挹婁
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歴史
編集古の粛慎(しゅくしん)の末裔とされ、魏代・晋代でもそのまま粛慎と呼ばれ続けた。挹婁の呼称は、彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro)、箭や後の牛禄(niru)、坑(yeru)などの音訳と考えられている[1]。
魏代
編集漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、魏の黄初年間(220年 - 226年)に反乱を起こした。夫余は何度か挹婁を討伐したが、独立し魏への朝貢を行った。
明帝(在位:226年 - 239年)の青龍4年(236年)5月、粛慎(挹婁)は楛矢を献上した。
元帝(在位:260年 - 265年)の景元3年(262年)4月、遼東郡の報告で、粛慎国(挹婁)の遣使が重譯(二重通訳して)[2]入貢し、長さ3尺5寸の弓30張,長さ1尺8寸の楛矢,石弩300枚,皮骨鉄雑鎧20領,貂皮400枚を献上してきた。元帝は詔で相府に帰属させ、その王に錦罽と綿帛を賜った。
晋代
編集武帝(在位:265年 - 289年)の咸寧5年(279年)12月、粛慎(挹婁)は楛矢石砮を献上した。
東晋の元帝(在位:317年 - 322年)の大興2年(319年)8月、粛慎(挹婁)は江東(建康)に詣でて楛矢石砮を献上した。
成帝(在位:325年 - 342年)の時代、後趙の石虎(在位:334年 - 349年)に朝貢した。
地理
編集『三国志』には、夫余の東北千余里のところにおり、大海に面し、南は北沃沮と境を接し、北はどこまで及ぶのかわからない。その土地は険しい山地が多い。気候は寒冷で、夫余よりも厳しいとあり、外満洲(現在のロシア連邦沿海地方)の松花江流域に居住した。
習俗
編集衣食住と人尿洗顔
編集挹婁の生活スタイルは、その東夷諸国のなかでは極めて特異である。まず、挹婁人は地上に家を建てず、地下に縦穴(竪穴)を掘り生活する。竪穴は深く(梯子の段数が多く)かつ大きいほど尊ばれたという。住居を地中に構えたのは、防寒の為と考えられている。さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮らし、その人尿で手や顔を洗ったという。尿に含まれるアンモニアは弱アルカリ性のために皮脂汚れを落とす効果があり、古代ローマでは回収した尿で洗濯する業者がいたことが現代では知られているが、当時の中国大陸ではそのような習俗はなく、『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。
また、挹婁人は養豚が盛んで、豚を主食とし、豚の皮を着物にした。夏にはほぼ全裸でわずかな布だけで前後を隠したが、冬には豚の膏(あぶら)を身体に数センチもの厚さに塗って風や寒さを防いだという。食事をするときに、他の東夷諸国では俎豆と呼ばれる食器(高坏形土器)を常用していたのに対し、挹婁人は俎豆を使う習慣が無く、鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をしていた。『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。
人が少なく、険しい山に住み、衆は規律に服さず、操船が巧みでしばしば近隣諸国を寇掠したとも記されている。また、邑落の大人(たいじん)を一つの血族が継承する習俗があり、これは、近隣の扶余や沃沮が合議による選挙で大人を選んだのとは対照的である。
毒矢使用
編集挹婁人は、弓矢に長けており、必ず人の目を射当てる。矢には毒が塗られており、人に当たれば死に至る。石製または鉄製の鏃は先端が鋭利で、血抜き或は毒を塗る為の溝や凹みを設けており精巧な造りをしている。
婚礼
編集男性は女性の頭に羽毛を挿し、女性と和んだらすぐに自分の家に持ち帰って婚礼の儀を執り行う。
葬祭
編集死者が出たらその日のうちに木を交えて小槨を作り、死者の糧とするために豬(ブタ)を殺してその上に積み、土葬する。また、男子で泣く者は「男らしくない」と言われるため、父母が死んでも、男子は泣かない。
刑罰
編集最大の罪である窃盗をした者は、その盗んだ物が多かれ少なかれ死罪となる。
政治
編集挹婁には統一的な指導者は存在せず、邑落ごとに大人(たいじん:部族長)がいた。
産業
編集五穀、麻布、赤玉、良質の貂(“挹婁の貂”)を産出。主な食料調達手段は漁業で漁網や釣竿が見つかっている。次いで農耕や養豚、他には狩猟や養犬も行っていた。
晋代の記録では「馬がいるが騎乗はせず、牛[3]と羊がいないが、多くの猪(ブタ)を飼っている」とあり、家畜は彼らの財産であった。また、遺跡からは猪と共に多数の魚や犬の骨が発見されているが、牛や鹿など他の動物の骨はあまり見られない[4]。
言語系統
編集挹婁の言語について、中国の史書は「言語は独異」と記しており[5]、当時の東北アジアの中でも独特の言語を使用していたことがわかる。
