松平康重
日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名
松平 康重(まつだいら やすしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。松井松平家初代。
松平康重 | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄11年(1568年) |
死没 | 寛永17年6月27日(1640年8月14日) |
改名 | 康次(初名)、康重 |
別名 | 次郎、左近丞(通称) |
戒名 | 長安院殿竜誉浄和大居士 |
墓所 |
京都府京都市左京区黒谷町の金戒光明寺 大阪府岸和田市南町の心蓮寺跡 和歌山県高野山奥の院 島根県津和野町の亀井家墓所 |
官位 | 従四位下・周防守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 武蔵騎西藩主→常陸笠間藩主→丹波篠山藩主→和泉岸和田藩主 |
氏族 | 松井松平家 |
父母 | 父:松平康親、母:松平氏(松平重吉の娘) |
兄弟 | 康重、忠喬、唐梅院 |
妻 |
正室:石川康通の娘 継室:徳永寿昌の娘 |
子 | 康政、康映、康命、康紀、康敬、康久、林、慶寿院、西園寺公満室、牧野康成正室、松平利綱正室、竹中重義正室、岡田元直室、貫名重用室、貝塚某室ら |
生涯
編集駿河国三枚橋城主松平康親の長男。天正11年(1583年)3月16日の元服の際に家康から「康」の偏諱を授かり康次、のちに康重と改めた。
家康が東海地方にいた頃の天正11年(1583年)から天正18年(1590年)には父・康親の跡を継いで駿河国沼津城の守備役を務め、後北条氏に約8年間も対峙した。
小田原征伐後の天正18年(1590年)8月に家康が関東に移されると、武蔵騎西に2万石を与えられた。文禄4年(1595年)に豊臣姓を与えられる[1]。慶長6年(1601年)に、常陸笠間3万石に加増される(『寛政重修諸家譜』)。
さらには慶長13年(1608年)には丹波国篠山藩5万石に加増移封された(『寛政重修諸家譜』)。
元和5年(1619年)、大坂平野南方の要衝、和泉岸和田に移封となった(『寛政重修諸家譜』)。寛永11年(1634年)、従四位下に叙任される[2]。寛永17年(1640年)6月27日、73歳で死去し、跡を次男の康映が継いだ(『寛政重修諸家譜』)。
落胤説
編集康重は松平康親の子とされているが、実は徳川家康の落胤とする説がある。生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま康親に嫁いだとされる。後に子孫も家康の「康」を通字として用いている[3]。
系譜
編集父母
正室、継室
子女
脚注
編集参考文献
編集- 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。
- 川口素生『戦国武将 逸話の真実と謎』学習研究社、2007年。