昌平君
昌平君(しょうへいくん、紀元前271年[1] - 紀元前223年)は、中国戦国時代の楚の公子。姓は羋、氏は熊。諱は啓[2]。楚の考烈王と秦の昭襄王の娘のあいだの子[1]。
経歴
編集昭襄王36年(紀元前271年)、前年に春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子完(後の考烈王)と昭襄王の娘の間に生まれた[1]。
昭襄王44年(紀元前263年)、春申君が太子完を楚に逃がすと、華陽夫人(秦の孝文王正室、楚の公女)に養育された[1]。
秦王政元年(紀元前246年)、秦王政の時代に御史大夫となり呂不韋を補佐。
秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと叔父[2]の昌文君(公子顛)と共に鎮圧した。
秦王政10年(紀元前237年)、呂不韋が相国を罷免された後は、嫪毐の反乱を鎮圧した功績が評され右丞相となった。
秦王政21年(紀元前226年)、楚攻略に必要な兵数をめぐっての議論で王翦が将軍を罷免された際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。
また、秦は秦王政17年(紀元前230年)に滅ぼした韓の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で韓の旧臣による反乱が起きたため、鎮圧すると韓王安を処刑してこれを完全に滅ぼした[3]。
このために楚の旧都郢陳[4](現在の河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため、楚の公子でもある昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた[5]。
秦王政22年(紀元前225年)、李信と蒙恬率いる20万の秦軍が楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)へ向け侵攻。秦軍が寿春に迫ったとき昌平君がいる郢陳で反乱が起き、李信の軍がこれを討ちに向かったところを楚の将軍項燕の奇襲により秦軍は壊滅的打撃を受けた[6]。
秦王政23年(紀元前224年)、異母兄弟[7]の楚王負芻が秦に捕らえられ楚が滅亡すると、項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いたが、翌年、王翦・蒙武に敗れて戦死した。
子女
編集- 不詳
脚注
編集史料
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