『魏志』東夷伝・挹婁に「處山林之間,常穴居。大家深九梯。以多爲好。(山林のあいだに住んでいて、いつも穴居している。大きい家は深さがはしご九段ほどある。多いほどよいとされる。)」とある。穴居とはこの場合、地下に穴を掘って住む地下式の住居のことである。『北魏書』巻一〇〇・勿吉伝に「國に大水有り、ひろさ三里餘。速末水と名づく。その地、下濕なり。城を築き、穴居す。屋の形、塚に似たり。口を上に開き、梯を以て出入りす」とあり、勿吉にも、地下式住居があったことがわかる[6]。三上次男は、こうした習俗が、その後同じ住地であったギリヤーク・コリヤークなどにもみられることを例証しており、例えば13世紀から15世紀のギリヤーク(乞列迷)について「平らな土屋に住んでいる。その屋の背に孔を開け、梯をもって出入りし、臥すのに草鋪(舗)をもってしている。これは狗の窩に類する」(『大明一統志』巻八九・女直の条所引「開原新志」)、15世紀から16世紀の野人について「野人は北海の南、大江の西にいて、平らな土屋にすんでいる。四面に門はなく、〔屋根の〕穴竅は木革を用いてこれを覆っている。平常は屋の東の梯から上下し、死者は西の梯から上下する。たまたまこの習慣を失すると、重く罰せられる。臥籍には草を以てすること、まさしく狗彘の如くである。乞列迷と隣りしている」(『遼東志』巻九・外夷・野人)と指摘している[6]。この野人について、島田好は、ツングース人は決して穴居せず、穴居するものは必ず古アジア族であるから、野人とはカラフトのギリヤーク人か、あるいはベーリング海沿岸のチュクチ人、もしくは使犬コリヤーク人でなければならないが、ギリヤークはすでに乞列迷として記載されているから、これはコリヤークに違いないとしたが、三上次男はこれも乞列迷(ギリヤーク)の一種としている[7]。ただし、ここでの、古アジア族が穴居するとみる点は評価し、こうした地下式住居が古アジア族の特徴であるとして、挹婁についても、古アジア族に連なるものとする[7]。一方、和田清は「三上教授は穴居こそ古アジア種族の特徴であるが、今日トングース民族は概して穴居しない。然るに挹婁・勿吉・黒水靺鞨は穴居するから、古アジア種族であらう、といふやうに言はれる。しかし穴居は今日陝西・甘粛の漢人もしてゐるし、我が国の原住民も或る種の竪穴に住してゐた。今日でも霧ヶ峰山麓の住民は多少の竪穴を掘ってゐるといふ。況して酷寒の北満に穴居の流行したのは寧ろ当然であつて、それが時代の進展と共に次第に廃止したのではないか。現にシホタアリン山中のオロチは同じトングース種ながら今なほ時に穴居するといふではないか」として、挹婁を古アジア族とみることに、また習俗を通して同一民族であることを考えることを批判している[7]。
- ツングース系説[8][9][10]。挹婁がのちの女真族(ツングース系)であること、比較言語学的研究により粛慎系の語彙がツングース系に近いということ[11]から、古くから支持されてきた説であり、現在では発掘調査による出土品から日用品や居住形態、食生活の連続性が確認されており、挹婁は女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。ただし、史書において粛慎系と言語が異なるとされる夫余や高句麗については非ツングース説と同じツングース系とみる説とがある[12]
- 古シベリア(古アジア)系説[9]。その独特の言語、習俗から、勿吉等の粛慎系の言語はツングース系ではなく、ニヴフ(ギリヤーク)などの古シベリア系ではないかとする説。セルゲイ・シロコゴロフ[13]や三上次男[14]などが提唱した。
脚注
編集- ^ 『アルタイ語系 語言文化比較研究』3章2節
- ^ 挹婁の言葉は夫余の言葉と違うため、一旦夫余語に通訳してから、漢語に通訳したものと思われる。
- ^ 『三国志』では牛がいると記す。
- ^ 高凱軍『通古斯族系的興起』中華書局、2006年、50-51頁。
- ^ 『魏書』列伝第八十八「言語獨異」、『北史』列伝第八十二「言語獨異」
- ^ a b 田中俊明『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、429頁。
- ^ a b c 田中俊明『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、430頁。
- ^ 日本国語大辞典『通古斯』 - コトバンク
- ^ a b 日本大百科全書『挹婁』 - コトバンク
- ^ 日本国語大辞典『粛慎・稷慎・息慎』 - コトバンク
- ^ 白鳥庫吉『塞外民族史研究』岩波書店〈白鳥庫吉全集〈第4巻〉〉、1970年1月1日。
- ^
- セルゲイ・シロコゴロフ「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている」セルゲイ・シロコゴロフ『北方ツングースの社会構成』岩波書店〈東亜研究叢書〈第5巻〉〉、1941年、285-287頁。」
- 白鳥庫吉「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう」白鳥庫吉『塞外民族史研究』岩波書店〈白鳥庫吉全集〈第4巻〉〉、1970年1月1日、536頁。
