小見川藩
小見川藩(おみがわはん)は、下総国香取郡小見川村(現在の千葉県香取市小見川)を居所とした藩[1]。徳川家康の関東入国以来、深溝松平家・土井家・安藤家が短期間で交代した。その後、当地を所領としていた下野鹿沼藩内田家が、1724年に居所を小見川に移したため1万石で再立藩し、以後10代約150年続いて廃藩置県を迎えた[2]。
歴史
編集家康の関東入部以後
編集深溝松平家の松平家忠は、天正18年(1590年)の家康の関東入部とともに武蔵国忍城に入ったが(忍藩)、文禄元年(1592年)2月19日に下総国香取郡
家忠は鳥居元忠と共に慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。家督は子の松平忠利が継ぎ、翌慶長6年(1601年)2月に三河国深溝藩に移封された。
慶長7年(1602年)12月28日、土井利勝が1万石で入ったが、慶長15年(1610年)2月に下総国佐倉藩3万2400石に加増移封された。慶長17年(1612年)、安藤重信が1万6000石で入部した。重信は元和元年(1615年)に2万石の加増を受け、元和5年(1619年)10月にもさらに2万石加増の上で上野国高崎藩に加増移封となった。
廃藩時期
編集安藤氏の転出により小見川藩は廃藩となり、その所領は土井利勝の佐倉藩領として組み込まれた。
寛永10年(1633年)4月に利勝が古河藩に移り、佐倉藩には石川忠総が入部するが、小見川は引き続き佐倉藩領であった。その後、三浦正次(下総矢作藩)の支配となる。
内田氏
編集内田正信と鹿沼藩
編集内田氏は、遠江国城飼郡内田荘に起源を持ち[4]、古くは今川氏、のちに徳川家康に仕えた家である[1]。徳川家光に奥小姓として仕えていた内田正信は[5]、寛永16年(1639年)に下総国・常陸国で[1]8200石の加増[5]を受け、1万石の大名になった[1][5]。ただし、正信は慶安2年(1649年)に下野国都賀郡・安蘇郡内で5000石の加増を受け[5]、下野国鹿沼に居所を移した(鹿沼藩)[1][5]。なお、内田正信は慶安4年(1651年)の家光の病死に際して殉死した一人である[5]。
鹿沼藩2代藩主内田正衆のもと、小見川では用水堰の整備などが行われた[5]。元禄元年(1688年)には小見川陣屋(小見川字館之内、現在の小見川中央小学校付近の敷地)が築かれている[1]。元禄3年(1690年)頃に成立した『土芥寇讎記』には、内田正衆の居所を「下総之内小見川」と記している[6]。
小見川藩の再立藩
編集享保9年(1724年)、正信の玄孫にあたる内田正親の時代に小見川に移った[1]。正親の父にあたる内田正偏が乱心により蟄居させられ、3000石減封(これにより内田家は1万石となった[注釈 2])の上で家督相続が許されたものであった[5][7][8]。
幕府においては5代藩主内田正肥が大番頭、8代藩主内田正徳が大番頭・軍艦奉行を務めた。一方、6代藩主内田正容は不行跡により隠居を迫られている[5]。
幕末・戊辰戦争から廃藩置県まで
編集元治元年(1864年)、分家から養子として入り[5]家督を継いだ10代藩主(最後の藩主)内田正学のもとで幕末を迎える。
戊辰戦争では、房総も混乱に巻き込まれた[5]。慶応4年(1868年)3月には、脱藩藩士による蜂起が起こるなどして藩内は混乱した。[要出典]
陸奥国白川郡の飛び地領は、白河小峰城をめぐる戦闘(白河口の戦い)や棚倉城落城の影響を受け、両軍からの人馬継立や食料等の要求、敗残兵の出没、避難民の通過などの混乱が生じた[9]。
明治2年(1868年)の版籍奉還で内田正学は藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で小見川藩は廃藩となる。その後、小見川県や新治県を経て、千葉県に編入された。
歴代藩主
編集松平(深溝)家
編集1万石。譜代。
土井家
編集1万石。譜代。
- 土井利勝(としかつ)〈従四位下・大炊頭・侍従〉
安藤家
編集1万6000石。譜代。
- 安藤重信(しげのぶ)〈従五位下・対馬守〉
内田家
編集譜代。1万石。
領地
編集幕末の領地
編集分領
編集天保9年(1838年)以来、陸奥国白川郡に飛び地領を有し、仙石村(現在の福島県石川郡古殿町仙石)に陣屋を置いた。陣屋日誌などの資料(小見川陣屋文書、仙石陣屋文書などとも呼ばれる)は古殿町の重要有形文化財・考古資料に指定されており、福島県歴史資料館に「有賀真雄家文書」として収蔵されている[10][11][9]。
備考
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i 『房総における近世陣屋』, p. 15, PDF版 33/313.
- ^ 大谷貞夫. “小見川藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c 『房総における近世陣屋』, p. 14, PDF版 32/313.
- ^ 大森映子. “内田氏”. 世界大百科事典 第2版. 2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “Vol-016 藩主もいろいろ 小見川藩 内田氏”. アーカイブ香取遺産 Vol.011~020. 香取市. 2020年11月8日閲覧。
- ^ 白峰旬 2008, p. 117.
- ^ “内田正偏”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2020年11月8日閲覧。
- ^ “内田正親”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2020年11月8日閲覧。
- ^ a b “近世の古殿(戊辰戦争)”. 古殿町. 2020年11月8日閲覧。
- ^ “有賀真雄家文書(石川郡古殿町)”. 収蔵資料の一覧. 福島県歴史資料館. 2020年11月8日閲覧。
- ^ “小見川藩陣屋文書”. 古殿町. 2020年11月8日閲覧。
- ^ “正堯山本願寺(往生院)”. 千葉県内の浄土宗寺院紹介. 浄土宗千葉教区. 2020年11月8日閲覧。
- ^ a b “文化財一覧”. 香取市. 2020年11月8日閲覧。
参考文献
編集- 『千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋』千葉県教育振興財団、2013年 。
- 白峰旬「『土芥寇讎記』における「居城」・「居所」表記に関する一考察」『別府大学大学院紀要』第10号、2008年 。
先代 (下総国) |
行政区の変遷 1639年 - 1871年 (小見川藩→小見川県) |
次代 新治県 |