浮島沼
静岡県にあった沼群
概要
編集かつては富士市の須津地区を中心として、浮島地区や沼津市の原地区にわたる湿地に大小の沼が点在しており、これらを総称して浮島沼と呼んだ[1]。柏原沼、須津沼、富士沼、大沼、広沼などとも呼ばれていた[1]。沼の周囲には浮島ヶ原と呼ばれる、湿田やヨシ、マコモが茂る低湿地帯が広がっていた[1]。中里地区の「西の池」とともに須津湖として富士講における内八海の1つに数えられたが[1]、江戸時代は陸化が進み内八海から外された。
ここでは、海面との標高差が少なく、大雨や高潮が襲うと冠水するため新田開発が困難であり、江戸時代を通して潮除堤(しおよけつづみ)が盛んに築かれてきた[1]。しかし、これが逆に排水を困難にさせ被害が増大することもあった[1]。昭和30年代まで湿田農耕が続けられ、腰や胸まで浸かって田植えをしなければならない湿田も多く、ナンバやオオアシ、タブネなどの独自の農具が発達し、浮島沼周辺の農耕生産用具152点が静岡県指定の有形民俗文化財となっている[1][2]。
現在では治水事業により一般的な水田となり、年々、宅地・商業地・工場用地として開発が進み、水田も徐々に減っている。地盤が脆弱であるため、東海道新幹線や東名高速道路は浮島沼を避け、愛鷹山の裾野に建設された。浮島ヶ原の東西には沼川が流れている。
成立ち
編集完新世の初期には駿河湾の一部であったが、徐々に狩野川、富士川、愛鷹山から流出した砂礫が沖積し砂州を造り、やがて潟湖になり、浮島ヶ原の湿地帯となった。
由来
編集鎌倉時代の書物、「東関紀行」には「此の原、昔は海上に浮かび、蓬莱の三つの島の如く在りけるに依りて浮島と名付けたり」とある。[要出典]