- 井上秀雄「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう」井上秀雄『東アジア民族史 1―正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫264〉、1974年12月1日、103頁。ISBN 4582802648。
- 加藤九祚「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」加藤九祚『北東アジア民族学史の研究―江戸時代日本人の観察記録を中心として』恒文社、1986年3月1日、156頁。ISBN 978-4770406385。
- 鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族―神話解読と現地踏査』中央公論新社〈中公新書〉、1992年7月1日。ISBN 978-4121010858。
- 浜田耕策「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」日本大百科全書『濊貊』 - コトバンク
- 村山正雄「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」日本大百科全書『夫余』 - コトバンク
- 佐々木史郎「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」日本大百科全書『満洲族』 - コトバンク
- 護雅夫「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」日本大百科全書『騎馬民族』 - コトバンク
- 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族」諏訪春雄. “諏訪春雄通信 50”. オリジナルの2002年10月14日時点におけるアーカイブ。
- 黄文雄「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」黄文雄『韓国は日本人がつくった』ワック〈WAC BUNKO〉、2005年5月1日。ISBN 4898315313。
- 黄文雄「そもそも高句麗も渤海国もツングース系の国家であった。女真人や満州人の国家が中国に滅ぼされたあと、清が消えてから、かつてのツングース・女真系の国々は支那と朝鮮のどちらの歴史に属するのか争うことになり、支那は正統なる相続人として、中国一八省以外に満州の地を東北三省として蒙古、新疆、西蔵をも相続し、中華民国から人民共和国の『絶対不可分の神聖なる固有領土』と主張したいのである。コリアは第二次世界大戦後、南北に二分したものの、旧高句麗や渤海の一部だった(北)朝鮮の地を国史(国定官史)にし、牝熊やタマゴという伝説からコリア人の祖先の地と主張するのも、近代国家としての領土観からすれば、実際『キリがない』の一言に尽きる」黄文雄『克 中韓論』イースト・プレス、2015年3月15日、88頁。ISBN 4781613144。
- 長野正孝「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった」長野正孝『古代史の謎は「鉄」で解ける 前方後円墳や「倭国大乱」の実像』PHP研究所〈PHP新書〉、2015年10月15日、15頁。ISBN 978-4569827285。
- 宮家邦彦「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した」宮家邦彦『哀しき半島国家 韓国の結末』PHP研究所〈PHP新書〉、2014年10月15日、160頁。ISBN 978-4569822266。
- 豊田隆雄「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家」豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』彩図社、2016年10月17日、9頁。ISBN 978-4801301856。
- 薗田香融「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』塙書房、1992年1月1日、259頁。ISBN 978-4827310863。
- 埴原和郎「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている」埴原和郎 編『日本人と日本文化の形成』朝倉書店、1993年5月1日、211頁。ISBN 978-4254101225。
- 酒井忠夫「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」酒井忠夫『世界史研究』績文堂出版〈新学生研究叢書〉、1953年、128頁。
- 渡部昇一「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである」渡部昇一『ことばの発見』中央公論新社、1977年6月1日、87頁。ISBN 978-4120004780。
