体験」[7]であった。しばらくは、すでに存在している演目を披露していたが、やがて現代の作曲家に新作を委嘱しようという動きになり、石井眞木の「蛙の声明」や、近藤譲「壤歌」、高橋悠治「夢切記(ゆめのきぎれ)」などが生まれた。「聲明」という伝統的かつ新しい音楽ジャンルは欧米でも注目され、「蛙の声明」はドイツで演奏された他、細川俊夫の「観想の種子」のように、イタリアの音楽祭から委嘱を受けたものもある。

もっとも「聲明」といっても、数十人の声を必要とするような作品もあれば、「観想の種子」のように歌い手が4人というものもあり、すべての「聲明作品」を合唱の文脈で説明することについては慎重な検討が必要かもしれない。

主な男声合唱曲

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ここでは、古典派以降の作曲家の作品を生年順に紹介する。( )内は伴奏形態を示す。リストの膨れ上がりを回避するため、CDで聴くことができる作品に限定している。また、これ以外にもオペラでは役柄の要請上(軍隊など)合唱が男性指定となっている作品があり、『セビリアの理髪師』『神々の黄昏』などが代表的である。

日本人の男声合唱曲

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戦後の男声合唱曲に関しても、海外編と同じくリストの膨張を避けるために、「CD・レコード化されている(コンクール、プライベート盤を除く)」「オリジナルの編成が男声である(すなわち混声、女声、歌曲などからの編曲ではない)」の両方を満たしたものを紹介する。出版されていないものについては日本の絶版・未出版男声合唱曲に詳しい。同じく、生年順にまとめている。

便宜上、戦前、戦中の作品については※を付した。

男声合唱が加わる交響曲や協奏曲

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音源がないものも含む。

注釈

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  1. ^ 日本で最初に名乗った合唱団は関西学院グリークラブだという(山中源也『関西学院グリークラブ八十年史』関西学院グリークラブ部史発行委員会、1981年、p.14)。ただこの団体は、音楽形式としてのグリーを愛唱するために設立されたわけではない。
  2. ^ たとえば男声八部と弦楽のための「水の上の精霊の歌」は、ヨハン・ヘルベックによって1857年に再発見され、彼とウィーン男声合唱協会によって再演されている。彼はシューベルトの作品発掘および演奏に尽力し(「未完成交響曲」のそれで名高い)、1866年には合唱作品全集を出版している。
  3. ^ 1660年7月21日、9月10日など。
  4. ^ リストも会員として、フリーメイソン主催の演奏会のために男声作品を書いているが、モーツァルトほどには知られていない。
  5. ^ たとえば、第1回(1927年)においては、11の参加団体のうち、男声合唱団は6(女声2・混声3)、第6回(1932年)においては、22団体のうち、男声合唱団は14(女声4・混声4)。長木誠司「“運動[ムーヴマン]”としての戦後音楽史 1945~」第6回、第7回(『レコード芸術』音楽之友社、2004年6月号-7月号)。
  6. ^ たとえば、山田耕筰編『世界音楽全集9 日本合唱曲集』(春秋社、1930年)に収録されている合唱曲81作品のうち、男声合唱曲はたったの4曲に過ぎない(それに対して、混声41曲、女声23曲、同声11曲、重唱2曲)。
  7. ^ 青島広志は「日本の戦前の合唱曲というと、男声合唱曲が女声合唱曲をしのぐという現象が起きている」(『作曲家の発想術』講談社現代新書、2004年、p.155)と書いているが、実際にはその逆であった。
  8. ^ 彼の男声合唱曲については、呉市昭和地区郷土史研究会編『作曲家藤井清水』大空社、1996年。
  9. ^ 対して、混声三部合唱曲はNHK全国学校音楽コンクールをのぞくと、もっぱら出版社の委嘱により作られている。混声四部、女声合唱、児童合唱曲もその経由でたくさん作曲されているが、男声合唱においては少ない。
  10. ^ 委嘱作品のみで構成された楽譜『現代男声合唱曲集』(東京男声合唱団編)が音楽之友社から出版されている。
  11. ^ 東京コラリアーズを離れた後もさまざまな合唱団のために編曲を行っている。編曲作品の一部は福永陽一郎『演奏ひとすじの道』の巻末や、2001年に行われた「福永陽一郎メモリアルコンサート&回顧展 陽ちゃんといっしょ in 藤沢」のパンフレットに掲載されているが、全容については不明。
  12. ^ 福永は『合唱事典』(音楽之友社、1967年)の「編曲」の項目で、編曲に慎重な態度をとる一方、男声合唱や女声合唱によい曲が少ない現状から、編曲はやむを得ないものとしている。また、畑中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の定期演奏会のパンフレットにこう書いている。「男声合唱曲は、オリジナルなものだけでは、真にすぐれた音楽性を持つ曲は限られて来る。オリジナルの曲数の多い割に、演奏する者の一生の宝となるような曲は、ほんとに少ない。」[1]一方、「良いオリジナル男声合唱曲が少ない」という認識を共有しつつも、それを作曲家の新作によって改善させていこうと考える者もいた。田中信昭がその代表的人物である。
  13. ^ 木戸敏郎「聲明という音楽概念の開発」(木戸敏郎編『日本音楽叢書 三 聲明〔一〕』音楽之友社、1990年)によると、「聲明」は「仏教の声の音楽全般」を指す概念として、著者らによって再定義されたもの。旧漢字を使うのは、労働組合運動の文脈で用いられていた「声明(せいめい)」との混同を避けるためである。「現在定着している」という著者の見解に従い、本項でも「聲明」を上述の意味で用いる。

出典

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  1. ^ エクトル・ベルリオーズ、リヒャルト・シュトラウス『管弦楽法』音楽之友社、2006年、p.472。
  2. ^ 皆川達夫『合唱音楽の歴史 改訂版』全音楽譜出版社、1965年、p.403。
  3. ^ 遠山音楽財団付属図書館編 『山田耕筰作品資料目録』遠山音楽財団付属図書館、1984年。
  4. ^ 浜辺の歌音楽館編『「浜辺の歌」の成田為三』秋田文化出版社、1998年、p.38。
  5. ^ 『からかれても……――東京男声合唱団創立五十周年記念誌』東京男声合唱団、1999年、p.13。
  6. ^ 福永陽一郎『演奏ひとすじの道』《CONDUCTOR》編集部、1996年、p.72
  7. ^ 木戸敏郎「『聲明』現代の音楽概念へ飛躍」 『日本音楽叢書 四 聲明〔二〕』p. 7。

関連項目

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外部リンク

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