- 三上次男「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる」三上次男『古代東北アジア史研究』吉川弘文館〈東北アジア史研究〈第2〉〉、1966年、87頁。
- 青木慶一「オロッコ - ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った」青木慶一『民衆と戦争』東明社、1978年11月、40頁。
- 成瀬治「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」成瀬治『世界史の意識と理論』岩波書店〈世界歴史叢書〉、1977年1月1日、116頁。
- 沖浦和光「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします」五木寛之、沖浦和光『辺界の輝き―日本文化の深層をゆく』岩波書店、2002年3月28日、32頁。ISBN 4000247026。
- 白崎昭一郎「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう」白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』吉川弘文館、1993年6月1日、49頁。ISBN 464202266X。
- 水野祐「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている」水野祐『古代の出雲』吉川弘文館〈日本歴史叢書〉、1996年3月1日、300頁。ISBN 4642066357。
- 小島直記「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句麗と、そして漢民族の移民とが住んでいたという」小島直記『松永安左エ門の生涯』松永安左エ門伝刊行会、1980年10月、1073頁。
- 外山軍治・礪波護「高句麗を建てたのは、古くから満州東部から朝鮮半島の北東部に移り住んだ貊族の一種である」「貊族はツングース系統に属する」外山軍治、礪波護『隋唐世界帝国』人物往来社〈東洋の歴史5〉、1967年、20頁。
- 佐々木高明「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている」佐々木高明『地域と農耕と文化―その空間像の探求』大明堂、1998年10月1日、317頁。ISBN 978-4470430413。
- 田中俊明「八世紀の突厥のいわゆるオルホン碑文(キョルテギン碑文とビルゲ可汗碑文)に、七世紀なかばに死んだ突厥可汗の葬儀に東方のボクリ(bokli)からの使者が参列していることや、突厥軍がボクリにまで遠征したことが記されている。これについて護雅夫は『bok eli』と読むべきで、 高句麗を指すことはまちがいないが、『貊の国』を意味するものであろう、とした。それに従えば、突厥も、高句麗を貊族の国と称したことになる」田中俊明『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、387頁。
- 村上四男「高句麗の国都が鴨緑江辺の丸都から大同江畔の平壌に移ったのは長寿王代の427年のことであるが、広開土王の没後まもなき414年に建立された広開土王碑に見られる始祖伝説や、さらに長寿王代の高句麗人が北魏に使した時に、かの地において物語ったところを、そのまま伝えたと思われる『魏書』高句麗伝に記載されている始祖伝説をば、後漢の王充が著わした『論衡』や、魏の魚豢が著わした『魏略』に引かれている旧志の始祖伝説と比較検討すれば、高句麗の始祖神話は元来はツングース系の感精型であったのが、5世紀入って南方系の卵生型に加え、いわゆる複合型に発展していったことが知られる。高句麗は小獣林王代に中国から仏教を受けいれ、また律令を採用し太学を建てて国家組織を整えたが、広開土王代には国勢が飛躍して、その領土は南方では漢江流域におよび、さらに長寿王代には百済を打倒して漢江流域を確保し、満洲では遼東を占領した。かくて高句麗国はまったく農業国家と化した。この王代に高句麗が南方型の卵生神話を採り入れたのは、卵生神話を奉ずる韓民族(すなわち農耕民族)の地を支配するようになった政治的背景の生じたことに由来したのである」佐伯, 富、羽田, 明、山田, 信夫 ほか 編『東洋史―大学ゼミナール』法律文化社、1990年1月1日、195頁。ISBN 4589004747。
- 布目潮渢・山口修「ところで公孫氏はほろびたものの、鴨緑江の中流域には、高句麗の国がある。ツングース系の民族が建てた国であった」布目潮渢、山口修『世界の歴史 六朝と隋唐帝国』社会思想社〈現代教養文庫〉、1974年7月1日、51-52頁。ISBN 4390108247。
- ^ セルゲイ・シロコゴロフ『北方ツングースの社会構成』岩波書店〈東亜研究叢書〈第5巻〉〉、1941年。
- ^ 三上次男『古代東北アジア史研究』吉川弘文館、1977年。